縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第六節:馬陵に響く琴の音(2/6)――桂陵の戦い(後編):崩壊する方円と泥濘の幻影

 

 桂陵(けいりょう)の森は、古くから大地の気(龍脈)が複雑に絡み合い、淀む「死地」として知られていた。

 鬱蒼と生い茂る樹齢数百年の巨木たちは、天からの月光を完全に遮断し、昼であっても薄暗い。足元の土は湿り気を帯びてひどく粘りつき、行軍する兵士たちの体力を容赦なく削り取っていく。

 

 趙の王都・邯鄲の包囲を強引に解き、自国の王都である大梁(たいりょう)を救うために引き返してきた魏の八万の大軍は、この桂陵の森に差し掛かった時点で、すでに軍隊としての『機能』を半ば喪失していた。

 龐涓(ほうけん)の命令による昼夜を問わぬ強行軍。それは人間の肉体的限界を遥かに超えるものであった。重い甲冑を捨て、矛を杖代わりにし、ただ前へ前へと足を動かすだけの亡者の群れ。兵士たちの目には焦点がなく、口からは極度の疲労と脱水による白い泡が吹いている。

 何より致命的だったのは、龐涓が誇る『結界陣形』――数万の兵士を魔力の伝導体として大地の気を固定する絶対の防御システムが、隊列の乱れによって完全に崩壊していたことだ。個々の兵士の呼吸が乱れ、歩調が狂えば、それはもはや魔術回路としては機能しない。断線した巨大な機械も同然であった。

 

「……急げ。急ぐのだ。大梁が落ちれば、俺の、俺のすべてが終わる……!」

 

 軍の先頭を馬で駆ける龐涓の双眸には、もはや血走った狂気しか宿っていなかった。

 彼自身の魔力もまた、連日の不眠不休の指揮によって底を尽きかけていた。しかし、己が築き上げた富と栄光、そして「戦国最強の将軍」という絶対的なプライドを失う恐怖が、彼を無理やり突き動かしていたのである。

 

 だが、その狂信的な行軍は、桂陵の森の中央――最も道が狭く、両脇を険しい丘陵に挟まれた最悪の隘路(あいろ)に差し掛かった瞬間、唐突な終わりを迎えた。

 

 ジャァァァァァァァァァンッ!!

 

 突如として、沈黙していた森の奥から、大地そのものを震わせるような巨大な銅鑼(どら)の音が鳴り響いた。

 一つではない。前後左右、丘の上、森の奥深く。ありとあらゆる方向から、数万の軍勢が発する強烈な『殺気』が、物理的な圧力となって魏軍に叩きつけられた。

 

「な、何事だッ!? 伏兵だと!?」

 

 龐涓が馬上で絶叫した次の瞬間、桂陵の丘陵の上から、無数の松明の炎が一斉に燃え上がった。

 闇夜の森が、真昼のように照らし出される。そこに立ち並んでいたのは、疲労困憊の魏軍とは対極にある、士気旺盛で万全の態勢を整えた斉(せい)の大軍であった。

 彼らはすでに、魏軍の側面を完璧に包み込む『長蛇の陣』を敷き終えていた。

 

「敵襲ゥゥッ!! 斉軍の待ち伏せだァァァッ!!」

 

 魏の兵士たちの悲鳴が上がる。

 斉の将軍・田忌(でんき)の采配により、まずは丘の上から凄まじい数の大岩と丸太が、地響きを立てて斜面を転がり落ちてきた。

 体力の限界を迎えていた魏の兵士たちには、それを避けるだけの機動力は残されていない。数百人の兵士が、一瞬にして岩に潰され、肉塊へと変えられていく。隊列は分断され、前後の連携は完全に絶たれた。

 

「怯むな! 盾を構えよ! 中央に集まり『方円の陣』を組めェッ!!」

 

 龐涓は己の剣を抜き放ち、声を枯らして叫んだ。

 彼は己の内に残された最後の生命力を振り絞り、強引に思想盤へとアクセスを試みた。自軍の兵士たちを強制的に魔術のノード(結節点)として再接続し、大地の気(土属性の防御結界)を即席で展開しようとしたのだ。

