冬木の番外次席   作:甘めのコーヒー

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第57話

アインツベルン城――。

 

冬の夜気を裂くように、黒い泥が脈動していた。

 

城の石壁を侵食し、床を溶かし、天井からは粘つく闇が血管のように垂れ下がる。空気そのものが呪詛へ変質している。肺に吸い込むだけで、人間の精神を腐らせるほどの濃密な悪意。

 

それはもはや“聖杯”ではなかった。

 

人類が積み上げた憎悪。

嫉妬。

絶望。

殺意。

救われなかった願い。

踏み躙られた祈り。

 

それら全てが混ざり合い、形を得た“悪”そのもの。

 

そして、その中心で――

 

アイリスフィール・フォン・アインツベルンが、苦痛に震えていた。

 

「……っ、ぁ……あ……」

 

白銀の髪が黒く染まり始めている。

 

肌には亀裂のような黒い紋様。

瞳は濁り、身体の内部から泥が脈打つ。

 

彼女はまだ生きていた。

 

だが、“器”として聖杯に接続されたことで、内側から侵食されている。

 

切嗣は歯を食いしばった。

 

怒りではなく、壊れそうなほどの焦燥が混じっていた。

 

だが。

 

現実は無慈悲だった。

 

泥は広がる。

 

止まらない。

 

理解した瞬間には、もう遅い。

 

人を呪い、人を侵し、人を塗り替える。

 

その性質を、サーヴァント達は既に肌で理解していた。

 

――故に。

 

今、この場にいる全員が、“聖杯戦争”という枠組みを忘れていた。

 

敵味方など、既に意味を成さない。

 

これを放置すれば。

 

冬木そのものが地獄になる。

 

「……始まるぞ。」

 

低く。

 

静かに。

 

セイバー――キング・ブラッドレイが前へ出た。

 

右手には、黄金に輝く異形の神剣。

 

“概念を断つ”剣。

 

左手には、銀白色の直剣。

 

“神秘を固定する”剣。

 

どちらも本来、人の手で扱える代物ではない。

 

だが。

 

英雄王は貸した。

 

黙って。

 

不敵に笑いながら。

 

「壊すなよ、雑種。」

 

「ああ、努力しよう。」

 

短いやり取り。

 

だがその瞬間だけは、互いに“敵”ではなかった。

 

ブラッドレイはゆっくりと眼帯へ手を掛けた。

 

外される。

 

露わになる、“究極の眼”。

 

瞬間。

 

世界が変わった。

 

泥の流れ。

呪いの循環。

魔力の波動。

空間の歪み。

アイリスフィール内部へ伸びる無数の“悪意の根”。

 

全てが視える。

 

否。

 

“理解できる”。

 

「……成程。」

 

ブラッドレイは呟いた。

 

「これが、人間の底か。」

 

その声音には、軽蔑も絶望もなかった。

 

ただ。

 

静かな理解だけがあった。

 

人間を知り尽くした男だからこそ。

 

この泥を否定しきれなかった。

 

憎しみも。

怒りも。

醜さも。

 

確かに人の一部なのだ。

 

だが同時に。

 

人は、それだけではない。

 

「故に――」

 

剣が構えられる。

 

「ここで止める。」

 

その瞬間。

 

黒泥が反応した。

 

ゴボリ――ッ!!

 

城全体が脈動。

 

巨大な波となって泥が吹き上がる。

 

人の顔。

泣き声。

断末魔。

笑い声。

 

無数の怨嗟が泥の表面に浮かび上がる。

 

『死ね』

『苦しめ』

『奪え』

『壊せ』

『許さない』

 

言葉そのものが呪いだった。

 

ランサーが槍を構える。

 

「胸糞の悪い代物だな……!」

 

ライダーは鼻を鳴らした。

 

「ハッ!世界征服より趣味が悪い!」

 

アサシン達は無言で散開。

 

気配遮断を維持したまま、泥の拡散経路を監視する。

 

ギルガメッシュだけは笑っていた。

 

愉悦ではない。

 

これは、“見定め”だ。

 

人類が何処まで抗えるか。

 

王として。

 

ただ観ている。

 

そして。

 

泥が、アイリスフィールの口から噴き出した。

 

「――来るぞ。」

 

切嗣が叫ぶ。

 

直後。

 

黒い濁流がサーヴァント達へ襲い掛かった。

 

「行くぞ!!」

 

ブラッドレイが踏み込む。

 

速い。

 

視界から消えるほどの神速。

 

そして――。

 

神剣が振るわれた。

 

斬ッ――――!!

