冬木の番外次席   作:甘めのコーヒー

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第68話

冬木の朝。

 

 崩壊した遠坂邸から、一人の男が駆け出していた。

 

 間桐雁夜。

 

 その眼には、もう死相は無い。

 

 腐敗も。

 衰弱も。

 絶望も。

 

 全て消えていた。

 

 残っているのは――。

 

 救わなければならない、たった一人の少女への執念だけだった。

 

「……桜」

 

 地面を蹴る。

 

 瞬間。

 

 石畳が爆ぜた。

 

 凄まじい魔力放出。

 

 雁夜の身体が弾丸のように加速する。

 

 景色が流れる。

 

 空気が裂ける。

 

 人間の速度ではない。

 

 だが今の彼は、もはや以前の間桐雁夜ではなかった。

 

 壊れた聖杯から溢れた神秘。

 

 それによって再構築された魔術回路は、間桐の蟲魔術へ無理矢理適応した歪な回路ではない。

 

 本来、彼が持っていた素質を遥かに超えた“完成された回路”へ変質していた。

 

 そこへ。

 

 大量の魔力が奔流のように流れる。

 

 身体強化。

 

 単純な基礎魔術。

 

 だが出力が桁違いだった。

 

 筋繊維。

 神経伝達。

 視覚処理。

 骨格強度。

 

 全てが超常レベルへ引き上げられている。

 

 雁夜は道路を跳ぶ。

 

 着地。

 

 再加速。

 

 そのたびに地面が砕け、空気が震えた。

 

 まるでサーヴァントじみた移動速度だった。

 

 通行人が何か黒い影を見た気がして振り返る。

 

 だが、既にいない。

 

 ただ突風だけが残る。

 

「待ってろ……桜……!!」

 

 脳裏へ浮かぶのは、地下室の光景。

 

 暗闇。

 虫倉。

 泣き声。

 

 あの地獄を終わらせる。

 

 今度こそ。

 

 絶対に。

 

 そして。

 

 間桐邸。

 

 冬木でも特に濃い“死”の気配を纏う魔窟。

 

 だが今、その屋敷は異常な静寂に包まれていた。

 

 聖杯崩壊の余波は、間桐家にも及んでいる。

 

 蟲蔵の術式は不安定化。

 地下霊脈との接続も乱れていた。

 

 その時。

 

 轟音。

 

 屋敷正門が、内側から爆発したように吹き飛ぶ。

 

 黒い影が突入する。

 

 間桐雁夜だった。

 

 着地と同時に、床板が陥没する。

 

 以前の彼なら考えられない魔力圧。

 

 屋敷中の使い魔が一斉にざわめいた。

 

 雁夜は止まらない。

 

 廊下を疾走。

 

 空気が唸る。

 

 行く手を阻む刻印虫の群れが迫る。

 

 だが。

 

「邪魔だァ!!」

 

 魔力放出。

 

 衝撃波。

 

 虫の群れがまとめて吹き飛び、壁へ叩き付けられて潰れる。

 

 その光景は、もはや魔術師ではない。

 

 怪物だった。

 

 地下への扉へ到達。

 

 雁夜は躊躇なく蹴り砕く。

 

 重厚な結界扉が、紙のように吹き飛ぶ。

 

 その先。

 

 虫倉。

 

 腐臭。

 暗闇。

 無数の蟲。

 

 そして。

 

 小さな少女。

 

 間桐桜が、怯えた目でこちらを見上げていた。

 

「……か、りや……おじさん……?」

 

 雁夜の足が止まる。

 

 その声だけで。

 

 胸が締め付けられた。

 

 まだ間に合った。

 

 まだ、この子はここにいる。

 

 雁夜はゆっくり桜へ近付く。

 

 そして。

 

 優しく、震える声で言った。

 

「迎えに来た」

 

 その瞬間。

 

 地下の奥。

 

