冬木の朝。
崩壊した遠坂邸から、一人の男が駆け出していた。
間桐雁夜。
その眼には、もう死相は無い。
腐敗も。
衰弱も。
絶望も。
全て消えていた。
残っているのは――。
救わなければならない、たった一人の少女への執念だけだった。
「……桜」
地面を蹴る。
瞬間。
石畳が爆ぜた。
凄まじい魔力放出。
雁夜の身体が弾丸のように加速する。
景色が流れる。
空気が裂ける。
人間の速度ではない。
だが今の彼は、もはや以前の間桐雁夜ではなかった。
壊れた聖杯から溢れた神秘。
それによって再構築された魔術回路は、間桐の蟲魔術へ無理矢理適応した歪な回路ではない。
本来、彼が持っていた素質を遥かに超えた“完成された回路”へ変質していた。
そこへ。
大量の魔力が奔流のように流れる。
身体強化。
単純な基礎魔術。
だが出力が桁違いだった。
筋繊維。
神経伝達。
視覚処理。
骨格強度。
全てが超常レベルへ引き上げられている。
雁夜は道路を跳ぶ。
着地。
再加速。
そのたびに地面が砕け、空気が震えた。
まるでサーヴァントじみた移動速度だった。
通行人が何か黒い影を見た気がして振り返る。
だが、既にいない。
ただ突風だけが残る。
「待ってろ……桜……!!」
脳裏へ浮かぶのは、地下室の光景。
暗闇。
虫倉。
泣き声。
あの地獄を終わらせる。
今度こそ。
絶対に。
そして。
間桐邸。
冬木でも特に濃い“死”の気配を纏う魔窟。
だが今、その屋敷は異常な静寂に包まれていた。
聖杯崩壊の余波は、間桐家にも及んでいる。
蟲蔵の術式は不安定化。
地下霊脈との接続も乱れていた。
その時。
轟音。
屋敷正門が、内側から爆発したように吹き飛ぶ。
黒い影が突入する。
間桐雁夜だった。
着地と同時に、床板が陥没する。
以前の彼なら考えられない魔力圧。
屋敷中の使い魔が一斉にざわめいた。
雁夜は止まらない。
廊下を疾走。
空気が唸る。
行く手を阻む刻印虫の群れが迫る。
だが。
「邪魔だァ!!」
魔力放出。
衝撃波。
虫の群れがまとめて吹き飛び、壁へ叩き付けられて潰れる。
その光景は、もはや魔術師ではない。
怪物だった。
地下への扉へ到達。
雁夜は躊躇なく蹴り砕く。
重厚な結界扉が、紙のように吹き飛ぶ。
その先。
虫倉。
腐臭。
暗闇。
無数の蟲。
そして。
小さな少女。
間桐桜が、怯えた目でこちらを見上げていた。
「……か、りや……おじさん……?」
雁夜の足が止まる。
その声だけで。
胸が締め付けられた。
まだ間に合った。
まだ、この子はここにいる。
雁夜はゆっくり桜へ近付く。
そして。
優しく、震える声で言った。
「迎えに来た」
その瞬間。
地下の奥。
巨大な殺気が蠢いた。
間桐臓硯。
間桐家そのもののような怪物が、ついに目を覚まそうとしていた。
虫倉。
腐臭と湿気に満ちた地下空間。
桜の小さな身体を前に、間桐雁夜はゆっくり膝をついた。
「もう大丈夫だ」
その言葉を、ようやく言えた。
長かった。
あまりにも長かった。
だが――。
地下の奥から響く、粘ついた魔力音が空気を震わせる。
無数の蟲が蠢く音。
肉と骨が擦れるような、不快な気配。
間桐臓硯。
あの怪物は、まだ死んでいない。
雁夜の眼が鋭く細まる。
今の自分なら戦える。
いや。
今なら、殺せる。
その時だった。
「……マスター」
不意に、背後から低い声が響く。
雁夜が振り返る。
そこには、一人の騎士が立っていた。
黒ではない。
禍々しい狂気の鎧でもない。
銀と蒼を基調とした、本来あるべき騎士装束。
湖の騎士――ランスロット。
理性を宿したその顔は、静かだった。
雁夜は目を見開く。
「……ランスロット」
ランスロットは僅かに苦笑する。
「水臭いではありませんか、マスター」
その声音には、もう狂気は無い。
怨嗟も。
咆哮も。
ただ、一人の騎士としての落ち着きだけがあった。
雁夜は呆然と彼を見る。
「お前……消えて……」
「消えたつもりでした」
ランスロットは肩を竦める。
