黒い泥が、脈動していた。
暖炉の火は既に黒く染まり。
部屋の温度すら狂い始めている。
アイリスフィール――の背後から溢れる“それ”を見ながら。
セイバー――は静かに頷いた。
「ああ」
眼帯の奥。
魔眼が、黒泥の奥底を見通している。
「人類の怨念」
「悪意」
「負の感情」
「その塊だ」
黒い腕が蠢く。
まるで、人の形を真似しようとしているように。
だが、その本質は“否定”だった。
人間を憎み。
人間を呪い。
人間を壊すためだけに存在する何か。
ライダー――が険しい顔で低く呟く。
「……こんなものを“願望機”として扱っていたのか」
ランサー――も槍を握る手へ力を込める。
「聖杯を手にした者の願いが歪む理由か……」
切嗣はアイリスフィールを支えながら、黒泥を睨んでいた。
彼は理解してしまった。
自分が追い求めた奇跡。
世界平和。
救済。
その全てが、この“悪意”を通して叶えられるという事を。
つまり。
最悪の形で。
セイバーは静かに言った。
「間違いなく、地獄になるな」
淡々とした声。
だが。
それは確信だった。
「願いを叶えるのではない」
「願いを“利用する”」
「人間の絶望を拡大する形でな」
ギルガメッシュ――が不快そうに鼻を鳴らした。
「反吐が出る」
黄金の王の声には、明確な嫌悪があった。
「人の欲望を喰らい肥大化する器だと?」
「下らん」
ライダーが豪快な顔を歪める。
「英雄の夢を叶えるどころか、人間を破滅へ導くか」
「随分趣味の悪い聖杯だ」
その時だった。
黒泥の中から、無数の声が響く。
怨嗟。
泣き声。
呪詛。
『たすけて』
『ころして』
『どうして』
『ゆるさない』
空気が震える。
ランサーが顔をしかめた。
「……これは……」
セイバーの魔眼が細くなる。
「取り込まれた人格の残滓か」
黒泥は、ただのエネルギーではない。
人間そのものだ。
絶望し。
壊れ。
憎悪に染まり。
最後には、泥へ呑まれたもの達。
セイバーは静かに双剣を構える。
「切嗣」
低い声。
「結論は出た」
切嗣は無言で頷く。
迷いはもう無かった。
長年追い続けた願望機。
その正体がこれなら。
答えは一つだ。
セイバーは黒泥を見据える。
「聖杯は破壊する」
その瞬間。
黒い腕が、一斉に蠢いた。
まるで。
その言葉へ反応したかのように。
黒い泥が、脈打つ。
まるで心臓のように。
暖炉の火は完全に黒へ染まり、部屋そのものが異界へ侵食され始めていた。
アイリスフィール――を中心に、空間が軋む。
人類の悪意。
呪詛。
怨念。
願望機の正体。
その全てを見届けた後。
セイバー――は、静かに双剣を下ろした。
「……聖杯戦争どころでは無いな」
その声には、もはや戦争への執着は無かった。
あるのは、災厄への警戒だけ。
ライダー――も笑みを消したまま頷く。
「うむ」
「これは最早、英雄同士の争いではない」
ランサー――が低く呟く。
「放置すれば、冬木そのものが滅びる……」
ギルガメッシュ――は不愉快そうに黒泥を見下ろしていた。
「雑種共の悪意を濃縮した結果がこれか」
「くだらんな」
その時だった。
セイバーの魔眼が、部屋の隅を捉える。
誰も居ないはずの暗闇。
だが。
呼吸。
殺気。
気配遮断。
完璧に近い隠密。
しかし。
セイバーの眼からは逃れられない。
「……アサシン」
静かな声。
部屋の空気が張り詰める。
切嗣が即座に銃へ手を伸ばす。
ランサーが槍を構える。
だが。
セイバーは平然としていた。
「居るのだろう?」
沈黙。
次の瞬間。
部屋の隅。
影が揺らいだ。
そこから現れたのは、黒衣の英霊。
アサシン――
その姿を見ても、誰も驚かなかった。
既に全員、死の偽装を疑っていた。
ギルガメッシュが愉快そうに笑う。
「クク……」
「隠れる意味はあったか?」
アサシンは沈黙したまま、黒泥を見ている。
仮面越しですら分かる。
動揺。
そして恐怖。
セイバーは淡々と言った。
「教会に報告しろ」
静かな声。
だが絶対だった。
「これは聖杯戦争の範疇を超えている」
「監督役にも知らせるべきだ」
アサシンが低く問う。
「……信用出来ると?」
その問いに。
セイバーは数秒沈黙し。
やがて。
冷たく答えた。
「出来ん」
即答だった。
切嗣が苦笑する。
ギルガメッシュは笑っている。
だが。
セイバーは続けた。
「それでも動かす必要はある」
「放置すれば、全員死ぬ」
黒泥が脈動する。
空気が腐る。
『ころして』
『たすけて』
『ゆるさない』
無数の声。
アサシンですら、一歩下がった。
セイバーの声が低くなる。
「言峰綺礼にも伝えろ」
「これは“聖杯”ではない」
魔眼が黒泥を見据える。
「人類悪に近い何かだ」
その瞬間。
黒泥の奥で。
“何か”が笑った。
無数の怨嗟。
人間の悪意そのもの。
その中心で。
セイバー――は、静かにアサシンを見据えた。
「教会に伝えろ」
低い声。
