縦横家の祖 鬼谷子 作:お腹ぽんぽん
斉(せい)の都、臨淄(りんし)。
中華の東に位置し、海に面したこの広大な国家は、古くから商業と文化が栄え、戦国七雄の中でも屈指の豊かさを誇っていた。王宮の奥深く、静寂に包まれた軍議の間で、一人の女性が車椅子に深く身を沈め、静かに羽扇(うせん)を揺らしていた。
孫臏。
魏の将軍・龐涓の狂気じみた嫉妬によって両脚を砕かれ、泥土の底から這い上がってきた『車椅子の怪物』である。
彼女が斉の将軍・田忌(でんき)に救い出され、この国で客将として迎えられてから、すでに数年の歳月が流れていた。この数年間、彼女は自ら表舞台に立つことはなく、ただ田忌の背後に影のように寄り添い、彼を通じて数々の献策を行ってきた。
田忌が連戦連勝を重ね、斉の軍部において絶対的な地位を確立できたのは、すべて孫臏の神算鬼謀によるものである。斉の威王もまた、車椅子の彼女が放つ底知れぬ知性に畏怖を抱き、今や彼女を斉の頭脳――最高軍師として厚く遇していた。
かつて、自らの脚で世界中を歩き回ることを夢見た純粋な少女は、もうどこにもいない。
歩く自由を奪われた彼女は、代わりに己の意識を天高くへと飛ばし、中華全土を俯瞰する「神の目」を獲得していた。彼女の頭脳の中には、戦国七雄のすべての地形、気候、地脈の流れ、そして各国の将軍たちの性格から兵糧の備蓄量に至るまで、ありとあらゆる情報が極限の解像度でインプットされている。
彼女にとって、世界はもはや歩いて探索する未知の領域ではなく、自らの手元で操作する盤面(ボード)へと変貌していたのである。
――そして今、その盤面が、大きく動こうとしていた。
「……急報! 魏軍が趙(ちょう)の国境を突破! 総大将・龐涓の率いる八万の大軍が、趙の王都・邯鄲(かんたん)を完全に包囲包囲いたしました!」
息を切らせて駆け込んできた伝令の叫びに、軍議の間は騒然となった。
趙は斉にとって、魏の膨張を防ぐための重要な防波堤である。その王都が落ちれば、強大な魏の軍勢がそのまま東へなだれ込み、斉の国境が直接脅かされることになる。
「龐涓め、ついに動きおったか……!」
上座に座る斉の威王が、苦虫を噛み潰したような顔で唸った。
龐涓。今や天下にその名を轟かせる無敗の大将軍である。彼の率いる魏軍は、兵士一人一人を緻密な陣形のパーツとして機能させ、大地の気を強引に戦場に固定する『結界陣形』を駆使する。それは、並の軍隊では到底太刀打ちできない、物理と魔術が融合した暴力の結晶であった。
「趙の使者は、我が国に涙ながらに援軍を要請してきておる。邯鄲の城壁は厚いが、龐涓の猛攻を前にしては、持って数ヶ月といったところだろう。……田忌将軍、直ちに出陣の支度をせよ」
「はっ! 我が斉の精鋭八万を率い、直ちに邯鄲の救援に向かいます!」
血の気の多い田忌が、勢いよく立ち上がって拝命した。
趙を救うには、一刻も早く邯鄲を包囲している魏軍の背後を突き、包囲網を解かせなければならない。それが、当時の軍事における「常識」であった。
諸将もまた、邯鄲への急行を支持し、出陣の熱気に包まれようとした、その時である。
「――お待ちください、田忌様。王様」
軍議の間の空気が、一瞬にして凍りついた。
部屋の隅で、それまで目を閉じていた孫臏が、静かに羽扇を止めて口を開いたのだ。
車椅子に座る彼女の顔には、一切の感情が浮かんでいない。ただ、夜空の星のように澄み切った、恐ろしいほどに冷徹な双眸だけが、盤面を見透かすように真っ直ぐに王と田忌を見据えていた。
「邯鄲へ直接救援に向かうのは、愚の骨頂です。それでは、龐涓の用意した『死地』に自ら飛び込むことになります」
「な、孫臏先生……!? 愚の骨頂とはどういうことだ! 邯鄲が落ちれば、次は我が国が危ういのだぞ!」
田忌が驚いたように声を荒らげたが、孫臏は微動だにしない。
彼女の脳内には、すでに現在の邯鄲周辺の状況が、手にとるようにシミュレーションされていた。