 巨大な殺気が蠢いた。

 

 間桐臓硯。

 

 間桐家そのもののような怪物が、ついに目を覚まそうとしていた。

 

虫倉。

 

 腐臭と湿気に満ちた地下空間。

 

 桜の小さな身体を前に、間桐雁夜はゆっくり膝をついた。

 

「もう大丈夫だ」

 

 その言葉を、ようやく言えた。

 

 長かった。

 

 あまりにも長かった。

 

 だが――。

 

 地下の奥から響く、粘ついた魔力音が空気を震わせる。

 

 無数の蟲が蠢く音。

 

 肉と骨が擦れるような、不快な気配。

 

 間桐臓硯。

 

 あの怪物は、まだ死んでいない。

 

 雁夜の眼が鋭く細まる。

 

 今の自分なら戦える。

 

 いや。

 

 今なら、殺せる。

 

 その時だった。

 

「……マスター」

 

 不意に、背後から低い声が響く。

 

 雁夜が振り返る。

 

 そこには、一人の騎士が立っていた。

 

 黒ではない。

 

 禍々しい狂気の鎧でもない。

 

 銀と蒼を基調とした、本来あるべき騎士装束。

 

 湖の騎士――ランスロット。

 

 理性を宿したその顔は、静かだった。

 

 雁夜は目を見開く。

 

「……ランスロット」

 

 ランスロットは僅かに苦笑する。

 

「水臭いではありませんか、マスター」

 

 その声音には、もう狂気は無い。

 

 怨嗟も。

 咆哮も。

 

 ただ、一人の騎士としての落ち着きだけがあった。

 

 雁夜は呆然と彼を見る。

 

「お前……消えて……」

 

「消えたつもりでした」

 

 ランスロットは肩を竦める。

 

「ですが、どうやら私は随分としぶとかったらしい」

 

 そして。

 

 その視線が桜へ向く。

 

 ランスロットは静かに片膝をついた。

 

 怯える桜へ、騎士として丁寧に頭を下げる。

 

「ご安心を、お嬢様」

 

 優しい声だった。

 

「今度は、我々が貴女を守ります」

 

 桜は小さく目を見開く。

 

 狂気のバーサーカーだった頃とは、まるで別人だった。

 

 雁夜は、思わず笑ってしまう。

 

「ハ……お前、そんな喋り方出来たのかよ」

 

「本来はこちらです」

 

「知らなかったな……」

 

 その時。

 

 地下全体が震動した。

 

 虫倉の奥。

 

 闇の中から、無数の赤い光点が浮かび上がる。

 

『……雁夜ィ……』

 

 老人の声。

 

 だが、人間の声ではない。

 

 数万の蟲が擦れ合って鳴らす、不快な集合音。

 

『ワシの……研究を……壊しおってェ……』

 

 闇が蠢く。

 

 無数の刻印虫。

 

 肉塊。

 

 腐敗した魔力。

 

 間桐臓硯が、その本性を露わにする。

 

 もはや老人の姿ですらない。

 

 長年生へ執着し続けた成れの果て。

 

 巨大な蟲の集合体だった。

 

 桜が震える。

 

 雁夜は静かに彼女を庇うよう前へ出た。

 

 だが、その隣へ。

 

 当然のようにランスロットが立つ。

 

 騎士は、静かに剣を抜いた。

 

 澄んだ銀音が地下へ響く。

 

「……ではマスター」

 

 ランスロットは、かつてのように背中を預ける。

 

「最後の戦いと参りましょう」

 

 雁夜は笑う。

 

 今度は、絶望の笑みではない。

 

「ああ」

 

 魔力が迸る。

 

 以前とは比較にならない出力。

 

 強化された魔術回路が唸りを上げる。

 

 そして。

 

 かつて壊れかけた男と。

 狂った騎士は。

 

 今度こそ。

 

 “守るため”に並び立った。

 

虫倉の闇。

 