「ですが、どうやら私は随分としぶとかったらしい」
そして。
その視線が桜へ向く。
ランスロットは静かに片膝をついた。
怯える桜へ、騎士として丁寧に頭を下げる。
「ご安心を、お嬢様」
優しい声だった。
「今度は、我々が貴女を守ります」
桜は小さく目を見開く。
狂気のバーサーカーだった頃とは、まるで別人だった。
雁夜は、思わず笑ってしまう。
「ハ……お前、そんな喋り方出来たのかよ」
「本来はこちらです」
「知らなかったな……」
その時。
地下全体が震動した。
虫倉の奥。
闇の中から、無数の赤い光点が浮かび上がる。
『……雁夜ィ……』
老人の声。
だが、人間の声ではない。
数万の蟲が擦れ合って鳴らす、不快な集合音。
『ワシの……研究を……壊しおってェ……』
闇が蠢く。
無数の刻印虫。
肉塊。
腐敗した魔力。
間桐臓硯が、その本性を露わにする。
もはや老人の姿ですらない。
長年生へ執着し続けた成れの果て。
巨大な蟲の集合体だった。
桜が震える。
雁夜は静かに彼女を庇うよう前へ出た。
だが、その隣へ。
当然のようにランスロットが立つ。
騎士は、静かに剣を抜いた。
澄んだ銀音が地下へ響く。
「……ではマスター」
ランスロットは、かつてのように背中を預ける。
「最後の戦いと参りましょう」
雁夜は笑う。
今度は、絶望の笑みではない。
「ああ」
魔力が迸る。
以前とは比較にならない出力。
強化された魔術回路が唸りを上げる。
そして。
かつて壊れかけた男と。
狂った騎士は。
今度こそ。
“守るため”に並び立った。
虫倉の闇。
無数の蟲が蠢き、臓硯の腐敗した魔力が地下空間を満たしていく。
『あり得ぬ……』
肉塊の奥から、間桐臓硯の濁った声が響く。
『英霊は消えたはず……貴様、何故そこにおる……』
赤黒い複眼が、ランスロットを睨む。
だが。
湖の騎士は微動だにしなかった。
静かに剣を構え。
雁夜の隣へ立つ。
その姿には、もはやバーサーカーの狂気は無い。
高潔な騎士、そのものだった。
「今の私は、聖杯の神秘により受肉した身」
ランスロットは淡々と告げる。
「他のサーヴァントも同様です」
その一言で。
地下空間の空気が変わった。
臓硯の魔力が揺らぐ。
『……受肉、だと……?』
老人の声に、初めて明確な動揺が混じる。
『馬鹿な……そんなもの、第三魔法の領域……』
「ええ」
ランスロットは静かに頷いた。
「本来ならば、有り得ない奇跡でしょう」
だが。
「現に、我々はここにいる」
その瞬間。
ランスロットの身体から、膨大な魔力圧が解放された。
轟音。
地下空間の蟲達が一斉に潰れる。
空気そのものが震えた。
受肉。
それは単なる現界ではない。
魂が完全に肉体へ固定された存在。
霊体ではない。
幻想でもない。
“現実そのもの”となった英霊。
しかも。
壊れた聖杯による神秘再構築の影響で、現在のランスロットはサーヴァント時代以上に安定していた。
狂化による損耗も無い。
肉体と魂が、完全に噛み合っている。
臓硯が、初めて後退する。
『あり得ぬ……そんな……そんなことが……』
数百年を生きた怪物。
第三魔法を追い求め続けた魔術師。
だからこそ理解してしまった。
今この場に立っている騎士達は、自分が生涯求め続けても届かなかった“完成”そのものだと。
雁夜が、静かに前へ出る。
以前とは違う。
その歩みに、死の気配は無い。
強化された魔術回路。
再構築された肉体。
溢れる魔力。
今の彼は、もはや臓硯に搾取されるだけの男ではなかった。
「聞こえただろ、爺い」
雁夜の声は低い。
「もう終わりだ」
魔力が噴き上がる。
空間が軋む。
ランスロットが静かに剣を構え直した。
「貴方の時代は終わったのです、間桐臓硯」
『黙れェェェェ!!』
絶叫。
虫倉全体が爆発的に蠢く。
数万。
数十万の刻印虫が濁流のように押し寄せた。
だが。
ランスロットは一歩前へ出る。
「マスター」
「ああ」
二人は同時に踏み込んだ。
轟音。
銀光が走る。
