地下水路に満ちていた緊張が、一瞬だけ止まった。
誰もが、セイバーの次の言葉を警戒していた。
乱戦か。
奇襲か。
あるいは、ここで誰かの首が飛ぶのか。
ライダー陣営も。
ランサー陣営も。
言峰綺礼ですら、次の一言を待っていた。
だが。
キング・ブラッドレイは、静かに軍帽を被り直し。
まるで今思い出したかのように、低く言った。
「さて、今日はお開きだ」
沈黙。
ウェイバーがぽかんと口を開ける。
「……は?」
地下空間の空気が、妙な方向へ崩れた。
構わず続ける。
「切嗣」
衛宮切嗣が視線だけを向ける。
平然と言った。
「みかんを買って帰るぞ」
数秒。
本当に数秒、誰も反応できなかった。
地下には龍之介の死体が転がっている。
血の臭いが充満している。
つい先程まで怪物達との死闘が繰り広げられていた。
聖杯戦争の均衡が崩れ。
追加令呪が与えられ。
誰もが次の殺し合いを警戒していた。
その空気の中で。
セイバーは、“みかんを買って帰る”と言った。
イスカンダルが最初に吹き出した。
「ぶはっ――ははははははは!!」
征服王の豪快な笑い声が地下空間へ響く。
「貴様、本当に面白いな!」
腹を抱えて笑っている。
「その流れでみかんとは何だ!」
「戦場の空気を全部壊しおったぞ!」
ウェイバーは呆然としていた。
「いや、え?」
「今そんな話!?」
一方。
ディルムッドは数秒真顔を保った後、僅かに視線を逸らした。
笑うまいとしている。
だが完全に耐え切れていない。
ケイネスは露骨に顔をしかめた。
「……なんなんだ貴様は本当に」
心底理解不能だった。
数分前まで、あれほど冷徹な処刑人の顔をしていた男が。
今は平然と夕飯帰りのような事を言っている。
その落差が異常すぎる。
だが。
誰よりも奇妙な顔をしていたのは、衛宮切嗣だった。
「……みかん?」
当然のように頷く。
「イリヤと私が食べ尽くした」
「冬場だ、風邪予防にもなる」
あまりにも真面目な声音だった。
冗談ではない。
本気だ。
切嗣は数秒沈黙した後、深く煙草の煙を吐いた。
「……こんな状況でよく覚えていたな」
「必要な事は忘れん」
即答。
サーベルを腰へ戻しながら、平然と続ける。
「それに、戦場帰りに甘味を買うのは悪くない」
「気分が切り替わる」
その言葉に。
綺礼の目が僅かに細まった。
(なるほど)
言峰綺礼は理解する。
この男は、本当に異常だ。
戦場と日常を完全に切り分けている。
何百人殺そうと。
どれほど血に塗れようと。
その直後に、“帰宅後のみかん”を自然に考えられる。
普通の兵士なら壊れている。
普通の殺人者なら狂っている。
だが。
キング・ブラッドレイは、その両方を成立させている。
怪物でありながら。
異様なほど生活感がある。
それが綺礼には、奇妙に映った。
「ふ……」
神父の口元が、僅かに歪む。
「貴様は本当に、不思議な男だなセイバー」
セイバーはちらりと綺礼を見る。
「そうかね?」
「少なくとも、今この空気でみかんの話を始める英霊は初めて見た」
イスカンダルがまた大笑いする。
「違いない!!」
地下空間の空気が、少しだけ緩む。
ほんの一瞬だけ。
殺し合いを忘れるように。
だが。
切嗣だけは理解していた。
これは単なる気分転換ではない。
セイバーなりの“終了宣言”だ。
これ以上は戦わない。
今日はここまでだと。
だからあえて、くだらない日常の話を口にした。
空気を切るために。
戦場を終わらせるために。
衛宮切嗣は小さく息を吐く。
「……分かった」
コートを翻し、出口へ歩き出す。
「帰りに寄るぞ」
「うむ」
満足そうに頷いた。
そのまま二人は地下通路の出口へ向かう。
背中を見せている。
普通ならありえない。
聖杯戦争で、敵へ背を向けるなど自殺行為だ。
だが。
誰も動かなかった。
いや。
動けなかった。
今ここで斬りかかれば。
間違いなく地下空間は再び血の海になる。
誰もそれを望んでいない。
少なくとも今夜は。
出口へ向かいながら、ふと思い出したように言う。
「切嗣」
「なんだ」
「みかんは箱で買うか?」
切嗣は額を押さえた。
「……好きにしろ」
そのやり取りを聞きながら。
言峰綺礼は静かに二人の背を見送っていた。
怪物。
殺人者。
だが。
あの背中には奇妙な“日常”があった。
それが綺礼には、どうしようもなく理解できない。
そして。
理解できないからこそ、興味深かった。