 無数の蟲が蠢き、臓硯の腐敗した魔力が地下空間を満たしていく。

 

『あり得ぬ……』

 

 肉塊の奥から、間桐臓硯の濁った声が響く。

 

『英霊は消えたはず……貴様、何故そこにおる……』

 

 赤黒い複眼が、ランスロットを睨む。

 

 だが。

 

 湖の騎士は微動だにしなかった。

 

 静かに剣を構え。

 雁夜の隣へ立つ。

 

 その姿には、もはやバーサーカーの狂気は無い。

 

 高潔な騎士、そのものだった。

 

「今の私は、聖杯の神秘により受肉した身」

 

 ランスロットは淡々と告げる。

 

「他のサーヴァントも同様です」

 

 その一言で。

 

 地下空間の空気が変わった。

 

 臓硯の魔力が揺らぐ。

 

『……受肉、だと……?』

 

 老人の声に、初めて明確な動揺が混じる。

 

『馬鹿な……そんなもの、第三魔法の領域……』

 

「ええ」

 

 ランスロットは静かに頷いた。

 

「本来ならば、有り得ない奇跡でしょう」

 

 だが。

 

「現に、我々はここにいる」

 

 その瞬間。

 

 ランスロットの身体から、膨大な魔力圧が解放された。

 

 轟音。

 

 地下空間の蟲達が一斉に潰れる。

 

 空気そのものが震えた。

 

 受肉。

 

 それは単なる現界ではない。

 

 魂が完全に肉体へ固定された存在。

 

 霊体ではない。

 

 幻想でもない。

 

 “現実そのもの”となった英霊。

 

 しかも。

 

 壊れた聖杯による神秘再構築の影響で、現在のランスロットはサーヴァント時代以上に安定していた。

 

 狂化による損耗も無い。

 

 肉体と魂が、完全に噛み合っている。

 

 臓硯が、初めて後退する。

 

『あり得ぬ……そんな……そんなことが……』

 

 数百年を生きた怪物。

 

 第三魔法を追い求め続けた魔術師。

 

 だからこそ理解してしまった。

 

 今この場に立っている騎士達は、自分が生涯求め続けても届かなかった“完成”そのものだと。

 

 雁夜が、静かに前へ出る。

 

 以前とは違う。

 

 その歩みに、死の気配は無い。

 

 強化された魔術回路。

 再構築された肉体。

 溢れる魔力。

 

 今の彼は、もはや臓硯に搾取されるだけの男ではなかった。

 

「聞こえただろ、爺い」

 

 雁夜の声は低い。

 

「もう終わりだ」

 

 魔力が噴き上がる。

 

 空間が軋む。

 

 ランスロットが静かに剣を構え直した。

 

「貴方の時代は終わったのです、間桐臓硯」

 

『黙れェェェェ!!』

 

 絶叫。

 

 虫倉全体が爆発的に蠢く。

 

 数万。

 数十万の刻印虫が濁流のように押し寄せた。

 

 だが。

 

 ランスロットは一歩前へ出る。

 

「マスター」

 

「ああ」

 

 二人は同時に踏み込んだ。

 

 轟音。

 

 銀光が走る。

 

 雁夜の強化魔術が爆発的加速を生み、ランスロットの斬撃が虫の奔流を一瞬で切り裂く。

 

 腐敗した蟲が蒸発する。

 

 地下空間が震動する。

 

 そして。

 

 桜は、その背中を見ていた。

 

 かつて壊れながらも、自分を救おうとしてくれた男。

 

 そして今。

 

 その隣には、誇り高い騎士が立っている。

 

もう。

 

 誰も泣いていなかった。

 

腐臭と怨念に満ちた地下空間。

 

 だが今、その中心に立つ間桐雁夜の姿は、かつての壊れかけた男とは別人だった。

 

 膨大な魔力が全身を巡る。

 

