アインツベルン城――。
冬の夜気を裂くように、黒い泥が脈動していた。
城の石壁を侵食し、床を溶かし、天井からは粘つく闇が血管のように垂れ下がる。空気そのものが呪詛へ変質している。肺に吸い込むだけで、人間の精神を腐らせるほどの濃密な悪意。
それはもはや“聖杯”ではなかった。
人類が積み上げた憎悪。
嫉妬。
絶望。
殺意。
救われなかった願い。
踏み躙られた祈り。
それら全てが混ざり合い、形を得た“悪”そのもの。
そして、その中心で――
アイリスフィール・フォン・アインツベルンが、苦痛に震えていた。
「……っ、ぁ……あ……」
白銀の髪が黒く染まり始めている。
肌には亀裂のような黒い紋様。
瞳は濁り、身体の内部から泥が脈打つ。
彼女はまだ生きていた。
だが、“器”として聖杯に接続されたことで、内側から侵食されている。
切嗣は歯を食いしばった。
怒りではなく、壊れそうなほどの焦燥が混じっていた。
だが。
現実は無慈悲だった。
泥は広がる。
止まらない。
理解した瞬間には、もう遅い。
人を呪い、人を侵し、人を塗り替える。
その性質を、サーヴァント達は既に肌で理解していた。
――故に。
今、この場にいる全員が、“聖杯戦争”という枠組みを忘れていた。
敵味方など、既に意味を成さない。
これを放置すれば。
冬木そのものが地獄になる。
「……始まるぞ。」
低く。
静かに。
セイバー――キング・ブラッドレイが前へ出た。
右手には、黄金に輝く異形の神剣。
“概念を断つ”剣。
左手には、銀白色の直剣。
“神秘を固定する”剣。
どちらも本来、人の手で扱える代物ではない。
だが。
英雄王は貸した。
黙って。
不敵に笑いながら。
「壊すなよ、雑種。」
「ああ、努力しよう。」
短いやり取り。
だがその瞬間だけは、互いに“敵”ではなかった。
ブラッドレイはゆっくりと眼帯へ手を掛けた。
外される。
露わになる、“究極の眼”。
瞬間。
世界が変わった。
泥の流れ。
呪いの循環。
魔力の波動。
空間の歪み。
アイリスフィール内部へ伸びる無数の“悪意の根”。
全てが視える。
否。
“理解できる”。
「……成程。」
ブラッドレイは呟いた。
「これが、人間の底か。」
その声音には、軽蔑も絶望もなかった。
ただ。
静かな理解だけがあった。
人間を知り尽くした男だからこそ。
この泥を否定しきれなかった。
憎しみも。
怒りも。
醜さも。
確かに人の一部なのだ。
だが同時に。
人は、それだけではない。
「故に――」
剣が構えられる。
「ここで止める。」
その瞬間。
黒泥が反応した。
ゴボリ――ッ!!
城全体が脈動。
巨大な波となって泥が吹き上がる。
人の顔。
泣き声。
断末魔。
笑い声。
無数の怨嗟が泥の表面に浮かび上がる。
『死ね』
『苦しめ』
『奪え』
『壊せ』
『許さない』
言葉そのものが呪いだった。
ランサーが槍を構える。
「胸糞の悪い代物だな……!」
ライダーは鼻を鳴らした。
「ハッ!世界征服より趣味が悪い!」
アサシン達は無言で散開。
気配遮断を維持したまま、泥の拡散経路を監視する。
ギルガメッシュだけは笑っていた。
愉悦ではない。
これは、“見定め”だ。
人類が何処まで抗えるか。
王として。
ただ観ている。
そして。
泥が、アイリスフィールの口から噴き出した。
「――来るぞ。」
切嗣が叫ぶ。
直後。
黒い濁流がサーヴァント達へ襲い掛かった。
「行くぞ!!」
ブラッドレイが踏み込む。
速い。
視界から消えるほどの神速。
そして――。
神剣が振るわれた。
斬ッ――――!!
空間ごと、黒泥が裂けた。
否。
“概念”そのものが断たれた。
本来、斬れるはずのない呪詛。
形を持たぬ悪意。
それが、切断されている。
泥が絶叫した。
空間全体へ悲鳴が響く。
だが。
切っただけでは終わらない。
裂けた泥が再生を始める。
即座に。
ブラッドレイは左手の銀剣を突き立てた。
「固定する。」
ギィィィィィィ――――ッ!!
