縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第六節:馬陵に響く琴の音(3/6)――馬陵の戦い(其の一):呪いの連鎖と減竈の計

 

 桂陵(けいりょう)の森における、あの悪夢のような大敗北から、十有余年の歳月が流れていた。

 一度は地に落ちた魏(ぎ)の覇権であったが、総大将・龐涓(ほうけん)は己の凄まじい執念と、魏王への変わらぬ狂信的な忠誠によって再び軍権を握り、失った兵力を強引に再建していた。

 だが、その十数年間、彼の精神が安息を得た日はただの一日として存在しない。

 

 目を閉じれば、暗闇の向こうからあの『孫』の一文字が染め抜かれた真っ白な旗が翻る。そして、車椅子に座った少女が、底の知れない漆黒の双眸で自分を見下ろし、冷ややかに嘲笑っている幻影に首を絞められるのだ。深夜、自らの絶叫で跳ね起き、全身を脂汗で濡らしながら剣を振り回す日々。

 

 彼を突き動かしていたのは、もはや若き日に抱いていた純粋な立身出世の野心ではない。孫臏(そんぴん)という存在を、その悪魔のような兵法を、この地上から完全に抹殺し、自らの優位を証明しなければ、己の魂は永遠に地獄の業火に焼かれ続けるという極限の強迫観念――すなわち『呪い』であった。

 

 その呪いは、彼の用いる兵法(魔術)をも歪ませていた。

 かつての彼の陣形は、大地の気を兵士たちと共有し、強固な防壁(結界)を築き上げる「守護」の性質を持っていた。しかし今の彼の陣形は違う。恐怖と暴力で兵士たちの生命力(オド)を強制的に搾取し、大地を枯渇させながら前進する、呪われた殺戮のシステムへと変貌していたのだ。少しでも陣形の歩調を乱した兵士は、見せしめとしてその場で首を跳ね飛ばした。兵士たちは龐涓を将軍としてではなく、狂える死神として恐れ、ただ死の恐怖から逃れるためだけに機械のように矛を振るっていた。

 

 ――そして紀元前341年。因縁の盤面は、再び最悪の形で動き出す。

 魏の恵王は、次なる覇権の足がかりとして隣国である韓(かん)への大規模な侵攻を開始した。総大将は、もちろん龐涓である。十数年の沈黙を経て牙を研ぎ澄ませた魏の十万の精鋭は、怒涛の勢いで韓の国境を蹂躙し、その王都へと迫っていた。

 龐涓は、圧倒的な暴力と呪術的陣形をもって韓の軍勢をすり潰しながら、血走った目で東の空を睨みつけていた。

(来い、斉の軍勢。来い、孫臏。今度こそ、十年前の屈辱を百倍にして返し、貴様のその細い首をへし折ってやる……!)

 窮地に陥った韓は、かつての趙と同じように、東の強国・斉(せい)へと決死の救援を求めた。

 斉の都・臨淄(りんし)。

 王宮の奥深く、結界によって俗世の音が遮断された静謐なる軍議の間。

 そこで、一人の女性が車椅子に深く身を沈め、静かに羽扇(うせん)を揺らしていた。

 孫臏。長い幽閉生活と、両脚の切断による魔術回路(経絡)の欠損、そして十数年間車椅子から降りることのできない生活は、彼女の肉体を残酷なまでに蝕んでいた。かつて太陽のように輝いていた肌は病的に白く透き通り、腕は枯れ枝のように細い。

 

しかし、その頭脳――大地の気の流れを読み、中華の因果を視通す極限の演算能力は、肉体の衰えとは反比例するように、もはや人間の枠を完全に超克し、神の領域へと達しつつあった。

 彼女が静かに瞳を閉じれば、脳内の盤面には、戦国七雄のすべての地形、気候、地脈の明滅、そして各国の将軍たちの思考の癖から兵糧の備蓄量に至るまで、ありとあらゆる情報が星の海のように展開されるのだ。

 

「……先生、韓からの悲痛な救援要請が届きました。すでに魏軍十万は韓の国境を突破し、王都に迫っております」

 

 大将軍・田忌(でんき)が、険しい表情で巨大な戦術地図を見つめながら報告した。十数年の歳月は、血気盛んだった田忌にも深い年輪と、冷静な将軍としての風格を与えていた。

 

「十年前の『桂陵』の時と同じように、魏の王都・大梁を直接突きますか? しかし、斥候の報告によれば、龐涓は我々の『囲魏救趙』を当然警戒し、魏の国内の防備を異常なまでに何重にも固めて韓へ出陣している模様。あの強固な留守居の防壁(結界)を抜くには、数ヶ月の攻城戦を覚悟せねばなりません。大梁を突く策は、今回は通用いたしませんぞ」

 

 諸将も田忌の言葉に頷く。

 龐涓も決して無能ではない。同じ罠に二度は嵌まらないよう、国家の予算を注ぎ込んで王都に物理的・魔術的な絶対防壁を築き上げているはずだ。

 しかし、孫臏はふっと、冷たい氷のような微笑を漏らした。

 

「通用しないのなら、新しい盤面を敷くだけのことです」

 静かな、しかし部屋の空気を一瞬で凍らせるような絶対的な響き。

 

「龐涓が大梁の防備を固めているというのなら、我々はそれを無視して、魏の国内へ『深く』侵入します。彼が韓の王宮を落とすよりも早く、魏の心臓部を直接脅かす構えを見せるのです」