 強化された魔術回路が脈動し、まるで第二の心臓のように魔力を生み出していた。

 

 その視線は、ただ一人へ向けられている。

 

 小さな少女。

 

 間桐桜。

 

 怯え。

 痛み。

 諦め。

 

 長い地獄の中で閉じ込められていた幼い少女。

 

 雁夜は、ゆっくり膝をついた。

 

 なるべく怖がらせないように。

 

 優しく。

 

「……桜ちゃん」

 

 桜の肩が小さく震える。

 

 雁夜は、柔らかく笑った。

 

「遅くなったね」

 

 その声には、もう焦燥も狂気も無い。

 

 ただ、申し訳なさと優しさだけがあった。

 

「迎えに来たよ」

 

 桜の目が揺れる。

 

 信じられない。

 でも、信じたい。

 

 そんな顔だった。

 

「……ほん、とに……?」

 

「ああ」

 

 雁夜は迷わず頷く。

 

「もう終わったんだ」

 

 その時。

 

 地下奥から臓硯の怒声が響く。

 

『やめろォ!! その娘はワシの――』

 

「黙れ」

 

 雁夜が振り返りもせず呟く。

 

 瞬間。

 

 魔力圧が爆発した。

 

 轟音。

 

 空気そのものが沈み込み、迫っていた蟲の群れがまとめて押し潰される。

 

 臓硯が絶句する。

 

 以前の雁夜なら有り得ない。

 

 今の彼は、聖杯の神秘によって完全に別次元の魔術師へ変貌していた。

 

 雁夜は再び桜を見る。

 

「少しだけ、熱いかもしれない」

 

 そして。

 

 そっと桜の胸元へ手を当てた。

 

 次の瞬間。

 

 莫大な魔力が流れ込む。

 

 桜の身体が淡く発光する。

 

「――――ッ!?」

 

 桜が小さく息を呑む。

 

 体内。

 

 神経へ絡みついていた刻印虫。

 魔術回路へ侵食していた蟲。

 内臓へ食い込んでいた寄生体。

 

 その全てが、超高密度魔力によって一斉に焼かれていく。

 

 ジュッ――。

 

 肉の焼ける音。

 

 だが、傷は残らない。

 

 今の雁夜の魔力制御は、以前とは比較にならない。

 

 必要最低限の箇所だけを、正確に焼き切っていく。

 

 桜の身体が震える。

 

 苦しみ。

 恐怖。

 長年染み付いた呪い。

 

 それらが、体内から剥がれ落ちていく。

 

 そして。

 

 ボトボト、と。

 

 無数の刻印虫が桜の口や皮膚から這い出し、床へ落ちる。

 

 だが次の瞬間には、ランスロットの剣圧でまとめて粉砕された。

 

 虫倉に、絶叫が響く。

 

『やめろォォォォ!!』

 

 臓硯だった。

 

 蟲達が焼かれるたび、奴の肉体も崩れていく。

 

 刻印虫は、臓硯そのもの。

 

 つまり今、雁夜は間接的に臓硯を焼き殺しているのだ。

 

 だが雁夜は止めない。

 

 ただ静かに、優しく魔力を流し続ける。

 

「大丈夫」

 

 桜の頭を撫でる。

 

「もう痛くない」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 桜の目から、大粒の涙が零れ落ちた。

 

「……ぅ……」

 

 声にならない。

 

 ずっと耐えていた。

 

 ずっと怖かった。

 

 ずっと苦しかった。

 

 だが。

 

 今。

 

 初めて理解した。

 

 助けが来たのだと。

 

 雁夜は静かに桜を抱き寄せる。

 

 軽かった。

 

 あまりにも。

 

 こんな小さな身体で、どれだけ地獄を耐えてきたのか。

 

 その時。

 

 最後の刻印虫が焼き切れる。

 

 桜の身体から、濁った魔力が完全に消えた。

 

 空気が変わる。

 

