夜明けの風が、崩れた遠坂邸の庭を静かに抜けていった。
砕けた石畳。
崩落した壁。
焼け焦げた木々。
つい数時間前まで、世界の終わりがそこにあったとは思えないほど、冬木の朝は穏やかだった。
その瓦礫の上に腰を下ろしながら、セイバー――は、小さく息を吐いた。
「……こういうのも悪くないな」
誰に向けた訳でもない呟きだった。
だが、その言葉に最初に反応したのは、缶ビールを片手に笑っていた。イスカンダルだった。
「ハッハッハ! 今更しみじみしておるのか、セイバー!」
「騒がしい男だ」
「当然だ! 世界が終わらず、生き残り、しかも肉体まで得たのだぞ!? 酒が美味いに決まっておろう!」
豪快な笑い声が響く。
その隣では、毛布に包まったウェイバーが、疲れ切った顔で呟いた。
「もう二度と聖杯戦争なんか参加しないからな……絶対……」
「坊主、それは無理だな!」
「なんでだよ!?」
「お前、絶対また厄介事に巻き込まれる顔をしておる!」
「顔で決まるの!?」
周囲から、小さな笑いが漏れた。
それは戦いの最中には決して存在しなかった、普通の笑いだった。
少し離れた場所では、切嗣が静かに煙草へ火をつけようとして――
「切嗣」
柔らかな声に振り向く。
そこには、朝日を浴びたアイリスフィールが立っていた。
白い髪が、風に揺れる。
もう、聖杯の器ではない。
消える存在でもない。
確かな熱を持った、一人の女性として。
「……どうした?」
「ふふ。あなた、今、とても安心した顔をしてる」
切嗣は、一瞬だけ目を細めた。
そんな顔を、自分が出来るとは思っていなかった。
だが確かに――胸を焼き続けていた焦燥が、今だけは消えていた。
「……そうかもな」
短い返答。
それだけで、アイリは嬉しそうに微笑んだ。
一方、崩れた庭石の上では、ギルガメッシュが不機嫌そうに腕を組んでいた。
「雑種共め……朝から騒がしい」
「そう言いながら帰らんではないか、英雄王」
ブラッドレイの言葉に、ギルガメッシュは鼻を鳴らす。
「帰る理由が無いのでな」
「受肉したからか?」
「それもある。だが――」
赤い瞳が、静かに空を見る。
「少しだけ、この時代を見てやろうと思っただけだ」
その言葉には、以前ほどの苛烈さは無かった。
傲慢さは変わらない。
だが、人類を見下ろしながらも、どこか興味を抱いている。
そんな奇妙な柔らかさがあった。
その近くでは、言峰綺礼と遠坂時臣が、崩壊した遠坂邸を眺めていた。
「……まさか、自宅が消し飛ぶとはな」
遠坂時臣が、珍しく疲れた声で言う。
「修繕費用が頭痛の種だ」
「愉悦は無かったのか?」
「今は疲労しか無い」
「そうか」
言峰綺礼は少しだけ残念そうだった。
だがその直後、時臣がふと笑う。
「だが……生きているだけで十分か」
綺礼は黙った。
その言葉が、妙に胸へ残ったからだ。
生きている。
ただ、それだけ。
本来なら、サーヴァントも、マスターも、最後には何かを失い、誰かが死ぬ戦争だった。
だが今ここにいる者達は、全員が敗者であり、同時に生存者だった。
しばらくして、ブラッドレイが立ち上がる。
朝日が、その隻眼を照らした。
「さて」
低く、よく通る声。
自然と、全員の視線が向く。
「世界は救われた。聖杯も消えた。だが――」
彼は、自分の掌をゆっくり握る。
確かな肉体。
血流。
鼓動。
英霊ではない、生きた人間の感覚。
「我々は残った」
静寂。
「ならば、生きるしかあるまい」
それは英雄の演説ではなかった。
ただの、生存者の言葉だった。
だが――
その場の誰もが、否定しなかった。
遠くで車のエンジン音が響く。