 

「――術式展開! 対象領域、我が軍の周囲三百間! 大地の気を防壁と為せ!」

 

 龐涓の背後で、魔力の光が青白く弾ける。

 兵士たちの足元から、土の壁が隆起しようと振動を始めた。流石は天下に名高い大将軍である。この絶望的な状況下であっても、強引に魔術的な防御を成立させようとするその執念と演算能力は、並の魔術師を遥かに凌駕していた。

 

 だが。

 隆起しかけた土の壁は、完成する前に、まるで泥水のようにドロドロと崩れ落ちてしまった。

 

「な、ぜだ……!? なぜ陣形が、結界が定着しないッ!?」

 

 龐涓は吐血しながら驚愕に目を見開いた。

 術式の手順に間違いはない。だが、大地の『理』そのものが、彼の命令を強烈に拒絶していたのだ。

 その理由は、桂陵の地形と、斉軍の配置にあった。

 

 斉軍は、ただ無秩序に岩を落とし、矢を放っているわけではなかった。彼らの部隊配置は、桂陵の森を流れる「水脈」と「木気」を人為的に増幅させるための巨大な『破邪の魔法陣』として機能していたのだ。

 東洋の思想魔術における五行思想。木は土を剋し、水は土を流す。

 龐涓が得意とする強固な「土の陣形」を完全に封じ込めるため、斉軍は桂陵の自然環境そのものを武器として用い、龐涓の魔術基盤を概念的なレベルで『無効化』していたのである。

 

「馬鹿な……田忌ごときに、これほど精密な地脈の操作ができるはずがない! これは、まるで、まるで……!!」

 

 龐涓の脳裏に、かつて鬼谷の箱庭で、自らの完璧な陣形を笑いながら崩してみせた、あの底知れぬ少女の顔がフラッシュバックした。

 

『龐涓の陣形、すっごく綺麗。でもね、綺麗すぎるから、どこから崩せばいいかすぐ分かっちゃうの』

 

「……違う。あり得ん。あり得んぞ、こんなことは!」

 

 彼が恐怖に顔を歪めたその時。

 斉軍の本陣が置かれた最も高い丘の上で、スルスルと巨大な『旗』が夜風に翻った。

 

 それは、斉の王室を示す旗でも、総大将である田忌の旗でもなかった。

 月光に照らし出された真っ白な布地。そこに、禍々しいほどの漆黒の墨で、ただ一文字だけが大きく染め抜かれている。

 

 ――『孫(そん)』。

 

「――――ッ!!!」

 

 その一文字を見た瞬間。

 龐涓の心臓は、文字通り凍りついたようにその鼓動を停止した。

 全身の毛穴が粟立ち、呼吸の仕方を忘れ、手から剣が滑り落ちて泥にまみれる。

 

「将軍! あの旗は……まさか、我が魏の陣形を一瞬で無力化するあの恐るべき戦術は……!」

「孫臏(そんぴん)! かつて我が国で斉の密偵として処刑されたはずの、あの孫臏が生きているというのか!?」

 

 周囲の将校たちが、絶望的な悲鳴を上げる。

 間違いない。単なる兵力の差ではない。この、敵の心理を極限まで読み切り、大地の法則そのものを味方につけて敵をすり潰す、残酷なまでに美しい『戦場のロジック』。

 それは、自分が両膝の骨を砕き、翼をもぎ取り、暗い豚小屋の泥の中に沈めたはずの、あの絶対的な天才の兵法に他ならなかった。

 

「生きて……いた、だと? あいつが、あの女が……?」

 

 龐涓は、馬の上でガタガタと震えながら、丘の上に翻る『孫』の旗を凝視した。

 幻覚ではない。あの丘の上から、自分を見下ろす『視線』を、確かな魔術的な重圧として肌で感じているのだ。

 自分は、大梁を攻撃されると錯覚し、邯鄲の包囲を解き、兵を限界まで疲労させ、そして大地の気が最も不利に働くこの桂陵の地まで、文字通り『誘導』されてきたのだ。

 最初から最後まで。魏軍の動きのすべてが、あの車椅子の怪物の掌の上で踊らされていたという絶対的な事実。

 

