崩壊する地下空洞。
天井が割れ、霊脈の光が断続的に瞬いている。
先ほどまで世界を覆っていた黒泥は、灰のように舞い、静かに消えていった。
あれほど濃密だった悪意の気配も、もう無い。
残っているのは――。
焼けた大地の臭いと、疲弊しきった者達の荒い呼吸だけだった。
「……終わった、か」
ライダーが、崩れた岩へ腰を下ろす。
神威の車輪は半壊し、牛達も限界だった。
それでも征服王は笑っていた。
「ハハ……まったく、とんでもない戦だったぞ」
ランサーは槍を杖代わりに立っていた。
全身が罅割れ、霊体化すら安定しない。
「聖杯戦争の最後が、これとはな」
遠坂時臣は崩壊する術式を見上げ、静かに目を閉じる。
「……根源への道などでは、なかったか」
その横で。
言峰綺礼は、何も言わなかった。
ただ、黒泥が消えた空間を見続けている。
己が求め続けた“答え”もまた、あの闇の中にあったのかもしれない。
ギルガメッシュだけは、変わらず不遜に笑っていた。
「雑種共にしては、よくやった」
だが。
その黄金の鎧は砕け、霊格も大きく削れている。
王ですら、無傷では済まなかった。
そして――。
空洞の中心。
そこに、二人がいた。
セイバーと、ランスロット。
ランスロットは既に片膝をついていた。
霊基は限界。
身体は黒く崩れ始めている。
だが、その顔には狂気は無かった。
穏やかな騎士の顔だった。
「……王よ」
セイバーは静かに振り返る。
「何だ、ランスロット」
「最後に……貴方の背を守れた」
ランスロットは、少しだけ笑った。
「それだけで……充分だ」
沈黙。
崩落音だけが響く。
やがて。
ブラッドレイは、ゆっくり頷いた。
「ああ」
短い言葉。
だが、それだけだった。
それだけで。
ランスロットは救われたように目を閉じる。
「……光栄、でした」
その身体が、粒子となって消えていく。
まるで灰のように。
静かに。
穏やかに。
誰よりも狂い、誰よりも苦しんだ騎士は、最後にようやく“騎士”として消えた。
セイバーは、その消滅を最後まで見届けた。
敬礼も。
祈りも。
涙もない。
ただ静かに立っていた。
それが、彼なりの弔いだった。
その時。
ぐらり、と。
セイバーの身体が揺れる。
「……セイバー!」
切嗣が駆け寄る。
見ると、ブラッドレイの全身は酷い有様だった。
黒泥による侵食。
神剣使用の反動。
霊核損傷。
既に、サーヴァントとして成立していること自体が奇跡だった。
それでも。
彼は笑った。
「ふむ……どうやら、私もここまでらしい」
「馬鹿を言うな、まだ――」
「いや」
ブラッドレイは静かに首を振る。
「充分だ」
そして。
崩れゆく地下空洞を見上げた。
黒泥は消えた。
聖杯は無い。
冬木は救われた。
ならば。
もう戦う理由は無い。
「……切嗣」
「……何だ」
「人間は、愚かだ」
切嗣は黙って聞く。
「だが」
ブラッドレイは、少しだけ笑った。
「最後まで足掻く」
それが――。
「人間の、美しさでもある」
霊基が崩れ始める。
身体が光へ変わっていく。
キング・ブラッドレイ。
最強の眼を持つ王。
ただ人間として生きたかった、一人の剣士。
その最後は――。
静かだった。
「ではな、諸君」
次の瞬間。
セイバーの身体は、光となって消えた。
後に残ったのは。
二振りの神剣と。
焼け焦げた軍帽だけだった。
そして地上では。
長い夜が、ようやく明け始めていた。
――夜明け。
崩壊した遠坂邸の地下から、巨大な光柱が立ち昇った。
黒ではない。
泥でもない。
純粋な“神秘”だった。
聖杯が砕け散った、その中心。
完全に壊れたはずの器から、最後の現象が溢れ出していた。
それは願望機ではなかった。
呪いでもない。
ただ、余剰となった莫大な魔力。
第三魔法に極めて近い、“魂の物質化”。
切嗣が目を見開く。
「……これは」
遠坂時臣も、息を呑んだ。
「聖杯が……最後に、溜め込んだ神秘を放出している……」
霊脈全域が発光する。
冬木中の魔力が逆流し、空へ昇っていく。
まるで世界そのものが、深呼吸しているようだった。
そして。
消えたはずの光が、再び集まり始める。
地下空洞。
崩壊した戦場。
そこに、粒子となって消えた英霊達の残滓が漂っていた。
ランスロット。
ライダー。
ランサー。
アサシン。
そして――セイバー。
壊れた聖杯は、その全てを掴み上げる。
通常なら、英霊は座へ還る。
だが今、この瞬間だけは違った。
冬木の霊脈。
聖杯に蓄積された膨大な魔力。
第三魔法に酷似した現象。
それら全てが奇跡的に噛み合った。
魂が、固定される。
肉体が、編まれる。
骨。
血。
皮膚。
呼吸。
英霊だった存在が、“人間”として世界へ縫い止められていく。
最初に現れたのは、ランスロットだった。
黒い騎士は瓦礫の中へ膝をつき、自らの手を見る。
「……これは」
温かい。
血が流れている。
鼓動がある。
狂化も無い。
ただ、一人の男としてそこに居た。
次に。
雷鳴と共に、ライダーが現れる。
「ハハハハハ!!」
征服王は大声で笑った。
「肉体だ!! しかも現界ではない、生身ではないか!!」