雁夜の強化魔術が爆発的加速を生み、ランスロットの斬撃が虫の奔流を一瞬で切り裂く。
腐敗した蟲が蒸発する。
地下空間が震動する。
そして。
桜は、その背中を見ていた。
かつて壊れながらも、自分を救おうとしてくれた男。
そして今。
その隣には、誇り高い騎士が立っている。
もう。
誰も泣いていなかった。
腐臭と怨念に満ちた地下空間。
だが今、その中心に立つ間桐雁夜の姿は、かつての壊れかけた男とは別人だった。
膨大な魔力が全身を巡る。
強化された魔術回路が脈動し、まるで第二の心臓のように魔力を生み出していた。
その視線は、ただ一人へ向けられている。
小さな少女。
間桐桜。
怯え。
痛み。
諦め。
長い地獄の中で閉じ込められていた幼い少女。
雁夜は、ゆっくり膝をついた。
なるべく怖がらせないように。
優しく。
「……桜ちゃん」
桜の肩が小さく震える。
雁夜は、柔らかく笑った。
「遅くなったね」
その声には、もう焦燥も狂気も無い。
ただ、申し訳なさと優しさだけがあった。
「迎えに来たよ」
桜の目が揺れる。
信じられない。
でも、信じたい。
そんな顔だった。
「……ほん、とに……?」
「ああ」
雁夜は迷わず頷く。
「もう終わったんだ」
その時。
地下奥から臓硯の怒声が響く。
『やめろォ!! その娘はワシの――』
「黙れ」
雁夜が振り返りもせず呟く。
瞬間。
魔力圧が爆発した。
轟音。
空気そのものが沈み込み、迫っていた蟲の群れがまとめて押し潰される。
臓硯が絶句する。
以前の雁夜なら有り得ない。
今の彼は、聖杯の神秘によって完全に別次元の魔術師へ変貌していた。
雁夜は再び桜を見る。
「少しだけ、熱いかもしれない」
そして。
そっと桜の胸元へ手を当てた。
次の瞬間。
莫大な魔力が流れ込む。
桜の身体が淡く発光する。
「――――ッ!?」
桜が小さく息を呑む。
体内。
神経へ絡みついていた刻印虫。
魔術回路へ侵食していた蟲。
内臓へ食い込んでいた寄生体。
その全てが、超高密度魔力によって一斉に焼かれていく。
ジュッ――。
肉の焼ける音。
だが、傷は残らない。
今の雁夜の魔力制御は、以前とは比較にならない。
必要最低限の箇所だけを、正確に焼き切っていく。
桜の身体が震える。
苦しみ。
恐怖。
長年染み付いた呪い。
それらが、体内から剥がれ落ちていく。
そして。
ボトボト、と。
無数の刻印虫が桜の口や皮膚から這い出し、床へ落ちる。
だが次の瞬間には、ランスロットの剣圧でまとめて粉砕された。
虫倉に、絶叫が響く。
『やめろォォォォ!!』
臓硯だった。
蟲達が焼かれるたび、奴の肉体も崩れていく。
刻印虫は、臓硯そのもの。
つまり今、雁夜は間接的に臓硯を焼き殺しているのだ。
だが雁夜は止めない。
ただ静かに、優しく魔力を流し続ける。
「大丈夫」
桜の頭を撫でる。
「もう痛くない」
その言葉を聞いた瞬間。
桜の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「……ぅ……」
声にならない。
ずっと耐えていた。
ずっと怖かった。
ずっと苦しかった。
だが。
今。
初めて理解した。
助けが来たのだと。
雁夜は静かに桜を抱き寄せる。
軽かった。
あまりにも。
こんな小さな身体で、どれだけ地獄を耐えてきたのか。
その時。
最後の刻印虫が焼き切れる。
桜の身体から、濁った魔力が完全に消えた。
空気が変わる。
呪いが消える。
間桐の闇が、一つ終わった。
桜は震えながら、雁夜の服を掴む。
「……かりや、おじさん……」
「ああ」
「……あったかい……」
その言葉に。
間桐雁夜は、静かに目を閉じた。
ようやく。
本当に、間に合ったのだ。
桜を抱き寄せたまま。
間桐雁夜は、ゆっくり立ち上がった。
その眼に、もう迷いは無い。
地下虫倉。
腐臭。
血。
蟲。
数百年積み重ねられてきた、間桐の闇。
その全てが、今なお蠢いている。
『雁夜ィィ……!!』
臓硯の絶叫が響く。
壁が裂ける。
床が蠢く。
無数の刻印虫が濁流となって押し寄せた。
