冬の夜風が静かに吹き抜ける。
酒の香り。
みかんの甘い匂い。
そして、
聖杯という言葉だけが、
その場に妙な重みを落としていた。
セイバーは黄金の杯を軽く揺らしながら、
ぽつりと続ける。
「私は、埋葬機関に入る前は、
軍人として戦場を渡り歩いていた」
ライダーの眉が僅かに動く。
ギルガメッシュは静かに耳を傾ける。
「魔力など無い。
純粋な剣士だった」
セイバーは自嘲気味に笑った。
「だから正直、
魔術というものは今でも理解出来ん」
ケイネスの眉がぴくりと跳ねる。
「……何だと?」
「理論は分かる。
原理も聞いた。
だが感覚として理解出来ん」
セイバーは平然としていた。
「見えんものは見えん」
魔術師達からすれば、
常識外れもいい所だった。
魔術回路も、
神秘への探究も、
根源への渇望も。
この男には根本的に馴染んでいない。
それなのに。
英霊として成立している。
それが異常だった。
セイバーは酒を一口飲み、
静かに続ける。
「正直今更だが――」
黄金の杯を見つめる。
「万能の願望機、
聖杯というのは……
本当にまともな物なのか?」
沈黙。
空気が変わる。
それまで談笑していた空気が、
僅かに冷えた。
切嗣の目が鋭くなる。
ケイネスは不快そうに眉を顰め。
ウェイバーは戸惑い。
ディルムッドは静かに考え込む。
そして。
ギルガメッシュが、
最初に笑った。
「クク……」
低い笑い。
「今更そこを疑うか、セイバー」
「疑問には思う」
セイバーは淡々と言った。
「人類史において、
“万能”を名乗る物で、
碌な結末を見た覚えが無い」
ライダーが豪快に笑う。
「違いない!」
「大体そういう物は、
国を滅ぼすか、
人を狂わせる」
セイバーの目は静かだった。
「ならば聖杯も、
似たような物ではないのか?」
その問いに。
誰も即答出来なかった。
何故なら――。
その疑問は、
あまりにも本質だったからだ。
ケイネスが低く言う。
「聖杯は第三魔法に至る器だ」
「ふむ」
「奇跡そのものだ。
疑う余地など無い」
だが。
セイバーは静かに首を傾げた。
「なら聞くがロード・エルメロイ」
「……何だ」
「貴様は、
それを見たのか?」
ケイネスが黙る。
「本当に願いを叶えた者を?」
「……記録には残っている」
「つまり実際には見ていない」
その言葉に、
ケイネスの顔が僅かに険しくなる。
だが反論は出来ない。
魔術師達にとって、
聖杯は悲願。
到達点。
だが。
“実在を証明した者”は居ない。
少なくとも、
この場には。
セイバーは雪空を見上げる。
「私は戦場で、
“奇跡”という言葉を何度も聞いた」
静かな声だった。
「だが大抵の場合、
それは誰かの死体の上に成り立っていた」
風が吹く。
「だから私は、
奇跡というものを信用していない」
その言葉に。
切嗣の指が、
僅かに止まった。
……似ている。
衛宮切嗣もまた、
奇跡を信じ切れなくなった男だった。
理想を抱きながら。
現実に擦り潰され続けた。
だから、
犠牲を選ぶようになった。
一方。
ライダーは腕を組み、
楽しそうに笑う。
「だがそれでも、
人は夢を見る!」
「否定はせん」
セイバーは頷く。
「願わねば、
前へ進めん時もある」
「うむ!」
「だが私は、
願望機より自分の剣を信用する」
その瞬間。
ギルガメッシュが、
心底愉快そうに笑った。
「クハハハハハ!!」
黄金の王は杯を掲げる。
「良い!!