 呪いが消える。

 

 間桐の闇が、一つ終わった。

 

 桜は震えながら、雁夜の服を掴む。

 

「……かりや、おじさん……」

 

「ああ」

 

「……あったかい……」

 

 その言葉に。

 

 間桐雁夜は、静かに目を閉じた。

 

 ようやく。

 

 本当に、間に合ったのだ。

 

桜を抱き寄せたまま。

 

 間桐雁夜は、ゆっくり立ち上がった。

 

 その眼に、もう迷いは無い。

 

 地下虫倉。

 

 腐臭。

 血。

 蟲。

 

 数百年積み重ねられてきた、間桐の闇。

 

 その全てが、今なお蠢いている。

 

『雁夜ィィ……!!』

 

 臓硯の絶叫が響く。

 

 壁が裂ける。

 

 床が蠢く。

 

 無数の刻印虫が濁流となって押し寄せた。

 

 だが。

 

 雁夜は、一歩も退かなかった。

 

 その背後には桜がいる。

 

 もう、それだけで充分だった。

 

「……臓硯」

 

 低い声。

 

 静かな怒り。

 

「間桐の穢れた歴史は終わりだ」

 

 その瞬間。

 

 雁夜の魔力が解放された。

 

 轟音。

 

 地下空間そのものが震える。

 

 床が砕け、空気が圧壊する。

 

 以前の彼なら、自壊していた出力。

 

 だが今は違う。

 

 聖杯の神秘によって再構築された回路が、膨大な魔力を完璧に制御していた。

 

 ランスロットが静かに後退する。

 

 騎士は理解していた。

 

 これは、主の戦いだと。

 

『馬鹿なァァァ!! ただの出来損ないがァ!!』

 

 蟲の奔流が迫る。

 

 だが。

 

 雁夜は右手を前へ突き出した。

 

「燃えろ」

 

 莫大な魔力が収束する。

 

 次の瞬間。

 

 白熱。

 

 超高密度魔力が奔流となって解き放たれた。

 

 それは炎ではない。

 

 純粋魔力による“神秘焼却”。

 

 空間そのものが発光する。

 

 押し寄せた刻印虫の群れが、一瞬で蒸発した。

 

『ギャアアアアアア!!』

 

 臓硯が絶叫する。

 

 だが終わらない。

 

 雁夜の魔力は止まらない。

 

 虫倉全体へ、光が広がっていく。

 

 壁。

 床。

 天井。

 

 無数に潜んでいた蟲達が次々と焼かれ、灰になっていく。

 

『やめろ……!! ワシは……ワシは間桐の――』

 

「だから終わりだと言ってるんだ」

 

 雁夜の眼は冷たかった。

 

 数百年。

 

 人を喰い。

 命を弄び。

 子供を地獄へ沈め続けた怪物。

 

 その歴史を、ここで断つ。

 

 地下最深部。

 

 巨大な肉塊が姿を現す。

 

 無数の蟲が絡み合った、臓硯の本体。

 

 間桐臓硯、そのもの。

 

『死にたくない……!!』

 

 老人は、初めて恐怖を露わにした。

 

 醜く。

 惨めに。

 

 永遠を求め続けた怪物は、最後の最後で“死”を恐れていた。

 

 だが。

 

 雁夜は一切揺るがない。

 

「桜を泣かせた」

 

 一歩。

 

「人を道具にした」

 

 一歩。

 

「何百年も、生きる価値も無いものを積み上げた」

 

 そして。

 

 臓硯の眼前へ立つ。

 

 圧倒的魔力が右腕へ集中する。

 

 空間が軋む。

 

 臓硯が絶叫した。

 

『やめ――』

 

「消えろ」

 

 拳が振り抜かれた。

 

 ――轟音。

 

 白い閃光が虫倉を呑み込む。

 

 超高密度魔力による完全破壊。

 