「龐涓という男は、泥臭いまでに堅実です。彼が邯鄲を包囲しているということは、背後から我々のような援軍が来ることを当然予測し、それを迎え撃つための完璧な迎撃陣形(結界)をすでに何重にも敷いているということです。怒りや焦りに任せて正面から突撃すれば、斉の精鋭八万は、魏の分厚い壁にすり潰されて全滅します」
「うむ……確かに、龐涓の陣形は天下無双。真正面からぶつかるのは分が悪いか。しかし、それではどうやって趙を救うというのだ?」
威王の問いかけに対し、孫臏は車椅子の車輪を静かに回し、軍議の机に広げられた巨大な中華の地図の前に進み出た。
彼女の細い指先が、地図の上をすーっと滑り、ある一点でピタリと止まった。
そこは、戦場である趙の邯鄲から遥か南に離れた場所。
――魏の王都、大梁(たいりょう)。
「絡まり合った糸を解く時、無理に結び目を引っ張れば、糸はさらに固く締まってしまいます。結び目を解くには、別の緩んだ場所を引くのが道理。……今、魏の精鋭八万は邯鄲に釘付けになっています。つまり、魏の王都である大梁は、もぬけの殻であり、無防備な状態です
」
孫臏の声は、まるで冷たい泉の水のように静かに、しかし絶対的な説得力を持って議場に響き渡った。
「我々が向かうべきは、邯鄲ではありません。斉軍八万の全軍をもって、魏の王都・大梁を急襲するのです。そうすれば、龐涓は趙を攻めるどころではなくなり、血相を変えて自国へと引き返してくるでしょう。これにて、趙の包囲は戦わずして解けます」
「なっ……!?」
田忌をはじめ、諸将は息を呑んだ。
敵の主力を無視し、敵の最も重要な拠点を直接叩くことで、敵軍の動きそのものを強制的にコントロールする。
後に『囲魏救趙(魏を囲んで趙を救う)』と呼ばれることになる、兵法の歴史を根底から覆す革命的な戦術の誕生であった。
「しかし先生! 大梁は堅牢な城壁に守られた大都市。いくら留守とはいえ、そう簡単に落とせるものではありませんぞ!」
「落とす必要はありません」
孫臏は、冷たい笑みを浮かべた。
「龐涓という男の『本質』を、私は誰よりも知っています。彼は貧しい村から這い上がり、血の滲むような努力で将軍の地位と権力を手に入れた。彼にとって、大梁にある己の屋敷や財産、そして王からの信頼は、己の命以上に守るべき『栄光の証』なのです。それが斉軍によって脅かされていると知れば、彼の冷静な計算は必ず狂い、大梁を救うために無理な強行軍を強いられる」
彼女の言葉は、かつて親友であった男の心理を、細胞の隅々まで解剖するような残酷さに満ちていた。
敵の陣形ではなく、敵の将軍の「心」そのものを盤上の駒として操る。これこそが、孫臏が絶望の底で獲得した、気や地脈の操作をも凌駕する真の『軍略』であった。
「大梁へ向かうと見せかけ、我々は龐涓が引き返してくるであろう帰路――『桂陵(けいりょう)』の地に先回りし、万全の陣を敷いて待ち伏せます。疲労困憊し、陣形もまともに組めない状態で駆け戻ってくる魏軍を、我々の無傷の軍勢で側面から完璧にすり潰す。……これで、龐涓の無敗の伝説は終わります」
完璧なロジック。
一切の無駄がなく、自軍の被害を最小限に抑えつつ、敵に最大の致命傷を与える必殺の罠。
威王は、車椅子の彼女から放たれる底知れぬ凄みに戦慄しながらも、その策の美しさに深く頷いた。
「……見事だ。まさに神の如き知恵。田忌よ、直ちに全軍を動かせ。すべて孫臏の指示通りに動くのだ!」
「ははっ!!」
こうして、斉の八万の大軍は、趙の邯鄲ではなく、魏の王都・大梁へと向けて密かに、しかし猛烈な速度で進軍を開始した。
孫臏は、特別に作られた揺れの少ない四輪の馬車に乗り、自らも戦場へと向かった。
馬車の窓から、流れる景色を見つめる彼女の瞳には、一切の感慨はない。
(……待っていてね、龐涓。あなたが私に用意してくれた絶望よりも、ずっと深く、冷たい地獄を、私があなたにプレゼントしてあげる)