だが。
雁夜は、一歩も退かなかった。
その背後には桜がいる。
もう、それだけで充分だった。
「……臓硯」
低い声。
静かな怒り。
「間桐の穢れた歴史は終わりだ」
その瞬間。
雁夜の魔力が解放された。
轟音。
地下空間そのものが震える。
床が砕け、空気が圧壊する。
以前の彼なら、自壊していた出力。
だが今は違う。
聖杯の神秘によって再構築された回路が、膨大な魔力を完璧に制御していた。
ランスロットが静かに後退する。
騎士は理解していた。
これは、主の戦いだと。
『馬鹿なァァァ!! ただの出来損ないがァ!!』
蟲の奔流が迫る。
だが。
雁夜は右手を前へ突き出した。
「燃えろ」
莫大な魔力が収束する。
次の瞬間。
白熱。
超高密度魔力が奔流となって解き放たれた。
それは炎ではない。
純粋魔力による“神秘焼却”。
空間そのものが発光する。
押し寄せた刻印虫の群れが、一瞬で蒸発した。
『ギャアアアアアア!!』
臓硯が絶叫する。
だが終わらない。
雁夜の魔力は止まらない。
虫倉全体へ、光が広がっていく。
壁。
床。
天井。
無数に潜んでいた蟲達が次々と焼かれ、灰になっていく。
『やめろ……!! ワシは……ワシは間桐の――』
「だから終わりだと言ってるんだ」
雁夜の眼は冷たかった。
数百年。
人を喰い。
命を弄び。
子供を地獄へ沈め続けた怪物。
その歴史を、ここで断つ。
地下最深部。
巨大な肉塊が姿を現す。
無数の蟲が絡み合った、臓硯の本体。
間桐臓硯、そのもの。
『死にたくない……!!』
老人は、初めて恐怖を露わにした。
醜く。
惨めに。
永遠を求め続けた怪物は、最後の最後で“死”を恐れていた。
だが。
雁夜は一切揺るがない。
「桜を泣かせた」
一歩。
「人を道具にした」
一歩。
「何百年も、生きる価値も無いものを積み上げた」
そして。
臓硯の眼前へ立つ。
圧倒的魔力が右腕へ集中する。
空間が軋む。
臓硯が絶叫した。
『やめ――』
「消えろ」
拳が振り抜かれた。
――轟音。
白い閃光が虫倉を呑み込む。
超高密度魔力による完全破壊。
刻印虫。
術式。
魂の分割。
擬似不死構造。
その全てをまとめて焼却する。
概念ごと。
痕跡すら残さず。
『ア――――――』
断末魔は最後まで続かなかった。
次の瞬間。
間桐臓硯は、完全に消滅した。
静寂。
虫の音が消える。
腐臭が薄れていく。
地下空間を覆っていた濁った魔力も、霧散していった。
数百年続いた間桐の呪い。
その根源が、ついに消えたのだ。
雁夜は静かに息を吐く。
振り返る。
桜が、不安そうにこちらを見ていた。
だがもう、恐怖は無かった。
雁夜は優しく笑う。
「終わったよ」
その言葉を聞いた瞬間。
桜は堪え切れず、泣きながら雁夜へ飛び付いた。
雁夜は、その小さな身体をしっかり抱き締める。
ランスロットは静かに剣を納めた。
そして。
崩れ始める虫倉を見上げ、小さく呟く。
「……ようやく、終わったのですね」
誰も否定しなかった。
それは。
聖杯戦争より遥か以前から続いていた、間桐の闇の終焉だった。
崩壊し始めた虫倉。
だが、そこに満ちていた腐臭も怨念も、もう急速に薄れていた。
間桐臓硯は消えた。
数百年続いた呪いは終わったのだ。
雁夜は、泣き疲れた桜をそっと抱き上げる。
軽い。
あまりにも軽かった。
この小さな身体で、どれほどの地獄を耐えてきたのか。
思うだけで胸が痛んだ。
ランスロットが静かに周囲を警戒している中、雁夜はゆっくり桜を見た。
なるべく優しく。
怖がらせないように。
「……桜ちゃん」
桜が赤くなった目で見上げる。
雁夜は少し困ったように笑った。
「提案があるんだけどさ」
言葉を選ぶ。
焦らせたくなかった。
この子は、ずっと“選べなかった”のだから。
「おじさんと、一緒に暮らさないかい?」
桜の目が、小さく見開かれる。
雁夜は続けた。
「勿論、桜ちゃんが良ければだけど」
その声には、押し付けが無い。
ただ、願いだけがあった。