 

空間ごと、黒泥が裂けた。

 

否。

 

“概念”そのものが断たれた。

 

本来、斬れるはずのない呪詛。

形を持たぬ悪意。

 

それが、切断されている。

 

泥が絶叫した。

 

空間全体へ悲鳴が響く。

 

だが。

 

切っただけでは終わらない。

 

裂けた泥が再生を始める。

 

即座に。

 

ブラッドレイは左手の銀剣を突き立てた。

 

「固定する。」

 

ギィィィィィィ――――ッ!!

 

神秘が縫い止められる。

 

再生が止まった。

 

初めて。

 

黒泥が“傷”を負った。

 

「今だ!!」

 

ライダーの戦車が突撃。

 

神威の車輪が雷を撒き散らし、泥を吹き飛ばす。

 

ランサーは呪いを裂きながら突進。

 

紅と黄の双槍が、泥内部の魔力核を穿つ。

 

アサシン達は四方から結界杭を打ち込み、侵食範囲を封鎖。

 

切嗣は魔術礼装を起動。

 

起源弾ではなく、“封印”に全力を注ぐ。

 

今は殺し合いではない。

 

一秒でも時間を稼ぐ。

 

そのためだけに動く。

 

だが――。

 

黒泥は、笑った。

 

否。

 

笑ったように見えた。

 

次の瞬間。

 

泥の奥で、“何か”が目を開く。

 

巨大だった。

 

深淵そのもののような瞳。

 

世界の裏側から覗き込む、“悪”。

 

ギルガメッシュの笑みが、初めて消える。

 

「……ほう。」

 

ライダーの額に汗が流れる。

 

ランサーが低く呟く。

 

「まだ、本体ですらないのか……」

 

そして。

 

ブラッドレイだけが。

 

静かに、その“奥”を見据えていた。

 

究極の眼が。

 

泥のさらに先――

 

“聖杯の核”を捉える。

 

「……居るな。」

 

その瞬間。

 

泥の全てが、セイバーただ一人へ殺到した。

 

「……まったく。」

 

黒泥の濁流を真正面から受けながら。

 

――キング・ブラッドレイは、深く息を吐いた。

 

「化け物に好かれるのは、ごめんだがね。」

 

ぼやき。

 

だがその声音には、恐怖も焦燥もない。

 

ただ、面倒な戦場へ放り込まれた老兵のような、乾いた諦観だけがあった。

 

次の瞬間。

 

泥が吼える。

 

無数の腕。

 

無数の顔。

 

絶望と憎悪の塊が、一斉にブラッドレイへ食らいついた。

 

――だが。

 

「遅い。」

 

斬光。

 

黒が裂ける。

 

概念断裂の神剣が振るわれるたび、“呪い”そのものが切断されていく。

 

泥は本来、斬れない。

 

形を持たぬ悪意だからだ。

 

だがブラッドレイは、“悪意が繋がっている構造”そのものを視ていた。

 

究極の眼。

 

それは単なる動体視力ではない。

 

流れ。

循環。

繋がり。

因果。

 

“どこを断てば全体が崩れるか”。

 

それを見抜く眼。

 

「そこか。」

 

斬る。

 

黒泥の奔流が、一瞬で瓦解。

 

直後。

 

再生しかけた呪詛へ、銀白の神剣が突き刺さる。

 

「固定。」

 

空間が軋む。

 

呪いが硬直する。

 

泥は絶叫しながら、その場で凍りついたように停止した。

 

ライダーが笑う。

 

「ハッハァ!!見事よセイバー!!」

 

神威の車輪が雷鳴を轟かせる。

 

轢き潰される泥。

 

ランサーも続く。

 

「押し切るぞ!!」

 

紅槍が因果を裂き。

 

黄槍が魔力循環を破壊する。

 

アサシン達は屋根と壁面を駆け、拡散する泥へ次々と封印杭を撃ち込んでいた。

 

気配遮断を維持したままの精密作業。

 

まるで城全体を縫い止めるかのような動き。

 

切嗣は歯を食いしばりながら魔術回路を酷使する。

 

肺が焼ける。

 

神経が軋む。

 

それでも止まれない。

 

アイリスフィールがまだ生きている限り。

 

ここで退く選択肢は無かった。

 

そして。

 

ブラッドレイは前進を止めない。

 

泥の中心へ。

 

さらに奥へ。

 

まるで“敵陣へ突撃する歩兵”のような足取りで。

 

ゴボッ――!!

