冬木市の高台。
降り積もる雪の向こうに、それは姿を現した。
遠坂邸。
広大な敷地。
重厚な門。
日本家屋と西洋建築を融合させた、古い名家の威厳。
だが――。
セイバー――キング・ブラッドレイの“究極の眼”が見ているのは、外観ではない。
その下だ。
地中深く。
屋敷全体へ張り巡らされた魔力回路。
霊脈と直結した巨大術式。
幾重にも重なる結界。
防衛機構。
観測式。
転移阻害。
侵入検知。
まるで一つの“城塞”。
しかも。
その全てが、冬木の大霊脈へ接続されている。
「……あれか。」
ブラッドレイは雪を踏みながら、静かに呟いた。
「随分立派な屋敷だな。」
その声に、ライダー――が豪快に笑う。
「ハッ!金持ちの魔術師らしい趣味よ!」
「趣味ではない。」
切嗣――低く否定する。
「あれは完全な魔術拠点だ。」
彼の目にも分かる。
あの屋敷は単なる住居ではない。
戦争用工房。
しかも一級。
普通の魔術師なら、敷地へ入った瞬間に殺される。
ブラッドレイは僅かに目を細める。
「それに、かなりの魔術工房だな。」
その瞬間。
究極の眼が、“地下”を捉える。
霊脈。
巨大な円環。
そして――。
黒。
「……。」
空気が変わった。
ブラッドレイの視線の先。
地下深く。
黒泥が流れ込んでいる。
細い。
まだ微弱。
だが確実に。
聖杯は、この土地を使って再構築を始めている。
「既に侵食が始まっている。」
全員の顔色が変わる。
ランサー――が槍を構えた。
「どの程度だ?」
「浅い。」
ブラッドレイは即答する。
「だが、放置すれば数時間で地下霊脈を汚染する。」
ライダーの笑みが消える。
「冬木ごと飲み込むか。」
「ああ。」
短い返答。
だが十分だった。
アサシン達が周囲へ散る。
屋根。
塀。
森。
全方位索敵。
そして、その一人が即座に報告する。
「屋敷内、複数生命反応。」
「高魔力個体一。」
「……遠坂時臣と推定。」
ギルガメッシュが鼻を鳴らした。
「居たか。」
その声音には、僅かな退屈が混じっていた。
まるで結末を知っているような声。
切嗣が低く問う。
「どう入る。」
ブラッドレイは屋敷を見上げる。
雪の中。
静かに佇む名門魔術師の館。
だが彼の眼には、既に“弱点”が見えていた。
結界の継ぎ目。
魔力循環の偏り。
霊脈制御点。
どれだけ巨大な工房でも、“人間が作ったもの”である以上、綻びは存在する。
「正面から行く。」
全員が目を向ける。
ライダーが笑った。
「ハハッ!良い!」
ランサーは呆れたように息を吐く。
「貴公は本当に軍人だな……。」
「奇襲や潜入も嫌いではないがね。」
ブラッドレイは軍帽を軽く押さえる。
「今回は時間が無い。」
その瞬間。
屋敷の結界が反応した。
ブゥン――。
空気が震える。
侵入検知。
敵性存在認識。
遠坂邸全体が“戦闘態勢”へ移行する。
窓ガラスの奥。
赤い魔術光が灯る。
地下術式が起動。
霊脈が唸る。
まるで屋敷そのものが目覚めたようだった。
そして。
正門の向こう。
雪の中に、一人の男が現れる。
赤い外套。
優雅な立ち姿。
遠坂時臣。
彼は雪の夜の中で、静かに一行を見渡した。
サーヴァントが六騎。
本来あり得ない陣営連合。
そして。
黒泥に汚れたアイリスフィール。
その光景に、時臣の顔から笑みが消えていく。
「……これは。」
静かな声。
だが、その奥に動揺があった。
ブラッドレイは雪を踏み、一歩前へ出る。
「遠坂殿。」
その声は礼儀正しい。
だが。
次の言葉は、あまりにも重かった。
「聖杯を壊しに来た。」
雪が静かに降り続いていた。
遠坂邸の門前。
張り詰めた空気の中、時臣は一行を見渡している。
サーヴァントが六騎。
本来なら有り得ない同盟。
その中心には、黒い侵食痕に蝕まれたアイリスフィール。
そして。
彼女の足元から、今もなお微かに滲み出る“黒”。
時臣の目が細まる。
「……何だ、それは。」
魔術師としての本能が警鐘を鳴らしていた。
あれは危険だ。
理解する以前に、“触れてはならない”と直感する。
ブラッドレイは静かに前へ出る。
雪の上。
黒い泥がじわりと広がる。
白銀を汚しながら。
「聖杯の中身だ。」
短く。
重い言葉。
時臣の表情が止まる。
「……何?」
ブラッドレイの眼帯の奥。
“究極の眼”が、アイリスフィール内部の接続を見続けていた。
まだ切れていない。
核は斬った。
流れも弱めた。