ランサーもまた、自らの胸へ手を当てる。
「……心臓、か」
静かな鼓動。
失われていた“生”の感覚。
アサシン達ですら、一つの個として立っていた。
そして最後に。
最も強い光が集束する。
静寂。
全員が、その中心を見た。
光の中から、一人の男が現れる。
軍帽。
軍服。
鋭い眼光。
そして、右眼に宿る“最強の眼”。
キング・ブラッドレイ。
セイバーは、静かに地へ降り立った。
その瞬間。
彼は理解した。
霊体ではない。
幻想でもない。
今の自分は、“生きている”。
「……ほう」
彼は、自らの掌を見た。
血管がある。
熱がある。
呼吸がある。
あまりにも久しく忘れていた感覚。
切嗣が、呆然と呟く。
「受肉……」
ギルガメッシュですら、僅かに目を細めた。
「完全受肉だと……?」
それは本来、不完全な形でしか起きない。
だが今、壊れた聖杯は最後の力で“奇跡”を起こした。
呪いではなく。
悪意でもなく。
世界を救った英雄達への、最後の報酬のように。
崩壊していた霊脈が、ゆっくり安定していく。
黒泥は消えた。
汚染も止まった。
世界に穿たれていた穴は閉じ始めている。
長い戦争が、終わったのだ。
ライダーが豪快に笑いながら、ブラッドレイの肩を叩く。
「ハハッ!! 貴様、本当に人間になりおったぞ!!」
ブラッドレイは小さく笑った。
「……皮肉な話だ」
かつて。
ただ普通の人間として死にたかった男。
その願いが。
世界を救った最後に、叶ってしまった。
地下空洞の崩落は止まり始める。
朝日が差し込む。
焼けた冬木の空に、ようやく青が戻り始めていた。
誰も、しばらく言葉を発さなかった。
ただ。
終わった世界の静けさだけが、そこにあった。
朝日が、崩壊した遠坂邸を照らしていた。
黒泥に覆われていた空は既に晴れ始め、冬木を包んでいた重苦しい圧力も消えている。
終わったのだ。
聖杯戦争は。
人類悪との戦いは。
そして今、この場にいる者達は――。
英霊ではない。
生きていた。
その事実が、あまりにも異様で。
あまりにも現実感が無かった。
だが。
「……ハ」
静かな笑い声が漏れる。
次第に大きくなり。
「ハハ……」
やがて。
「ハハハハハハハハ!!」
キング・ブラッドレイは、心底愉快そうに笑った。
それは戦場で見せる冷笑ではない。
誰かを威圧する笑みでもない。
純粋な笑いだった。
生きている。
ただそれだけが可笑しかった。
ライダーが豪快に笑い返す。
「ようやく貴様も年相応に笑ったな、セイバー!!」
「何、歳を数えるには少々長く生き過ぎた」
ブラッドレイは肩を竦める。
だが、その目には確かな生気が宿っていた。
ランスロットは少し離れた場所で、静かに空を見上げている。
狂気は無い。
黒い鎧も既に崩れ、今の彼はただの騎士だった。
彼は自分の手を握り締める。
「……温かい」
その言葉は、あまりにも小さかった。
ディルムッドは苦笑する。
「受肉など、伝承の中の奇跡だと思っていたが……」
言いながら、自らの脈を確かめる。
鼓動。
血流。
肉体。
英霊では不要だったもの。
だが今は、それが確かにある。
アサシン達もまた沈黙していた。
“群体”ではない。
一人一人が独立した存在として、そこに立っている。
それはハサン達にとって、ある意味で最大の奇跡だった。
遠坂時臣は、瓦礫の中で静かに息を吐く。
「……壊れた聖杯が、最後に奇跡を起こしたか」
切嗣は煙草を取り出しかけ、やめた。
代わりに、疲れ切ったように座り込む。
「皮肉だな」
「ああ」
ブラッドレイが頷く。
「呪われた願望機が、最後に人を救った」
その時。
ギルガメッシュが、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「フン。雑種共が揃いも揃って受肉とは」
だが、その黄金の王も完全には否定しなかった。
むしろ。
どこか退屈が終わったような顔をしていた。
「まあよい。少なくとも、今しばらくは退屈せずに済みそうだ」
ブラッドレイは笑う。
「違いない」
崩壊した地下空洞。
死屍累々だったはずの戦場。
だが今は、不思議と穏やかだった。
誰もが傷だらけで。
疲弊しきっていて。
それでも、生きている。
そして。
キング・ブラッドレイは、ゆっくり空を見上げた。
青空だった。
久しく見ていなかったほど、静かな空。
「……思いがけない贈り物だな」
その呟きには。
王でも。
兵士でも。
英雄でもない。
ただ一人の男としての感情が滲んでいた。
普通に老いて。
普通に生きて。
普通に死ぬ。
それだけを望みながら、それを得られなかった男。
だが今。
ようやく、その未来が目の前にある。
ライダーが笑う。
「さて!! ではその“第二の人生”とやらをどうする、セイバー!!」
ブラッドレイは少し考え――。
軍帽を深く被り直した。
「まずは」
その口元が僅かに吊り上がる。
「腹が減った」
一瞬の沈黙。
そして。
戦場だった地下空洞に、笑い声が響いた。
それは、この戦争で初めて響く――。
本当の意味で、平和な笑い声だった。