神秘が縫い止められる。
再生が止まった。
初めて。
黒泥が“傷”を負った。
「今だ!!」
ライダーの戦車が突撃。
神威の車輪が雷を撒き散らし、泥を吹き飛ばす。
ランサーは呪いを裂きながら突進。
紅と黄の双槍が、泥内部の魔力核を穿つ。
アサシン達は四方から結界杭を打ち込み、侵食範囲を封鎖。
切嗣は魔術礼装を起動。
起源弾ではなく、“封印”に全力を注ぐ。
今は殺し合いではない。
一秒でも時間を稼ぐ。
そのためだけに動く。
だが――。
黒泥は、笑った。
否。
笑ったように見えた。
次の瞬間。
泥の奥で、“何か”が目を開く。
巨大だった。
深淵そのもののような瞳。
世界の裏側から覗き込む、“悪”。
ギルガメッシュの笑みが、初めて消える。
「……ほう。」
ライダーの額に汗が流れる。
ランサーが低く呟く。
「まだ、本体ですらないのか……」
そして。
ブラッドレイだけが。
静かに、その“奥”を見据えていた。
究極の眼が。
泥のさらに先――
“聖杯の核”を捉える。
「……居るな。」
その瞬間。
泥の全てが、セイバーただ一人へ殺到した。
「……まったく。」
黒泥の濁流を真正面から受けながら。
――キング・ブラッドレイは、深く息を吐いた。
「化け物に好かれるのは、ごめんだがね。」
ぼやき。
だがその声音には、恐怖も焦燥もない。
ただ、面倒な戦場へ放り込まれた老兵のような、乾いた諦観だけがあった。
次の瞬間。
泥が吼える。
無数の腕。
無数の顔。
絶望と憎悪の塊が、一斉にブラッドレイへ食らいついた。
――だが。
「遅い。」
斬光。
黒が裂ける。
概念断裂の神剣が振るわれるたび、“呪い”そのものが切断されていく。
泥は本来、斬れない。
形を持たぬ悪意だからだ。
だがブラッドレイは、“悪意が繋がっている構造”そのものを視ていた。
究極の眼。
それは単なる動体視力ではない。
流れ。
循環。
繋がり。
因果。
“どこを断てば全体が崩れるか”。
それを見抜く眼。
「そこか。」
斬る。
黒泥の奔流が、一瞬で瓦解。
直後。
再生しかけた呪詛へ、銀白の神剣が突き刺さる。
「固定。」
空間が軋む。
呪いが硬直する。
泥は絶叫しながら、その場で凍りついたように停止した。
ライダーが笑う。
「ハッハァ!!見事よセイバー!!」
神威の車輪が雷鳴を轟かせる。
轢き潰される泥。
ランサーも続く。
「押し切るぞ!!」
紅槍が因果を裂き。
黄槍が魔力循環を破壊する。
アサシン達は屋根と壁面を駆け、拡散する泥へ次々と封印杭を撃ち込んでいた。
気配遮断を維持したままの精密作業。
まるで城全体を縫い止めるかのような動き。
切嗣は歯を食いしばりながら魔術回路を酷使する。
肺が焼ける。
神経が軋む。
それでも止まれない。
アイリスフィールがまだ生きている限り。
ここで退く選択肢は無かった。
そして。
ブラッドレイは前進を止めない。
泥の中心へ。
さらに奥へ。
まるで“敵陣へ突撃する歩兵”のような足取りで。
ゴボッ――!!
黒泥が突然、人型を形成する。
兵士。
老人。
女。
子供。
無数の“人間”の形。
それら全てが泣き、喚き、呪っていた。
『助けて』
『殺して』
『許さない』
『何故俺だけが』
『苦しい』
『奪われた』
人類の負感情。
救われなかった魂の残滓。
それらが泥となって、ブラッドレイへ縋りつく。
「……。」
一瞬だけ。
ブラッドレイは目を細めた。
彼は知っている。
戦場で死ぬ者を。
理不尽を。
人間の醜さを。
善人ほど先に死ぬ現実を。
この泥は、決して“嘘”ではない。
人類の現実そのものだ。
だが。
「だからどうした。」
踏み込む。
剣閃。
一息で数十の亡霊が消し飛ぶ。
「それでも人は進む。」
さらに斬る。
「醜悪だろうが。」
斬る。
「愚かだろうが。」
斬る。
「それでも、生きるのだ。」
その言葉と共に。
神剣が、黒泥の“核へ繋がる流れ”を断ち切った。
瞬間。
ドォォォォォン――!!