もはや戦争中の敵へ向ける口調ではない。
災害対策の指示だった。
「最悪、焦土になっても良い場所を用意しろ」
アサシン――の仮面が僅かに揺れる。
セイバーは続けた。
「もしくは、広く強固な魔術工房だ」
魔眼が黒泥を睨む。
「ここで暴れさせる訳にはいかん」
その瞬間。
黒い腕が壁へ触れた。
じゅううう、と音を立て。
アインツベルンの強固な結界が腐り落ちる。
ランサー――が険しい顔になる。
「結界を侵食している……!」
ライダー――も真顔だった。
「時間が無いぞ」
切嗣はアイリスフィールを抱き寄せながら、黒泥を睨む。
「移送中に暴走したら?」
セイバーは即答した。
「私が抑える」
その言葉に、一切の迷いは無かった。
ギルガメッシュ――が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「当然のように言うな、雑種」
「これを抑え込む気か?」
セイバーは黒泥から視線を逸らさない。
「可能か不可能かではない」
「やるしかない」
その瞬間。
黒泥の奥で、“何か”が脈動した。
空気が震える。
部屋中の窓ガラスが砕け散る。
アイリスフィールが苦しそうに呻いた。
「っ……!」
黒い筋が、彼女の首筋まで侵食している。
セイバーの表情が初めて険しくなる。
「急げ」
声が低い。
殺気すら混じっていた。
「完全に繋がれば、冬木が終わる」
アサシンが数秒沈黙し。
やがて、静かに頷いた。
「……承知した」
その姿が影へ溶ける。
気配遮断。
一瞬で消える。
ライダーが腕を組む。
「さて、どうする?」
切嗣が冷静に答える。
「候補は二つ」
「冬木港」
「もしくは、遠坂の地下工房」
ランサーが目を細める。
「遠坂が協力するか?」
「するしかない」
切嗣は即答した。
「これはもう、“聖杯戦争”じゃない」
その時。
黒泥の中から、ゆっくりと“顔”のようなものが浮かび上がる。
人間。
いや。
人間だったもの。
絶望に歪みきった無数の貌。
ライダーが険しい顔で呟く。
「……地獄そのものだな」
セイバーは静かに双剣を構えた。
「だからこそ」
眼帯の奥。
魔眼が赤く光る。
「ここで止める」
黒泥が脈動する。
空間が軋み。
壁が腐り。
暖炉の火すら呪詛へ染まり始めていた。
アイリスフィール――の背後から伸びる黒い腕。
その一本一本が、世界へ悪意を撒き散らしている。
セイバー――は、それを見据えたまま静かに言った。
「英雄王」
黄金の王――が赤い瞳を向ける。
「なんだ、雑種」
セイバーは双剣を軽く見下ろした。
現代製の軍刀。
人を斬るには十分。
英霊すら殺せる業物。
だが。
眼帯の奥の魔眼は理解していた。
「あれは、人類悪に近い」
黒泥を見る。
「私のサーベルでは、あれは切れん」
静かな声。
初めてだった。
この男が、自分の武器不足を認めたのは。
ライダー―が真顔になる。
ランサー――も息を呑む。
セイバーは黄金の王を見た。
「剣を二振り貸してくれないかね?」
沈黙。
次の瞬間。
ギルガメッシュが、ゆっくり笑った。
「……ほう」
黄金の波紋が広がる。
『王の財宝』。
神代の武具が無数に姿を現す。
部屋そのものが悲鳴を上げた。
空気が重い。
神秘の密度が違う。
ギルガメッシュは愉快そうに言う。
「王の財を借りるか、雑種」
セイバーは平然としている。
「必要だからな」
「今は意地を張っている場合ではない」
その返答に。
ギルガメッシュの笑みが深くなる。
「クク……」
「良い」
「実に良い」
黄金の王は、初めて本気で愉快そうだった。
「力を誇示せず」
「必要を理解し」
「勝つために最善を選ぶ」
「実に人間らしい」
次の瞬間。
二つの波紋が、ゆっくり開く。
そこから現れたのは。
黒と白。
対になる神剣。
片方は漆黒。
もう片方は白銀。
どちらも、ただ存在するだけで空間を裂いていた。
ランサーが息を呑む。
「これは……!」
ライダーが目を見開く。
「神代級か……!」
ギルガメッシュは不敵に笑う。
「一本は“概念を断つ剣”」
「もう一本は“神秘を固定する剣”だ」
「雑種の技量なら扱えるだろう」
セイバーは静かに二振りを受け取る。
その瞬間。
空気が変わった。
黒泥が、明確に反応する。
まるで。
“危険”を察知したように。
黒い腕が一斉に蠢いた。
『■■■■■■■■■■』
人の声ではない。
怨念の集合。
それが。
初めて“恐怖”を滲ませる。
セイバーはゆっくりと構える。
神代の双剣。
その姿は、まるで処刑人だった。
眼帯の奥。
魔眼が限界まで開く。
見る。
黒泥の構造。
流れ。
核。
呪い。
そして。
“斬れる場所”。
セイバーは低く呟いた。
「……見えた」
切嗣が息を呑む。
ギルガメッシュが笑う。
ライダーが獰猛に笑みを浮かべる。
そして。
セイバーは一歩前へ出た。
「少しばかり」
神代の双剣が、低く唸る。
「地獄を切り開くぞ」