だが、完全ではない。
聖杯は今も“向こう側”へ繋がっている。
「今も、アイリスフィールから溢れ続けている。」
ブラッドレイは足元の泥を見下ろした。
それはゆっくりと脈打っている。
生き物のように。
「そのドス黒い泥だ。」
瞬間。
空気が変わる。
遠坂時臣の顔から、魔術師としての余裕が消えた。
彼は理解した。
いや。
理解させられた。
この泥が、ただの呪詛ではないことを。
その泥から漏れ出る感情。
憎悪。
嫉妬。
怨嗟。
絶望。
触れただけで精神を侵す、濃密すぎる悪意。
まるで人類全ての負感情を煮詰めたような代物。
時臣が低く呟く。
「……馬鹿な。」
「聖杯は、“第三魔法への到達装置”のはず……。」
ギルガメッシュ――が嗤う。
「クク……まだ理解できんか、時臣。」
黄金の瞳が冷たく細まる。
「貴様らは、最初から腐った釜へ祈っていたのだ。」
時臣が息を呑む。
その瞬間。
アイリスフィールの指先から、黒泥がボタリと落ちた。
ジュゥゥゥ……。
雪が溶ける。
否。
腐った。
白が黒へ変色していく。
その場の草木が、一瞬で枯死する。
ランサー―が眉を顰める。
「……酷い呪いだ。」
ライダー――も笑みを消していた。
「これが聖杯か。笑えんな。」
アサシン達は既に周囲へ封印杭を展開している。
黒泥の拡散を少しでも抑えるためだ。
だが。
完全には止められない。
泥は“霊脈”へ惹かれている。
この遠坂邸そのものへ。
ブラッドレイは時臣を真っ直ぐ見た。
「遠坂殿。」
その声は静かだった。
だが有無を言わせぬ響きがある。
「地下工房を使わせてもらう。」
時臣は即座に返せない。
魔術師としての常識が崩れている。
聖杯は完成された奇跡の器ではなかった。
“人類悪”そのものだった。
その事実が、彼の積み上げた信念を揺るがしていた。
切嗣――が低く言う。
「時間が無い。」
「完全切断と封印を行う。」
「失敗すれば、冬木が終わる。」
その言葉に。
時臣はゆっくりと目を閉じた。
雪が降る。
長い沈黙。
やがて。
彼は静かに振り返る。
「……来なさい。」
低い声だった。
「地下霊脈区画へ案内する。」
その瞬間。
遠坂邸の巨大結界が、ゆっくりと開き始めた。
まるで。
魔術師達の誇りそのものが、“現実”に屈したかのように。
遠坂邸の門が開く。
重厚な結界が軋みながら道を作り、一行は敷地内へ足を踏み入れた。
その瞬間。
空気が変わる。
濃密な魔力。
地下から脈打つ霊脈。
この土地そのものが、一つの巨大魔術炉だった。
普通の魔術師なら立っているだけで酔うほどの高密度。
だが今は、その魔力に“黒”が混ざり始めている。
微弱。
しかし確実に。
聖杯は、この土地を喰おうとしていた。
ブラッドレイは周囲を見渡しながら、静かに口を開く。
「理解が早くて助かる。」
その言葉に、時臣は苦い顔をした。
「……魔術師として認めたくはないがな。」
声に滲むのは苦悩だった。
遠坂家は聖杯戦争を管理してきた一族。
その根幹が、“腐敗した呪い”だったなど、受け入れられるはずがない。
だが。
現実は目の前にある。
アイリスフィールの身体から滲む黒泥。
腐る雪。
軋む霊脈。
否定はもう出来なかった。
ブラッドレイは歩きながら続ける。
「霊脈の魔力を使い、強引にアイリスフィールから聖杯を切り離す。」
切嗣――が僅かに顔を上げる。
その方法は、あまりにも危険だ。
霊脈へ直接負荷をかけ、聖杯接続を“引き剥がす”。
成功すれば切断できる。
だが失敗すれば。
霊脈そのものが暴走し、冬木市ごと吹き飛ぶ可能性がある。
ランサー――が低く問う。
「それからは?」
ブラッドレイの足が止まる。
眼帯の奥。
究極の眼が、地下深くの“黒”を見据えていた。
「……総力戦になる。」
静かな声。
だが全員が理解した。
切り離された瞬間。
聖杯は暴走する。
器を失った“人類悪”が、霊脈を媒介に顕現しようとする。
つまり。
この屋敷が戦場になる。
ライダー――が豪快に笑う。
「ハッ!ようやく最後らしくなってきたな!」
だが、その笑みの奥には緊張があった。
先程の黒泥ですら“流出”に過ぎなかった。
本体が出れば、比ではない。
ブラッドレイは時臣へ視線を向ける。
「遠坂殿。」
「この屋敷は、どれだけ耐えられる?」
沈黙。
時臣はゆっくりと遠坂邸を見上げた。
先祖代々積み上げてきた魔術工房。
冬木最高峰の結界。