実に良いぞセイバー!!」
その紅い瞳が細まる。
「奇跡を疑い、
己の力だけを信じるか!」
ギルガメッシュは笑う。
まるで、
極上の酒でも味わうように。
「やはり貴様、
英雄というより兵士だな」
セイバーは薄く笑った。
「ああ」
そして静かに言う。
「私は最後まで、
ただの人間の兵士だったよ」
その言葉が落ちた瞬間。
庭園の空気が、
僅かに変わった。
雪が静かに舞う。
酒を飲んでいたライダーの手が止まり、
ウェイバーが顔を上げる。
ケイネスは眉を顰め。
ディルムッドは静かにセイバーを見る。
そして――。
ギルガメッシュだけが、
薄く笑った。
セイバーは黄金の杯を見つめながら、
静かに続ける。
「仮に聖杯が、
穢れたもので――」
風が吹く。
「厄災をもたらす物だとしたら、
どうする?」
沈黙。
それは冗談ではない。
戦場を知る者の、
極めて現実的な疑問だった。
万能の願望機。
そんな都合の良い物が、
本当に無害で存在するのか。
もし違ったなら?
もしそれが、
人類にとって災厄そのものだったなら?
誰が、
どう責任を取る?
最初に口を開いたのは、
ケイネスだった。
「……あり得ん」
低い声。
「聖杯は冬木の大聖杯。
三家によって構築された魔術体系だ」
だが。
セイバーは静かに視線を向ける。
「それは“安全だ”という証明にはならん」
「……」
「兵器も宗教も理想も、
作った側が制御出来るとは限らない」
ケイネスが黙る。
その言葉には、
妙な説得力があった。
戦争を知る者の言葉。
理想が、
どれだけ簡単に暴走するか知っている声だった。
ライダーが腕を組む。
「ふむ……」
征服王は珍しく真面目な顔をしていた。
「確かに、
余も万能など信用しておらん」
ウェイバーが驚く。
「えっ」
「当然だ坊主!」
ライダーは笑う。
「人の夢に“完全”など無い!
故に面白いのだ!」
そして。
少しだけ目を細めた。
「だがもし、
その聖杯が世界を焼く災厄なら――」
征服王は豪快に笑う。
「余は真正面から叩き潰す!」
雷鳴のような声。
「夢とは!
人が生きる為のものだ!
人を滅ぼす夢など認めん!」
その言葉には、
王としての覇気があった。
ギルガメッシュは鼻で笑う。
「青臭いな征服王」
「貴様は違うのか黄金王!」
すると。
ギルガメッシュは静かに杯を置いた。
紅い瞳が、
僅かに冷える。
「もし聖杯が、
余の所有物として相応しくない“汚物”なら――」
空気が軋む。
「この世から消す」
ウェイバーが息を呑む。
その声音には、
一切の冗談が無かった。
英雄王は続ける。
「財とは、
王の庭を飾る物だ」
黄金の瞳が、
夜空の先を見据える。
「庭へ泥を撒く塵など、
踏み潰すだけよ」
その瞬間。
切嗣は窓の奥で、
静かに目を細めた。
……似ている。
やり方も、
思想も違う。
だが。
“必要なら破壊する”。
その一点だけは、
自分と同じだった。
そして。
全員の視線が、
自然とセイバーへ戻る。
セイバーは少し黙り――。
やがて、
静かに笑った。
疲れたような、
乾いた笑み。
「そうか」
それから、
黄金の酒を飲み干す。
「なら安心だ」
「何?」
ライダーが聞き返す。
セイバーは静かに言った。
「もし本当に、
聖杯が厄災なら――」
雪が降る。
その瞳が、
一瞬だけ戦場の色へ変わった。
「私は迷わず斬る」
空気が止まる。
ウェイバーの背筋に寒気が走った。
その言葉には、
覚悟があった。
願いを捨てる覚悟。
奇跡を壊す覚悟。
自分の望みすら、
切り捨てる覚悟。
だから恐ろしい。
