だが。
奇跡は、それだけでは終わらなかった。
地下霊脈炉から溢れ続ける光。
壊れた聖杯から放出される純粋神秘は、未だ周囲へ降り注いでいた。
まるで“世界そのもの”が、戦いの代償を清算しているかのように。
最初に異変へ気付いたのは、遠坂時臣だった。
「……何?」
自らの手を見る。
黒泥侵食によって焼損していた魔術回路。
酷使で崩壊寸前だった神経。
その全てが、熱を伴いながら修復されていく。
否。
修復ではない。
“再構築”だった。
回路そのものが、より強靭に編み直されていく。
魔力伝達効率。
回路密度。
神経耐性。
全てが、本来の限界値を超えていく。
「これは……」
時臣ですら、息を呑んだ。
魔術師にとって魔術回路は魂そのもの。
生涯をかけても増やせず、変質させられない領域。
それを、聖杯の残滓は当たり前のように書き換えている。
切嗣もまた異変を感じていた。
長年の固有時制御によって蓄積していた肉体損傷。
軋んでいた神経。
摩耗した回路。
寿命すら削る負荷。
それらが、静かに癒えていく。
肺の痛みが消える。
視界が鮮明になる。
身体が、軽い。
「……冗談だろ」
彼は自分の手を握る。
若返ったようですらあった。
その横で。
言峰綺礼が、ゆっくり拳を開閉していた。
割れた骨。
裂けた筋肉。
黒鍵による自傷。
全てが治癒している。
しかも。
身体能力そのものが、明らかに上昇していた。
綺礼は僅かに目を細める。
「聖杯は……人を進化させているのか」
アイリスフィールもまた、静かに息を呑んでいた。
本来ならば聖杯の器として崩壊するはずだった肉体。
失われた生命機能。
その全てが修復されている。
白い肌には、もう黒い侵食痕は無い。
彼女は自分の胸へ手を当てる。
確かな鼓動。
正常な生命活動。
“器”ではない。
一人の女性として、そこに存在していた。
そして。
異変は、更に広がる。
霊脈を通じて放たれる神秘は、地下空洞全体を包み込んでいた。
崩壊しかけていた魔術刻印が安定し。
失われた神経が再生し。
身体機能そのものが強化されていく。
まるで神代の魔力環境へ、一時的に世界が近付いているようだった。
ライダーが豪快に笑う。
「ハハハ!! なんだこれは!! 力が溢れてくるぞ!!」
ランサーもまた目を見開く。
「霊基ではない肉体で、ここまでの力とは……」
アサシン達ですら気配が以前より鮮明になっている。
肉体。
魂。
魔術回路。
全てが、聖杯の最後の神秘によって“最適化”されていた。
ギルガメッシュは腕を組み、静かにそれを見ていた。
「……第三魔法の劣化模倣どころではないな」
彼ですら、完全には理解できない現象だった。
「壊れたことで、逆に純粋な神秘だけが流出したか」
ブラッドレイは、自らの右眼へ触れる。
“最強の眼”。
本来ならば人間には過剰過ぎる異能。
だが今、その負荷すら消えていた。
肉体が完全に適応している。
いや。
“人間として成立するよう調整された”と言うべきだった。
彼は静かに笑う。
「なるほど」
冬木の霊脈を見上げた。
光が流れている。
穏やかで。
静かで。
暖かい光。
もう、悪意は無い。
「最後の最後で、人類悪が人類へ遺産を残したか」
その言葉に、誰も否定しなかった。
莫大な犠牲。
終末のような戦い。
無数の絶望。
その果てに。
彼らは生き残った。
しかも以前より強く。
より完全な存在として。
それは祝福か。
あるいは、別の始まりか。
まだ誰にも分からない。
だが少なくとも今は――。
誰もが、生きていた。
そして。
光は、一人の男にも降り注いでいた。
瓦礫の影。
崩れた柱へ寄りかかるようにして座り込んでいた男――間桐雁夜。
既に限界を超えていた身体。
刻印虫によって侵され続けた神経。
壊死寸前の血管。
焼け爛れた魔術回路。
本来なら、とっくに死んでいておかしくない肉体だった。
聖杯戦争へ参加した時点で、彼の命は終わっていたのだ。
それでも。
雁夜は最後まで立っていた。
桜のために。
たった一人の少女を救うためだけに。
「……終わった、のか」
掠れた声。
その瞬間。
聖杯から溢れる神秘が、静かに彼へ流れ込む。
雁夜の身体が光に包まれた。
「……っ!?」
苦悶のように肩が震える。
だが、それは痛みではない。
長年身体を蝕み続けていた“異物”が、逆流するように排出されていく感覚だった。
皮膚の下が蠢く。
次の瞬間――。
ボトボト、と。
無数の刻印虫が、雁夜の身体から這い出してきた。
黒く濁った虫達は、地面へ落ちた瞬間、光に焼かれて灰になっていく。
一本。
また一本。
肺に食い込んでいた虫。
脳へ根を張っていた虫。
魔術回路へ寄生していた虫。
その全てが排除されていった。
雁夜は目を見開く。
「……あ……?」
熱が消えていく。
痛みが消えていく。
ずっと身体を苛んでいた腐敗感覚が、無くなっていく。
皮膚の壊死が再生する。
白髪化していた髪に、僅かに色が戻る。
潰れていた神経が繋がる。
壊れた内臓が、正常な形へ戻っていく。
そして。
最も深く侵されていた魔術回路。
間桐の蟲魔術によって無理矢理こじ開けられ、焼け爛れていた回路すら、静かに修復されていく。
否。
それだけではない。
回路そのものが、以前より遥かに安定し、強固になっていた。
歪な蟲使いの回路ではない。
本来、間桐雁夜という人間が持っていた“素質”そのものへ戻されている。
雁夜は、自分の手を見た。