 己が血反吐を吐いて築き上げた「無敗の大将軍」という誇りが、プライドが、根底から音を立てて崩れ去っていく。

 恐怖。驚愕。そして、それらを一瞬にして焼き尽くすほどの、ドロドロとした真っ黒な『嫉妬と憎悪』が、龐涓の精神を完全に崩壊させた。

 

「あ、あああ、アアアアアアアアアアアアアッッッ!!!」

 

 龐涓は、狂気の発作を起こしたように天を仰いで咆哮した。

 

「ふざけるな! 俺はお前を壊した! お前の脚を砕き、俺の足元で永遠に地を這う虫けらに変えてやったはずだ!! お前が俺を見下ろすな! 俺の栄光を、俺の天下を奪うなァァァッ!!」

 

 もはや、そこには大将軍としての理知的な姿はなかった。

 ただの、才能に対する劣等感に狂った一匹の野獣。

 

「総員、突撃しろォォッ! 防御など捨て置け! あの丘を駆け上がり、『孫』の旗を掲げる本陣を落とせ! 奴を、孫臏をここで確実に殺せェェェッ!!」

 

 それは、軍事行動としては最悪の命令であった。

 地の利も、陣形も、体力もすべて失っている状況で、斜面を駆け上がっての突撃など、自殺行為以外の何物でもない。

 だが、狂乱した総大将の命令により、魏軍の残存兵力は死に物狂いで斉軍の本陣へと向かって斜面を登り始めた。

 

 ――その無惨な光景を。

 丘の上の本陣から、孫臏は車椅子に深く身を沈めたまま、氷のように冷徹な瞳で見下ろしていた。

 

 夜風が彼女の亜麻色の髪を揺らす。

 膝から先の感覚がない両脚は、厚い布に覆われて動くことはない。

 だが、彼女の『意識』は、戦場全体の上空に展開され、すべての兵士の命の灯火、大地の気の流れ、そして龐涓の狂乱する精神状態までも、恐ろしいほどの解像度で演算し続けていた。

 

「……先生。魏軍が完全に防御陣形を放棄し、一直線にこちらへ向かって突進してきます」

 

 傍らに立つ田忌が、信じられないものを見るような顔で報告した。

 孫臏の言った通りになった。龐涓は、孫の旗を見た瞬間、将軍としての冷静な判断力を完全に失い、自ら死地へと飛び込んできたのだ。

 

「予想通りです、田忌将軍」

 

 孫臏の声には、かつての親友が発狂していく様を見せつけられているというのに、微塵の憐憫(れんびん)も、感情の揺れすらも存在しなかった。

 あるのは、ただ一つ。

 入力された数式が、正確な解答を出力したことに対する、システムとしての冷酷な肯定だけである。

 

「龐涓という男は、己の才能の限界を誰よりも恐れている。だからこそ、私という『己を超える絶対的な才能』を前にした時、彼の精神は恐怖と嫉妬で完全に飽和し、論理的な思考ができなくなる。彼を誘導するための餌は、高度な戦術などではない。私という存在そのものを見せつけるだけで十分だったのです」

 

 孫臏は、静かに羽扇を胸の前で構えた。

 彼女の脳内で、魏軍の突撃速度、距離、そして味方の弓兵たちの射撃タイミングが、コンマ一秒の狂いもなく計算されていく。

 

「哀れな男。あなたが私から奪った『歩く自由』と引き換えに、私はこの盤面のすべてを支配する神の目を得た。……あなたが私の脚を砕いたあの日から、この結末は確定していたのです」

 

 魏軍の先頭が、あらかじめ斉軍が計算し尽くしていた『必滅の死地』――いかなる陣形であろうと防御不可能な、絶対的な十字砲火の中心へと踏み込んだ。

 その瞬間、孫臏は構えていた羽扇を、鋭く下へと振り下ろした。

 

「全軍、放て。彼らに、絶望の雨を降らせなさい」

 

 ――ゴォォォォォォォォンッ!!

