アインツベルン城へ戻る頃には、空が薄く白み始めていた。
冬木の夜明け前。
最も静かな時間。
雪こそ降っていないが、空気は鋭く冷たく、吐く息が白い。
森の奥に佇む城は、相変わらず現実感の薄い姿でそこにあった。
つい数時間前まで。
地下水路では血が流れ、悲鳴が響き、サーヴァント同士の殺気がぶつかっていた。
だが。
ここには静寂がある。
暖炉の火。
柔らかな灯り。
人の生活の匂い。
戦場とは切り離された、束の間の日常だった。
玄関扉を開けると、暖かな空気が流れ出る。
リビングには灯りが残っていた。
アイリスフィールが、ソファで静かに本を読んでいる。
銀色の髪が暖炉の火に照らされ、柔らかく揺れていた。
彼女は扉の音に顔を上げる。
そして。
二人の姿を見た瞬間、安堵したように微笑んだ。
「おかえりなさい」
その言葉だけで。
地下に残っていた血の匂いが、少しだけ遠ざかる。
切嗣は短く答える。
「……ああ」
セイバーは片手に持っていた袋を持ち上げた。
「みかんを買ってきた」
アイリスフィールが、一瞬きょとんとする。
「……みかん?」
「うむ」
真顔だった。
「切れていただろう」
アイリスフィールは数秒沈黙した後、ふっと笑う。
「ふふ……ありがとう」
切嗣はコートを脱ぎながら、そのやり取りを横目で見ていた。
戦場では、あれほど冷徹な男が。
今は本当に、“ただみかんを買って帰ってきた人”の顔をしている。
その切り替えに、未だ慣れない。
セイバーは袋をテーブルへ置くと、軍帽を脱いだ。
ようやく見える額には、僅かな汗。
だが疲労はほとんど感じさせない。
「子供達は?」
アイリスフィールが静かに尋ねる。
セイバーの表情が、ほんの少しだけ硬くなる。
「……助かった者もいる」
それだけだった。
それ以上は語らない。
語る必要もない。
アイリスフィールは、その沈黙から全てを察した。
「そう……」
小さく目を伏せる。
切嗣は煙草を取り出しかけて、やめた。
代わりにソファへ深く腰を下ろす。
身体が重い。
精神も。
キャスターは倒した。
だが。
綺礼の事が頭から離れない。
あの男は確実に動き始めている。
そして。
セイバーにも興味を抱いている。
それが妙に嫌だった。
一方。
暖炉の前へ立ち、静かに火を見つめていた。
ぱち、と薪が爆ぜる。
その横顔には、戦場の気配が残っている。
だが。
不思議と空気は穏やかだった。
やがて。
アイリスフィールがみかんを一つ剥き始める。
冬の静かな音。
皮の裂ける匂いが、暖かな部屋へ広がった。
「はい、セイバー」
差し出されたみかんを受け取る。
「……うむ」
真面目な顔で一房食べる。
数秒。
「甘いな」
アイリスフィールが笑う。
「当たりだったみたい」
その光景を見ながら。
切嗣は静かに目を閉じた。
束の間だった。
本当に短い時間だけ。
戦争を忘れられる。
暖炉。
みかん。
穏やかな会話。
普通の家庭なら、どこにでもある光景。
だが。
自分達には、その“普通”が酷く遠い。
だからこそ。
今この瞬間だけは、妙に胸へ染みた。
セイバーが、ふと切嗣を見る。
「どうした」
「……別に」
「顔が死んでいるぞ」
「元からだ」
即答。
アイリスフィールが思わず吹き出す。
セイバーも僅かに口元を歪めた。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけだったが。
それは、戦場では決して見せない表情だった。
暖炉の火が揺れる。
外は寒い。
戦争は終わらない。
明日になれば、また誰かを疑い、殺し合う。
綺礼も。
遠坂も。
ケイネスも。
全員が動き出す。
だが。
今だけは違った。
サーヴァントでも。
魔術師でも。
殺人者でもない。
ただ。
みかんを食べながら暖炉を囲む、奇妙な同居人達だった。
その束の間の日常が。
あまりにも静かで。
あまりにも儚かった。