 刻印虫。

 術式。

 魂の分割。

 擬似不死構造。

 

 その全てをまとめて焼却する。

 

 概念ごと。

 

 痕跡すら残さず。

 

『ア――――――』

 

 断末魔は最後まで続かなかった。

 

 次の瞬間。

 

 間桐臓硯は、完全に消滅した。

 

 静寂。

 

 虫の音が消える。

 

 腐臭が薄れていく。

 

 地下空間を覆っていた濁った魔力も、霧散していった。

 

 数百年続いた間桐の呪い。

 

 その根源が、ついに消えたのだ。

 

 雁夜は静かに息を吐く。

 

 振り返る。

 

 桜が、不安そうにこちらを見ていた。

 

 だがもう、恐怖は無かった。

 

 雁夜は優しく笑う。

 

「終わったよ」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 

 桜は堪え切れず、泣きながら雁夜へ飛び付いた。

 

 雁夜は、その小さな身体をしっかり抱き締める。

 

 ランスロットは静かに剣を納めた。

 

 そして。

 

 崩れ始める虫倉を見上げ、小さく呟く。

 

「……ようやく、終わったのですね」

 

 誰も否定しなかった。

 

 それは。

 

 聖杯戦争より遥か以前から続いていた、間桐の闇の終焉だった。

 

崩壊し始めた虫倉。

 

 だが、そこに満ちていた腐臭も怨念も、もう急速に薄れていた。

 

 間桐臓硯は消えた。

 

 数百年続いた呪いは終わったのだ。

 

 雁夜は、泣き疲れた桜をそっと抱き上げる。

 

 軽い。

 

 あまりにも軽かった。

 

 この小さな身体で、どれほどの地獄を耐えてきたのか。

 

 思うだけで胸が痛んだ。

 

 ランスロットが静かに周囲を警戒している中、雁夜はゆっくり桜を見た。

 

 なるべく優しく。

 

 怖がらせないように。

 

「……桜ちゃん」

 

 桜が赤くなった目で見上げる。

 

 雁夜は少し困ったように笑った。

 

「提案があるんだけどさ」

 

 言葉を選ぶ。

 

 焦らせたくなかった。

 

 この子は、ずっと“選べなかった”のだから。

 

「おじさんと、一緒に暮らさないかい?」

 

 桜の目が、小さく見開かれる。

 

 雁夜は続けた。

 

「勿論、桜ちゃんが良ければだけど」

 

 その声には、押し付けが無い。

 

 ただ、願いだけがあった。

 

「もし遠坂に帰りたいなら、それでも良い」

 

 時臣のことを思い出す。

 

 歪んでいたとはいえ、あれもまた父としての選択だった。

 

 だから雁夜は、桜自身に選ばせようとした。

 

「もう、誰も桜ちゃんを勝手に決めたりしない」

 

 その言葉に。

 

 桜の肩が小さく震える。

 

 選ぶ。

 

 それは彼女にとって、あまりにも衝撃なことだった。

 

 今まで全部、大人が決めてきた。

 

 遠坂から間桐へ送られた時も。

 虫倉へ入れられた時も。

 痛みに耐える時も。

 

 全部。

 

 でも今。

 

 初めて、“どうしたいか”を聞かれている。

 

 桜は俯く。

 

 小さな手が、ぎゅっと雁夜の服を掴んだ。

 

「……おじさん」

 

「ああ」

 

「……いっしょが、いい……」

 

 震える声。

 

 泣きそうな声。

 

「……もう、ひとり、やだ……」

 

 その瞬間。

 

 雁夜の表情が崩れた。

 

 ずっと張り詰めていたものが、ようやくほどける。

 

「ああ」

 

 彼は、優しく桜を抱き締めた。

 

「もう一人にしない」

 

 絶対に。

 

 二度と。

 

 その言葉には、以前のような自己犠牲の狂気は無かった。

 

 ただ、守りたいという純粋な意志だけがあった。

 