 

黒泥が突然、人型を形成する。

 

兵士。

老人。

女。

子供。

 

無数の“人間”の形。

 

それら全てが泣き、喚き、呪っていた。

 

『助けて』

『殺して』

『許さない』

『何故俺だけが』

『苦しい』

『奪われた』

 

人類の負感情。

 

救われなかった魂の残滓。

 

それらが泥となって、ブラッドレイへ縋りつく。

 

「……。」

 

一瞬だけ。

 

ブラッドレイは目を細めた。

 

彼は知っている。

 

戦場で死ぬ者を。

 

理不尽を。

 

人間の醜さを。

 

善人ほど先に死ぬ現実を。

 

この泥は、決して“嘘”ではない。

 

人類の現実そのものだ。

 

だが。

 

「だからどうした。」

 

踏み込む。

 

剣閃。

 

一息で数十の亡霊が消し飛ぶ。

 

「それでも人は進む。」

 

さらに斬る。

 

「醜悪だろうが。」

 

斬る。

 

「愚かだろうが。」

 

斬る。

 

「それでも、生きるのだ。」

 

その言葉と共に。

 

神剣が、黒泥の“核へ繋がる流れ”を断ち切った。

 

瞬間。

 

ドォォォォォン――!!

 

城全体が揺れる。

 

黒泥の流量が、目に見えて弱まった。

 

ライダーが目を見開く。

 

「減ったぞ!?」

 

ランサーも即座に反応する。

 

「流れが鈍った!」

 

アサシンの一人が低く告げる。

 

「侵食速度、低下。」

 

ギルガメッシュは腕を組んだまま、静かに嗤った。

 

「ほう。」

 

その黄金の瞳は、ブラッドレイを見ていた。

 

単純な剣技ではない。

 

これは戦術だ。

 

巨大な災害そのものを、“構造理解”によって切り崩している。

 

まるで国家を解体するように。

 

無駄なく。

 

冷酷に。

 

合理的に。

 

そして。

 

黒泥の中心。

 

アイリスフィールを包む巨大な繭へ、ブラッドレイは辿り着く。

 

究極の眼が、“核”を捉えていた。

 

脈動している。

 

巨大な呪い。

 

世界の裏側へ繋がる穴。

 

「……もう少しで、閉じるぞ。」

 

低く。

 

静かに。

 

だが確信を持って、ブラッドレイは告げた。

 

その瞬間。

 

黒泥全体が、狂ったように暴れ始める。

 

まるで。

 

“恐怖”したかのように。

 

「――終わりだ。」

 

静かな声だった。

 

だが、その一言が戦場の空気を変えた。

 

セイバー――は、黒泥の中心へ踏み込みながら、二振りの神剣を交差させる。

 

究極の眼が捉えている。

 

無数の呪詛。

膨大な悪意。

人類の澱。

 

その全てを束ねる、“核”。

 

聖杯へ繋がる、世界の裏側の孔。

 

脈打つ黒い心臓。

 

「そこだ。」

 

踏み込む。

 

一閃。

 

概念を断つ黄金剣が、“繋がり”そのものを切断。

 

同時に。

 

銀白の神剣が、裂けた呪いの断面を固定する。

 

逃がさない。

 

再生させない。

 

そして――。

 

ブラッドレイは、核そのものを切り裂いた。

 

ズァァァァァァァァ――――ッ!!