この男は本当にやる。
必要だと判断すれば、
聖杯だろうが、
奇跡だろうが、
躊躇なく破壊する。
ギルガメッシュは、
そんなセイバーを見て笑った。
心底愉快そうに。
「クク……」
黄金の王は目を細める。
「貴様、
つくづく英雄らしくないな」
セイバーもまた、
薄く笑う。
「ああ」
静かな声。
「私は最後まで、
英雄には向いていなかった」
雪が降る。
静かな夜だった。
酒の香りも、
笑い声も、
みかんの甘い匂いも。
その一言が落ちた瞬間、
全てが僅かに遠のいた。
セイバーは黄金の杯を静かに置く。
そして、
右目を覆う黒い眼帯へ、
ゆっくりと触れた。
「私のこの眼帯の下には――」
風が吹く。
「全てを見るだけの魔眼がある」
沈黙。
ライダーの笑みが止まり。
ディルムッドの瞳が細まり。
ケイネスは反射的に警戒姿勢を取る。
そして。
ギルガメッシュだけが、
興味深そうに目を細めた。
「……ほう?」
セイバーは淡々と続ける。
「未来視でもない。
精神干渉でもない。
呪いでもない」
指先が、
静かに眼帯を叩く。
「ただ“見える”だけだ」
その声音には、
誇示も自慢も無かった。
むしろ。
どこか疲れている。
「視線。
筋肉。
呼吸。
殺気。
重心。
魔力。
癖。
感情。」
雪が静かに舞う。
「全てが線のように繋がって見える」
ウェイバーが息を呑む。
「それって……」
「戦場では便利だった」
セイバーは静かに笑う。
「銃弾も、
剣筋も、
砲撃も、
大体分かる」
ケイネスの額に、
冷たい汗が流れた。
……だからか。
キャスターの怪物群。
あの異常な乱戦の中で、
この男だけが一切迷わなかった理由。
全て見えていた。
戦場全体が。
敵も。
味方も。
死角も。
殺意も。
ギルガメッシュが、
愉快そうに笑う。
「クク……
なるほど」
黄金の瞳が細まる。
「だから貴様、
あれほど正確に殺せるのか」
「まあな」
セイバーはあっさり認める。
「慣れれば、
相手が何秒後に死ぬかも何となく分かる」
ウェイバーの顔が引き攣った。
“何となく”で言う台詞ではない。
ライダーですら、
僅かに真顔になる。
「……それは、
随分と孤独な眼だな」
その言葉に。
セイバーは少しだけ黙った。
そして。
「そうかもしれん」
静かに答える。
「見え過ぎるというのは、
案外疲れる」
雪空を見上げる。
「戦場では、
死ぬ者が先に分かる」
風が吹く。
「誰が恐怖しているかも、
誰が覚悟を決めたかも見える」
その声は、
どこか遠かった。
「……だから、
人間を嫌いになれなかった」
沈黙。
ギルガメッシュの笑みが薄れる。
ライダーも、
静かに耳を傾けていた。
セイバーは続ける。
「どれほど醜くても、
どれほど愚かでも――」
眼帯へ触れる。
「死ぬ瞬間の人間は、
案外綺麗だ」
その言葉には、
数え切れない死を見送った者だけが持つ重みがあった。
ディルムッドが静かに問う。
「……その眼で、
今の我々はどう見える?」
セイバーは少し考え――。
そして小さく笑った。
「酒臭いな」
一瞬の静寂。
次の瞬間。
ライダーが腹を抱えて笑い出した。
「ハッハッハッハッハ!!」
ウェイバーも吹き出す。
ケイネスは頭を抱え。
ギルガメッシュですら、
堪え切れずに笑った。
だが。
その笑いの奥で。
誰もが理解していた。
この男は、
本当に戦場を見過ぎてしまったのだと。
見え過ぎる眼で、
地獄を渡り歩き過ぎたのだと。
だからこそ。
普通に生きて、
普通に老いて、
普通に死ぬ。
そんな当たり前の願いに、
これほど執着しているのだと。