 桜は雁夜へ顔を埋める。

 

 温かい。

 

 怖くない。

 

 痛くない。

 

 それが、信じられないほど安心できた。

 

 ランスロットは、その光景を静かに見守っていた。

 

 やがて騎士は、小さく目を閉じる。

 

 救われたのだ。

 

 ようやく。

 

 主も。

 少女も。

 

 そして恐らく、自分自身も。

 

虫倉を後にし。

 

 崩壊し始めた間桐邸の廊下を、三人は静かに歩いていた。

 

 もう、あの陰湿な気配は無い。

 

 蟲の音も。

 腐臭も。

 誰かの悲鳴も。

 

 全て終わった。

 

 桜は雁夜へしがみつくように抱かれている。

 

 まだ不安は残っている。

 

 だが、その表情には確かな安堵もあった。

 

 その少し後ろを、ランスロットが静かに歩いていた。

 

 銀の騎士。

 

 かつて狂気に堕ちたバーサーカー。

 

 だが今、その姿には穏やかな気品だけが残っていた。

 

 雁夜は、ふと足を止める。

 

「……なあ、ランスロット」

 

「はい、マスター」

 

 自然な返答。

 

 以前なら咆哮しか返せなかった男とは思えない。

 

 雁夜は少し頭を掻く。

 

「その“マスター”っての、なんかもう変な感じだな」

 

 ランスロットは僅かに笑った。

 

「既に聖杯戦争は終結していますからね」

 

「ああ」

 

 雁夜は少し考え――。

 

 そして、真っ直ぐランスロットを見た。

 

「ランスロットも、一緒にどうかな」

 

 騎士が目を瞬かせる。

 

 雁夜は照れ臭そうに笑った。

 

「三人で、家族にならないか?」

 

 沈黙。

 

 崩壊音だけが響く。

 

 桜も、そっとランスロットを見る。

 

 騎士は動かなかった。

 

 まるで、その言葉の意味を理解するまで時間が必要だったように。

 

「……家族」

 

 その単語を、ランスロットは静かに繰り返す。

 

 遠い昔。

 

 王に仕え。

 騎士として生き。

 罪を背負い。

 全てを壊した男。

 

 忠義はあった。

 

 誇りもあった。

 

 だが、“居場所”など最後には失っていた。

 

 そんな自分へ。

 

 今。

 

 この男は、家族になろうと言った。

 

 ランスロットはゆっくり目を伏せる。

 

「私は……」

 

 かつてブリテンを滅ぼした騎士。

 

 狂気へ堕ちた英霊。

 

 血塗れの罪人。

 

 本来なら、そんな資格は無い。

 

 だが。

 

 桜が、小さく口を開く。

 

「……らんすろっと、さん」

 

 騎士が顔を上げる。

 

 桜は、少しだけ不安そうに、それでも勇気を出して言った。

 

「……いっしょ、やだ……?」

 

 その瞬間。

 

 ランスロットの顔から、完全に力が抜けた。

 

 困ったように。

 泣きそうに。

 

 そして、どこか救われたように笑う。

 

「……敵いませんね」

 

 騎士は静かに片膝をついた。

 

 桜と視線を合わせる。

 

「もし貴女方が、それを許してくださるなら」

 

 その声音は、震えていた。

 

「これ以上の誉れはありません」

 

 雁夜は笑った。

 

「決まりだな」

 

 ランスロットは小さく頷く。

 

 その表情には、もう狂気も後悔も無かった。

 

 ただ穏やかな安堵だけがある。

 

 崩壊する間桐邸。

 

 だが、その瓦礫の中で。

 

 三人は、ようやく手に入れた。

 

 戦いではない。

 義務でもない。

 

 ただ帰る場所を。

 

 そして。

 

 外へ出ると、朝日が三人を照らしていた。

 

長い夜は、終わったのだ。

 

 

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