おそらく、冬木市の救急や警察が、異常を察知して動き始めたのだろう。
秘密は、いずれ限界を迎える。
時計塔も動く。
魔術世界も、この異常を放置しない。
受肉した英霊。
変質した魔術回路。
崩壊した聖杯。
これから先、平穏だけでは終わらない。
それでも――
今だけは。
誰も、武器を取らなかった。
誰も、殺意を向けなかった。
瓦礫の中で、疲れ果てた英雄達は、ただ静かに朝を迎えていた。
崩れた遠坂邸の庭。
瓦礫の隙間から差し込む朝日が、冬木の街を淡い金色に染めていた。
夜の間、あれほど渦巻いていた瘴気も、黒泥も、呪詛も、もう存在しない。
空気は冷たく、澄んでいる。
その光景を見上げながら、キング・ブラッドレイは静かに呟いた。
「朝日か、綺麗だな。まさか再び、生身で見れるとはな」
その声には、戦場の将でも、英霊でもない、一人の老人のような静けさがあった。
義眼ではない方の瞳が、細く空を見つめる。
暖かな光。
肌を撫でる風。
肺へ入る朝の空気。
死者には、本来許されない感覚だった。
少し離れた場所で、ディルムッド・オディナが同じように空を見上げ、小さく笑った。
「確かに……美しいな」
彼はゆっくりと掌を開く。
朝日に照らされた指先には、確かな体温があった。
「英霊の座では、こういう感覚は曖昧だった。風も、温度も、匂いも……まるで薄い夢のようだったからな」
「死人には贅沢な話だ」
「はは、それを言われると否定出来ん」
そのやり取りに、近くで座っていたハサンの1人が静かに口を開いた。
「……陽光を浴びるのは、久しい」
誰も茶化さなかった。
暗殺者として語られる彼にとって、“平穏な朝”というものが、どれほど遠いものだったかを感じ取ったからだ。
すると、不意に大きな影が横へ座り込む。
「むぅ、朝飯が欲しくなる景色よな!」
豪快に笑ったのは、もちろんイスカンダルだった。
「貴様は風情より食欲か」
「当然! 英雄とは腹が減る生き物よ!」
「理屈になっておらんな」
「だが分かるだろう、セイバー!」
ブラッドレイは鼻で笑った。
「……否定はせん」
その返答に、イスカンダルは満足げに笑う。
その様子を見ながら、ウェイバーがぽつりと呟いた。
「なんか、変な感じだな……」
「何がだ、坊主?」
「だって、数時間前まで殺し合ってたんだぞ、あんた達」
その言葉に、一瞬だけ空気が静まる。
確かにそうだった。
互いを討ち、願いを奪い合うはずだった存在達。
だが。
「……殺し合いを終えたからこそ、見える景色もある」
そう言ったのは、切嗣だった。
煙草を咥えたまま、彼もまた朝日を見ている。
「俺は、こういう朝を見れる人間じゃないと思ってた」
アイリスフィールが、その隣で優しく微笑む。
「でも、見れてる」
「ああ……そうだな」
短く返しながら、切嗣は目を細めた。
焼け跡。
瓦礫。
血の跡。
それでも、世界は続いている。
そして、自分達も。
すると突然、ギルガメッシュが退屈そうに鼻を鳴らした。
「湿っぽい話ばかりだな、雑種共」
だが彼もまた、立ち去ろうとはしない。
赤い瞳は、静かに昇る太陽を見ていた。
「……だが」
珍しく、少しだけ声音が柔らかい。
「悪くはない」
その瞬間、周囲から小さな笑いが漏れた。
英雄王が“悪くない”と言った。
それだけで、妙に可笑しかったのだ。
笑い声が、朝の空へ溶けていく。
戦争は終わった。
奇跡の代償も、これから払う事になるだろう。
時計塔も動く。
教会も黙ってはいない。
受肉した英霊達は、世界そのものを揺るがす異常だ。
それでも――
今だけは。
誰も未来を恐れず、ただ朝日を見ていた。
人として。
生き残った者として。