城全体が揺れる。
黒泥の流量が、目に見えて弱まった。
ライダーが目を見開く。
「減ったぞ!?」
ランサーも即座に反応する。
「流れが鈍った!」
アサシンの一人が低く告げる。
「侵食速度、低下。」
ギルガメッシュは腕を組んだまま、静かに嗤った。
「ほう。」
その黄金の瞳は、ブラッドレイを見ていた。
単純な剣技ではない。
これは戦術だ。
巨大な災害そのものを、“構造理解”によって切り崩している。
まるで国家を解体するように。
無駄なく。
冷酷に。
合理的に。
そして。
黒泥の中心。
アイリスフィールを包む巨大な繭へ、ブラッドレイは辿り着く。
究極の眼が、“核”を捉えていた。
脈動している。
巨大な呪い。
世界の裏側へ繋がる穴。
「……もう少しで、閉じるぞ。」
低く。
静かに。
だが確信を持って、ブラッドレイは告げた。
その瞬間。
黒泥全体が、狂ったように暴れ始める。
まるで。
“恐怖”したかのように。
「――終わりだ。」
静かな声だった。
だが、その一言が戦場の空気を変えた。
セイバー――は、黒泥の中心へ踏み込みながら、二振りの神剣を交差させる。
究極の眼が捉えている。
無数の呪詛。
膨大な悪意。
人類の澱。
その全てを束ねる、“核”。
聖杯へ繋がる、世界の裏側の孔。
脈打つ黒い心臓。
「そこだ。」
踏み込む。
一閃。
概念を断つ黄金剣が、“繋がり”そのものを切断。
同時に。
銀白の神剣が、裂けた呪いの断面を固定する。
逃がさない。
再生させない。
そして――。
ブラッドレイは、核そのものを切り裂いた。
ズァァァァァァァァ――――ッ!!
絶叫。
いや。
世界そのものが悲鳴を上げたようだった。
黒泥が狂乱する。
城が震える。
空間が軋む。
無数の怨嗟が一斉に叫び、泣き、呪い、消えていく。
『嫌だ』
『死にたくない』
『救われたかった』
『許して』
『どうして』
その全てを。
ブラッドレイは、ただ静かに見つめていた。
やがて。
黒泥の奔流が止まる。
脈動が消える。
城を侵食していた呪詛が、灰のように崩れ落ちていく。
そして――。
アイリスフィールを覆っていた巨大な繭が、音を立てて砕け散った。
「……っ。」
切嗣が駆ける。
崩れ落ちるアイリスフィールを抱き留めた。
彼女の身体には、まだ黒い痣のような侵食痕が残っている。
だが。
呼吸はある。
鼓動も。
まだ、生きている。
「……イリ、ス……」
震える声だった。
魔術師殺しではなく。
ただ、一人の男の声。
アイリスフィールはゆっくり目を開き、かすかに笑った。
「……切嗣、……」
その瞬間。
張り詰めていた空気が、わずかに緩む。
ライダーが大きく息を吐いた。
「ふぅぅ……流石に肝が冷えたぞ。」
ランサーも槍を下ろす。
「聖杯戦争で、こんな戦いをするとはな……」
アサシン達は無言のまま周囲を警戒している。
まだ完全には終わっていない。
それを理解しているからだ。
そして。
黄金の王――ギルガメッシュが、ゆっくりとブラッドレイへ視線を向けた。
「……雑種。」
「なんだね?」
「貴様、本当に人間か?」
ブラッドレイは鼻で笑った。
「生憎、化け物ではなくてね。」
その返答に。
ギルガメッシュは、愉快そうに喉を鳴らした。
「クク……そういうことにしておいてやろう。」
神剣が粒子となって消える。
王の財へ還ったのだ。
ブラッドレイは軽く肩を回した。
その腕は焼け爛れていた。
概念級の呪詛へ真正面から斬り込んだ代償。
生身なら、とっくに死んでいる。
だが彼は顔色ひとつ変えない。
「……ふぅ。」
短く息を吐く。
「とりあえずは、何とかなったな。」
誰も否定しなかった。
確かに。
この場の崩壊は止めた。
だが。
聖杯そのものは、まだ存在している。
核を断ち、一時的に閉じただけ。
根本は消えていない。
再び開けば。
同じことが起きる。
いや、次は冬木全域が飲み込まれる可能性すらある。
切嗣が低く問う。
「……どうする。」
ブラッドレイは、静かにアイリスフィールを見る。
彼女の内部には、まだ“聖杯との接続”が残っている。
薄く。
だが確実に。
究極の眼には、それが見えていた。
「遠坂邸へ移動する。」
全員が視線を向ける。
「遠坂の霊脈を使う。あそこなら、大規模封印と切断儀式が可能だ。」
ランサーが眉を寄せる。
「完全破壊を狙うのか?」
「ああ。」
ブラッドレイは即答した。
「アイリスフィールから、完全に聖杯を切り離す。」
そして。
一拍置き。
冷たく言い放つ。
「その上で、“聖杯そのもの”を破壊する。」
沈黙。
それは、聖杯戦争そのものの否定だった。
全ての願い。
全ての犠牲。
全ての戦い。
その終着点を、自ら壊すという宣言。
だが。
誰も異論を挟まない。
もう理解してしまったからだ。
これは願望機ではない。
災厄だ。
放置してはならない。
ライダーが豪快に笑った。
「ハッ!ならば最後まで付き合おうではないか!」
ランサーも槍を担ぐ。
「騎士として、見届けよう。」
アサシン達は静かに頷く。
そして。
ギルガメッシュだけが、夜空を見上げていた。
「……さて。」
黄金の瞳が細まる。
「神の失敗作を壊すか、人の王達よ。」
雪が降り始めていた。
黒泥に汚れたアインツベルン城を。