「もし遠坂に帰りたいなら、それでも良い」
時臣のことを思い出す。
歪んでいたとはいえ、あれもまた父としての選択だった。
だから雁夜は、桜自身に選ばせようとした。
「もう、誰も桜ちゃんを勝手に決めたりしない」
その言葉に。
桜の肩が小さく震える。
選ぶ。
それは彼女にとって、あまりにも衝撃なことだった。
今まで全部、大人が決めてきた。
遠坂から間桐へ送られた時も。
虫倉へ入れられた時も。
痛みに耐える時も。
全部。
でも今。
初めて、“どうしたいか”を聞かれている。
桜は俯く。
小さな手が、ぎゅっと雁夜の服を掴んだ。
「……おじさん」
「ああ」
「……いっしょが、いい……」
震える声。
泣きそうな声。
「……もう、ひとり、やだ……」
その瞬間。
雁夜の表情が崩れた。
ずっと張り詰めていたものが、ようやくほどける。
「ああ」
彼は、優しく桜を抱き締めた。
「もう一人にしない」
絶対に。
二度と。
その言葉には、以前のような自己犠牲の狂気は無かった。
ただ、守りたいという純粋な意志だけがあった。
桜は雁夜へ顔を埋める。
温かい。
怖くない。
痛くない。
それが、信じられないほど安心できた。
ランスロットは、その光景を静かに見守っていた。
やがて騎士は、小さく目を閉じる。
救われたのだ。
ようやく。
主も。
少女も。
そして恐らく、自分自身も。
虫倉を後にし。
崩壊し始めた間桐邸の廊下を、三人は静かに歩いていた。
もう、あの陰湿な気配は無い。
蟲の音も。
腐臭も。
誰かの悲鳴も。
全て終わった。
桜は雁夜へしがみつくように抱かれている。
まだ不安は残っている。
だが、その表情には確かな安堵もあった。
その少し後ろを、ランスロットが静かに歩いていた。
銀の騎士。
かつて狂気に堕ちたバーサーカー。
だが今、その姿には穏やかな気品だけが残っていた。
雁夜は、ふと足を止める。
「……なあ、ランスロット」
「はい、マスター」
自然な返答。
以前なら咆哮しか返せなかった男とは思えない。
雁夜は少し頭を掻く。
「その“マスター”っての、なんかもう変な感じだな」
ランスロットは僅かに笑った。
「既に聖杯戦争は終結していますからね」
「ああ」
雁夜は少し考え――。
そして、真っ直ぐランスロットを見た。
「ランスロットも、一緒にどうかな」
騎士が目を瞬かせる。
雁夜は照れ臭そうに笑った。
「三人で、家族にならないか?」
沈黙。
崩壊音だけが響く。
桜も、そっとランスロットを見る。
騎士は動かなかった。
まるで、その言葉の意味を理解するまで時間が必要だったように。
「……家族」
その単語を、ランスロットは静かに繰り返す。
遠い昔。
王に仕え。
騎士として生き。
罪を背負い。
全てを壊した男。
忠義はあった。
誇りもあった。
だが、“居場所”など最後には失っていた。
そんな自分へ。
今。
この男は、家族になろうと言った。
ランスロットはゆっくり目を伏せる。
「私は……」
かつてブリテンを滅ぼした騎士。
狂気へ堕ちた英霊。
血塗れの罪人。
本来なら、そんな資格は無い。
だが。
桜が、小さく口を開く。
「……らんすろっと、さん」
騎士が顔を上げる。
桜は、少しだけ不安そうに、それでも勇気を出して言った。
「……いっしょ、やだ……?」
その瞬間。
ランスロットの顔から、完全に力が抜けた。
困ったように。
泣きそうに。
そして、どこか救われたように笑う。
「……敵いませんね」
騎士は静かに片膝をついた。
桜と視線を合わせる。
「もし貴女方が、それを許してくださるなら」
その声音は、震えていた。
「これ以上の誉れはありません」
雁夜は笑った。
「決まりだな」
ランスロットは小さく頷く。
その表情には、もう狂気も後悔も無かった。
ただ穏やかな安堵だけがある。
崩壊する間桐邸。
だが、その瓦礫の中で。
三人は、ようやく手に入れた。
戦いではない。
義務でもない。
ただ帰る場所を。
そして。
外へ出ると、朝日が三人を照らしていた。
長い夜は、終わったのだ。