霊脈制御炉。
それら全てを計算した上で、静かに答える。
「通常戦闘なら、サーヴァント数騎でも数日は耐える。」
ライダーが感心したように口笛を吹く。
「ほう。」
だが。
時臣の顔は暗い。
「だが、“あれ”を相手にするなら話は別だ。」
彼自身も理解している。
聖杯の黒泥は、通常の神秘ではない。
あれは“概念汚染”だ。
結界そのものを腐食する。
魔術回路を侵す。
霊脈を汚染する。
つまり。
魔術工房であるほど相性が最悪。
時臣は静かに告げた。
「地下区画から侵食された場合――」
「恐らく、一時間も持たん。」
空気が重くなる。
一時間。
それが制限時間。
切断。
封印。
破壊。
全てを、その間に終わらせなければならない。
ギルガメッシュ――が退屈そうに笑う。
「十分だろう。」
その黄金の瞳が細まる。
「たかが泥掃除に、一晩も要らぬ。」
ランスロット――が静かに剣を握る。
アサシン達は既に地下への配置を始めている。
封印線。
監視陣。
退避経路。
完全に“戦争”の動きだった。
そして。
ブラッドレイは静かに軍帽を押さえる。
「なら十分だな。」
その声音に迷いは無い。
「一時間あれば、“世界の穴”を閉じるには足りる。」
遠坂邸地下。
巨大な霊脈炉の上を、一行は進んでいた。
床一面に刻まれた魔術刻印。
脈打つ青白い光。
轟々と流れる大霊脈。
まるで地下深くに築かれた神殿だった。
だが今、その神秘は汚染されつつある。
黒。
霊脈の流れに、ドス黒い泥が混ざり始めていた。
時折、床の術式が腐るように軋む。
この工房そのものが侵食されている。
「急げ。」
時臣が険しい声で告げる。
「地下中枢へ到達する前に、霊脈封鎖を――」
その時だった。
ブラッドレイが、不意に立ち止まる。
空気が変わる。
ライダー――が目を細めた。
ランサー――も槍を僅かに構える。
アサシン達は一斉に気配を広げた。
だが。
ブラッドレイだけは、静かに暗闇を見ている。
「……。」
究極の眼。
視えていた。
柱の陰。
結界の継ぎ目。
霊脈の死角。
そこに居る。
気配を消し。
息を潜め。
観察している男。
ブラッドレイは淡々と口を開く。
「言峰綺礼。」
沈黙。
だが彼は続ける。
「いつまで隠れている。」
その瞬間。
地下空間の奥から、コツ、と靴音が響いた。
ゆっくりと。
闇の中から、一人の男が現れる。
黒い神父服。
静かな瞳。
言峰綺礼
その姿を見た瞬間、切嗣―の空気が変わる。
殺気。
長年積み重ねた敵意。
互いに理解しながら決して交わらない、“同類”。
綺礼はそんな切嗣を一瞥し、静かに微笑した。
「流石だな、セイバー。」
「気配遮断を看破するか。」
ブラッドレイは鼻を鳴らす。
「隠れるなら、もっと殺気を消したまえ。」
綺礼の口元が僅かに歪む。
愉快そうに。
まるで楽しんでいるように。
その様子に、ギルガメッシュ――が嗤った。
「クク……やはり居たか、綺礼。」
綺礼は黄金の王へ軽く頭を下げる。
だが、その瞳はアイリスフィールへ向いていた。
正確には。
彼女の身体から漏れ出る黒泥へ。
「……美しいな。」
低い呟き。
その瞬間。
地下空間の空気が凍った。
切嗣の銃口が即座に綺礼へ向く。
「何だと?」
綺礼は視線を逸らさない。
「人の悪意。」
「絶望。」
「呪い。」
「これほど純粋なものを、私は初めて見た。」
その声には、本物の感動があった。
理解。
共鳴。
まるで。
長年探していた答えを見つけた人間のように。
ブラッドレイの目が細まる。
究極の眼は見抜いていた。
この男は危険だ。
黒泥に呑まれるのではない。
“惹かれている”。
本能的に。
深淵へ。
だが。
今はそれを問題にしている場合ではない。
ブラッドレイは静かに言う。
「人手が欲しい。」
綺礼が視線を向ける。
「手を貸せ。」
沈黙。
地下霊脈が脈打つ。
黒泥が蠢く。
その中で。
綺礼はゆっくりと笑った。
「断れば?」
ブラッドレイは即答した。
「殴ってでも働かせる。」
一瞬。
静寂。
そして。
ライダーが爆笑した。
「ハハハハハ!!気に入ったぞセイバー!!」
ランサーも思わず吹き出す。
時臣は頭を抱えた。
アサシン達ですら僅かに沈黙している。
だが。
綺礼だけは、静かに笑っていた。
心底愉快そうに。
「……いいだろう。」
神父はゆっくり前へ出る。
黒い泥の目前へ。
「私も見届けよう。」
「人類悪の終わりを。」