震えが止まっている。
力が入る。
呼吸が苦しくない。
痛くない。
「……なん、だよ……これ」
声が震える。
あまりにも久しく忘れていた。
普通に呼吸できる身体。
普通に立てる感覚。
“生きている”という実感。
その時。
後ろから声がした。
「奇跡、というやつだろうな」
振り返る。
そこには軍帽を被った男――キング・ブラッドレイが立っていた。
雁夜は呆然と彼を見る。
「……アンタも、生きてんのかよ」
「見ての通りだ」
ブラッドレイは肩を竦める。
「どうやら、全員まとめて現世へ叩き落されたらしい」
雁夜は乾いた笑いを漏らした。
「ハ……滅茶苦茶だな」
「ああ」
ブラッドレイは珍しく素直に頷く。
「だが悪くない」
沈黙。
崩壊していた地下空洞には、もう悪意の気配は無かった。
雁夜はゆっくり立ち上がる。
驚くほど自然に。
痛みもなく。
足が動いた。
その事実だけで、目頭が熱くなる。
「……桜」
その名前を呟く。
まだ終わっていない。
聖杯は壊れた。
だが、間桐家は残っている。
救うべき少女も。
そして。
ブラッドレイは、そんな雁夜を静かに見ていた。
「行くのだろう?」
「ああ」
雁夜は、迷わず答えた。
もう以前のような死にかけの男ではない。
壊れた英雄でもない。
今の彼には、未来へ歩く力があった。
「……今度こそ、間に合わせる」
その言葉には。
確かな生気が宿っていた。
、その奇跡は。
地下霊脈炉の内部だけでは終わらなかった。
壊れた聖杯から溢れ出した神秘は、冬木全域へ広がっていた。
巨大な霊脈ネットワークを通じて。
光の奔流となって。
街全体を包み込んでいたのだ。
◆
遠坂邸外周。
結界維持のため、最後まで外で戦っていた魔術師達もまた、その異変を感じていた。
ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、瓦礫の中で荒い呼吸を繰り返していた。
ロード・エルメロイの天才。
だが聖杯戦争を通して、その誇り高い肉体も精神も限界まで追い詰められていた。
黒泥侵食を防ぐために酷使した魔術回路。
暴走霊脈の抑制。
連続戦闘。
既に身体中の神経が焼け付き、指先すらまともに動かなかった。
「……っ、ぐ……」
ソラウが支える。
「ケイネス!」
だが次の瞬間。
二人を、淡い光が包み込んだ。
「……?」
ケイネスの目が見開かれる。
壊れかけていた魔術回路へ、暖かな魔力が流れ込んでくる。
激痛を伴う修復。
だが、それ以上に圧倒的な“完成”の感覚があった。
損傷箇所が治っていく。
裂けていた神経が繋がる。
長年の研究でも辿り着けなかったほど理想的な形で、回路が再構築されていく。
「な……」
彼ほどの魔術師だからこそ理解できた。
これは治療ではない。
神秘による“上位改変”。
人間という器そのものが、最適化されている。
ソラウもまた息を呑んでいた。
衰弱していた身体が軽い。
視界が澄んでいる。
魔力の流れが、以前とは比較にならないほど鮮明に感じられた。
「身体が……」
ケイネスは、震える手を見つめる。
震えていない。
完璧に制御できている。
むしろ以前より魔力効率が上がっていた。
魔術刻印すら、より深く定着している。
「馬鹿な……」
ロード・エルメロイですら、理解が追いつかなかった。
「聖杯が……我々を、強化している……?」
その時。
霊脈の向こうから、雷鳴のような笑い声が響いた。
『ハハハハハ!!』
聞き慣れた声。
ライダーだった。
ケイネスとソラウは顔を見合わせる。
その声には、消滅間際の霊体の響きが無い。
まるで、生きた人間の声だった。
「まさか……」
◆
一方。
冬木大橋付近。
結界展開と避難誘導を行っていたウェイバー・ベルベットも、突然膝をついた。
「うわっ……!?」
全身へ光が流れ込む。
未熟な魔術回路が焼けるように熱い。
だが壊れない。
むしろ拡張されていく。
細く脆かった回路が、急速に強化され、安定していく。
「な、なんだこれ……!」
ウェイバーは自分の手を見る。
魔力循環が以前と全く違う。
視界すら鮮明だった。
そして何より。
彼自身の“器”が広がっている。
今まで扱えなかった高位魔術すら、理論上は行使可能だと直感できた。
「あり得ない……」
その時だった。
背後から、豪快な声が響く。
「おお、坊主!!」
ウェイバーが勢いよく振り返る。
そこには。
巨大な男が立っていた。
赤いマント。
筋骨隆々の肉体。
そして、見慣れた覇気。
「ライダー……?」
征服王イスカンダルは、実に愉快そうに笑っていた。
「どうやら余も生き返ったらしい!!」
ウェイバーの思考が止まる。
「……は?」
「ハハハ!! なんだその顔は!!」
ライダーは容赦なくウェイバーの頭を掴み、乱暴に撫で回した。
「ぐえっ!! ちょ、やめろ!!」
だが。
その感触は確かだった。
温かい。
硬い。
生きている人間の手だった。
ウェイバーは呆然とライダーを見る。
「……本当に、生きてるのか」
「ああ!」
イスカンダルは満面の笑みで答える。
「受肉などという生易しいものではないな! 完全な肉体だ!!」
ウェイバーはしばらく言葉を失い――。
やがて。
顔を覆って笑い始めた。
「……なんだよ、それ」
泣いているのか。
笑っているのか。
自分でも分からなかった。
だが。
確かに思った。
生き残ったのだ、と。
誰もが。
あの地獄を越えて。