 

絶叫。

 

いや。

 

世界そのものが悲鳴を上げたようだった。

 

黒泥が狂乱する。

 

城が震える。

 

空間が軋む。

 

無数の怨嗟が一斉に叫び、泣き、呪い、消えていく。

 

『嫌だ』

『死にたくない』

『救われたかった』

『許して』

『どうして』

 

その全てを。

 

ブラッドレイは、ただ静かに見つめていた。

 

やがて。

 

黒泥の奔流が止まる。

 

脈動が消える。

 

城を侵食していた呪詛が、灰のように崩れ落ちていく。

 

そして――。

 

アイリスフィールを覆っていた巨大な繭が、音を立てて砕け散った。

 

「……っ。」

 

切嗣が駆ける。

 

崩れ落ちるアイリスフィールを抱き留めた。

 

彼女の身体には、まだ黒い痣のような侵食痕が残っている。

 

だが。

 

呼吸はある。

 

鼓動も。

 

まだ、生きている。

 

「……イリ、ス……」

 

震える声だった。

 

魔術師殺しではなく。

 

ただ、一人の男の声。

 

アイリスフィールはゆっくり目を開き、かすかに笑った。

 

「……切嗣、……」

 

その瞬間。

 

張り詰めていた空気が、わずかに緩む。

 

ライダーが大きく息を吐いた。

 

「ふぅぅ……流石に肝が冷えたぞ。」

 

ランサーも槍を下ろす。

 

「聖杯戦争で、こんな戦いをするとはな……」

 

アサシン達は無言のまま周囲を警戒している。

 

まだ完全には終わっていない。

 

それを理解しているからだ。

 

そして。

 

黄金の王――ギルガメッシュが、ゆっくりとブラッドレイへ視線を向けた。

 

「……雑種。」

 

「なんだね?」

 

「貴様、本当に人間か?」

 

ブラッドレイは鼻で笑った。

 

「生憎、化け物ではなくてね。」

 

その返答に。

 

ギルガメッシュは、愉快そうに喉を鳴らした。

 

「クク……そういうことにしておいてやろう。」

 

神剣が粒子となって消える。

 

王の財へ還ったのだ。

 

ブラッドレイは軽く肩を回した。

 

その腕は焼け爛れていた。

 

概念級の呪詛へ真正面から斬り込んだ代償。

 

生身なら、とっくに死んでいる。

 

だが彼は顔色ひとつ変えない。

 

「……ふぅ。」

 

短く息を吐く。

 

「とりあえずは、何とかなったな。」

 

誰も否定しなかった。

 

確かに。

 

この場の崩壊は止めた。

 

だが。

 

聖杯そのものは、まだ存在している。

 

核を断ち、一時的に閉じただけ。

 

根本は消えていない。

 

再び開けば。

 

同じことが起きる。

 

いや、次は冬木全域が飲み込まれる可能性すらある。

 

切嗣が低く問う。

 

「……どうする。」

 

ブラッドレイは、静かにアイリスフィールを見る。

 

彼女の内部には、まだ“聖杯との接続”が残っている。

 

薄く。

 

だが確実に。

 

究極の眼には、それが見えていた。

 

「遠坂邸へ移動する。」

 

全員が視線を向ける。

 

「遠坂の霊脈を使う。あそこなら、大規模封印と切断儀式が可能だ。」

 

ランサーが眉を寄せる。

 

「完全破壊を狙うのか?」

 

「ああ。」

 

ブラッドレイは即答した。

 

「アイリスフィールから、完全に聖杯を切り離す。」

 

そして。

 

一拍置き。

 

冷たく言い放つ。

 

「その上で、“聖杯そのもの”を破壊する。」

 

沈黙。

 

それは、聖杯戦争そのものの否定だった。

 

全ての願い。

全ての犠牲。

全ての戦い。

 

その終着点を、自ら壊すという宣言。

 

だが。

 

誰も異論を挟まない。

 

もう理解してしまったからだ。

 

これは願望機ではない。

 

災厄だ。

 

放置してはならない。

 

ライダーが豪快に笑った。

 

「ハッ!ならば最後まで付き合おうではないか!」

 

ランサーも槍を担ぐ。

 

「騎士として、見届けよう。」

 

アサシン達は静かに頷く。

 

そして。

 

ギルガメッシュだけが、夜空を見上げていた。

 

「……さて。」

 

黄金の瞳が細まる。

 

「神の失敗作を壊すか、人の王達よ。」

 

雪が降り始めていた。

 

黒泥に汚れたアインツベルン城を。

 

 

 

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