膝から先の感覚が失われた両脚が、微かに疼く。
それは痛みの記憶ではない。これから始まる、かつての親友を徹底的に破壊するための、冷酷な演算の始まりを告げる合図であった。
一方、その頃。
趙の王都・邯鄲の城壁の前に陣を敷く、魏の総大将・龐涓。
彼は黄金の鎧を輝かせ、自らが構築した鉄壁の『結界陣形』の中央で、狂喜の声を上げていた。
「見ろ! 邯鄲の城壁が崩れていくぞ! 我が魏の兵法、我が『力』の前に、もはや中華に敵はいない!」
龐涓は、数年前のあの醜悪な嫉妬と焦燥から完全に解放されたかのように、自信に満ち溢れていた。
彼を脅かす天才・孫臏は、すでに両脚を失い、廃人となって暗い座敷牢(あるいは豚小屋)で朽ち果てた。そう信じ込んでいる彼は、自らが天下で唯一無二の存在であるという全能感に酔いしれていた。
大地を踏みしめ、数万の兵の命と気を強引に束ね上げ、力でねじ伏せる彼の戦術は、確かにこの時、戦国最強の暴力を体現していた。
「斉の援軍など恐れるに足らん! 奴らがのこのこ邯鄲に現れれば、この陣形で一匹残らず叩き潰してやるわ!」
だが、彼がその絶頂の笑い声を上げた、まさに数日後のことであった。
血まみれの伝令が、龐涓の天幕に転がり込んできたのは。
「将軍! 一大事でございます! 斉の大軍八万が、邯鄲への救援を放棄し、我が魏の王都・大梁へ向けて猛進軍中! すでに国境を突破し、都の目前まで迫っております!!」
「……な、何だと……ッ!?」
手にした杯が、手から滑り落ち、音を立てて砕け散った。
龐涓の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「馬鹿な……斉の軍勢は大梁に向かっているだと!? 奴らの目的は趙の救援ではなかったのか!?」
「斉軍の狙いは、我々の留守を突き、王都を直接陥落させることにあるかと! このままでは、大梁が落ち、我々は帰る場所を失います!」
龐涓の脳裏に、自らが築き上げた大梁の豪邸、莫大な財宝、そして自分を将軍として取り立ててくれた魏王の顔がフラッシュバックした。
もし王都が落ちれば、自分のこれまでの努力、栄光、すべてが灰に帰す。貧しい村から血反吐を吐いて這い上がってきた彼にとって、己の「居場所」を奪われることほどの恐怖はなかった。
「おのれ、おのれぇぇッ! 斉の愚か者どもめ、軍の常識も知らんのか! ……全軍、直ちに邯鄲の包囲を解け! 大至急、大梁へ引き返すぞ!」
「し、しかし将軍! 今、陣形を解いて強行軍を行えば、兵たちの疲労は極限に達し、陣形の気も散逸してしまいます! せめて隊列を整えてから……」
「黙れ! 王都が落ちてからでは遅いのだ! 荷物や攻城兵器はすべて捨て置け! 一刻も早く、軽装で大梁へ駆け戻るのだ!!」
冷静な指揮官であれば、ここで踏みとどまり、大梁の防衛力と斉軍の進軍速度を天秤にかけ、万全の態勢で引き返す判断ができただろう。
しかし、龐涓は「己の栄光を失う恐怖」に駆られ、完全に平常心を失っていた。
それこそが、遥か遠くの馬車の中で車椅子の軍師が弾き出した、悪魔のような演算通りの『結果』であった。
魏の精鋭八万は、完璧に統制されていた結界陣形を自ら解き、パニック状態のまま、大梁へ向けて無秩序な強行軍を開始した。
休むことなく、昼夜を問わず大地を駆け抜ける。重い鎧を脱ぎ捨て、陣形の歩調もバラバラになり、兵士たちの口からは疲労の泡が吹いた。
そして、魏軍が大梁への帰路の中間地点――鬱蒼とした森と険しい丘陵に挟まれた『桂陵(けいりょう)』の地に差し掛かった時。
夕闇に包まれた森の奥から、突如として、大地を揺るがすような恐ろしい銅鑼の音が鳴り響いたのである。
「――な、何事だッ!?」
馬上で龐涓が悲鳴のような声を上げた瞬間。
桂陵の丘の上から、無数の松明の炎が一斉に灯り、待ち構えていた斉の大軍が、陣形を崩した魏軍の側面に濁流のように襲いかかってきたのだ。