 

 斉軍の銅鑼が、処刑の合図として鳴り響いた。

 斜面の暗がりから、斉の誇る数万の弩(いしゆみ)隊が一斉に姿を現した。当時の最新鋭兵器であり、強力な機械仕掛けの張力によって放たれる矢は、厚い鎧をも容易く貫通する。

 さらに、その矢の先には、大地の気を乱すための呪符が巻き付けられていた。

 

 バシュゥゥゥゥッ!!という、大気を切り裂く恐ろしい破空音。

 空を覆い尽くすほどの漆黒の矢の雨が、防御を完全に捨てて突撃してくる魏の兵士たちの頭上へと、容赦なく降り注いだ。

 

「ぎゃぁぁぁぁぁぁッ!!」

「痛いッ、将軍、助け……っ!!」

 

 もはや戦いではなかった。それは、純然たる『屠殺』であった。

 矢に貫かれた兵士たちが次々と大地に倒れ伏し、その後ろから突撃してきた兵士たちが死体につまずき、そこにさらに矢の雨が降り注ぐ。

 地脈の繋がりを絶たれ、ただの肉の塊となった魏の兵士たちは、抵抗する術を一切持たず、泥と血の中に沈んでいった。

 

「怯むな! 進め! 進むのだァァァッ!!」

 

 龐涓は、味方の血を全身に浴びながらも、狂ったように剣を振り回して突進を続けようとした。

 だが、彼の愛馬が三本の矢を同時に受けて嘶きと共に倒れ込み、龐涓の身体は泥の中へと無様に放り出された。

 黄金の鎧は血と泥に塗れ、誇り高き大将軍の面影は完全に消え失せていた。

 

「将軍! もはやこれまでです! お逃げください!」

「離せッ! 俺はまだ負けておらん! あいつを、孫臏を殺すまではァァァッ!!」

 

 数名の忠実な近衛兵たちが、泣き叫ぶ龐涓の両脇を強引に抱え上げ、戦場から引きずり出すようにして撤退を開始した。

 彼らは味方の死体の山を盾にし、泥だらけになりながら、這うようにして桂陵の森の奥へと逃げ延びていく。

 その光景を、孫臏は丘の上からただ静かに、瞳の奥に冷たい光を宿したまま見つめていた。

 

「……追撃は不要です。深追いは無用」

 

 怒りに任せて追撃を命じようとしていた田忌を、孫臏が片手で制止する。

 

「龐涓は生かして帰します。ここで彼を殺してしまえば、魏は新たな将軍を立てて守りを固めてしまう。敗北の恐怖と、私への嫉妬に完全に狂った彼が総大将であり続けることこそが、魏という国を内側から崩壊させる最大の毒となるのです」

 

「……先生。あなたは、恐ろしいお方だ」

 

 田忌は、畏怖の念を込めて深く頭を下げた。

 この桂陵の戦いにおいて、魏の精鋭八万のうち、生きて帰ることができたのはわずか数千に過ぎなかった。

 天下に名高い「魏の無敗伝説」は、一人の車椅子の軍師によって、物理的にも、概念的にも、完膚なきまでに粉砕されたのである。

 

「これで、一つ目」

 

 夜明けの光が血塗られた戦場を照らし始める中、孫臏は自らの動かない両脚にそっと触れながら呟いた。

 

「あなたが築き上げた栄光の壁は、崩してあげた。でも、こんなものでは終わらせない。あなたが私から奪った夢、希望、両脚……その代償を、あなたの命と運命すべてをすり潰して支払わせるまで、私の盤面は終わらない」

 

 戦場に吹き抜ける風が、彼女の冷ややかな言葉を虚空へと溶かしていく。

 

 桂陵の戦いは、斉の大勝利に終わった。

 しかし、これは二人の天才による凄惨な因縁の、単なる第一幕の終わりに過ぎない。

 それから十数年という長い歳月が流れ――中華全土を巻き込む、最後の巨大な罠『馬陵(ばりょう)の戦い』へと、歴史の歯車は再び狂ったように回り始めるのである。

 

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