「なっ……! ですが先生、魏の国内へ深く入りすぎれば、我々は敵地で補給線を絶たれ、孤立することになります! 龐涓が韓から全軍を引き返してきた時、強固な城壁と、龐涓の主力軍に挟み撃ちにされれば、今度は我が斉軍が全滅しかねません!」

「それで良いのです、田忌将軍」

 

 孫臏は車椅子をゆっくりと進め、羽扇の先で、魏の国境沿いにある険しい渓谷地帯――『馬陵(ばりょう)』の一点を指し示した。

 

「龐涓は、私への恐怖と嫉妬で完全に狂っています。彼は『孫臏は自分を侮っている、自分を愚か者だと嘲笑っている』という疑心暗鬼に常に苛まれている。その彼の心理の最も脆い部分を逆手に取り、我が軍が『魏軍の圧倒的な武力を恐れ、パニックを起こして逃げ出している』と錯覚させるのです。……これを用います」

 

 孫臏が提示したのは、後に兵法の歴史にその名を永遠に刻むことになる、悪魔のような奇策――『減竈(げんそう)の計』であった。

 

「魏の領内に侵入した初日、我が軍は十万人分の飯を炊くための竈(かまど)を作ります。翌日には、それを五万人分に減らす。そしてその次の日には、さらに三万人分へと減らすのです」

 

 田忌は一瞬、その意図が分からずに首を傾げた。竈の数を減らす? それがどうして戦術に結びつくのか。

 だが、次の瞬間、彼は孫臏の狙う恐るべき『概念的・精神的汚染の罠』に気づき、全身の毛穴が粟立つのを感じた。

 

「……なるほど……!! 竈とは、兵士たちの命の火。軍営から立ち上る煙と熱は、軍勢が放つ生命力の象徴だ。魏軍の斥候や魔術師が我が軍のキャンプ跡を見れば、竈の数とそこから立ち上る気の残滓が、日に日に急激に減っているのを確認することになる。彼らは、斉の兵士たちが魏の武力を恐れ、毎日大量に脱走(夜逃げ)して自滅していると勘違いするわけか!」

 

「ご名答です。ただ逃げるだけでは、龐涓は罠を疑うでしょう。しかし『自軍の威光に怯えて敵が勝手に自滅していく痕跡』を意図的に残してやれば、どうなるか。……龐涓は、その報告を聞いた瞬間、私の兵法が『所詮は机上の空論であり、長期間の兵の統率すらまともにできない無能の戯言』だと判断し、歓喜の絶頂に達するでしょう。己の優位を証明したいという彼の歪んだ欲望は、必ず彼自身の冷静な目を完全に曇らせる」

 

 孫臏の作戦は、単なる物理的な偽装ではない。

 大地の気を読み取る敵の魔術師の目すらも欺き、戦場の法則(因果)を一時的に書き換えることで、敵将の心の傷口に正確に毒を流し込むような、非情にして完璧な『心理的呪殺』であった。

 

「彼は全軍を統率して慎重に進むのをやめ、足の速い精鋭騎兵だけを率いて、我が軍を全速力で追撃してくるはずです。大軍を動かすための結界陣形も、地の利もすべて放り出し、ただ獲物の首を狩るためだけの、無防備な獣の群れとなって。……我々は、逃げて、逃げて、逃げ続け、最後にあの『馬陵』の狭い谷底で彼らを迎撃します。大地の気が最も狭まり、光の届かないあの深淵こそが、龐涓という男の終着駅です」

 

 車椅子の上の怪物は、冷たく、残酷に笑った。

 それは、十数年前に自らの両脚を砕かれたあの日、暗い座敷牢の中で流した涙の代償を、いよいよ回収するための宣告であった。

 数日後。

 斉軍十万は、孫臏の指示通りに魏の国境を越え、猛烈な勢いで大梁へと向かうポーズを取った。

 その報を聞いた韓の戦場にいる龐涓は、桂陵の悪夢が蘇り、一瞬激しく動揺した。またしても王都を突かれた。陣形を解いて戻れば、十年前と同じように側面を突かれて全滅するかもしれない。

 だが、直後に魏の国内から届いた「斉軍の竈の数が激減し、生命力の反応(気の流れ)が霧散しつつある」という斥候と従軍魔術師からの報告を受けた瞬間。

 龐涓の天幕に、十数年ぶりの、狂気的な笑い声が響き渡ったのである。

 

「ハハハ……! 見たか! 見ろ! 斉の臆病者どもめ、我が魏軍の威名を恐れて、三日で半分以上の兵が逃げ出したぞ!」

 

 龐涓は天幕の中で、机の上の書類を撒き散らし、腹を抱えて狂ったように笑い転げた。

 彼の脳裏には、すでに車椅子の上で絶望し、脱走していく兵たちをコントロールできずに泥まみれになって泣き叫ぶ孫臏の姿が、ありありと克明に描かれていた。

 十数年間、彼を苛み続けた悪夢。毎夜毎夜、己の首を絞め続けてきた絶対的な天才という幻影が、今、ただの無能な小娘へと成り下がったのだ。彼の歪んだ精神は、この麻薬のような優越感に完全に依存し、もはや正常な思考能力を失っていた。

 

「孫臏め、所詮は鬼谷の庵にこもっていただけの青二才よ! 実戦における兵の動かし方、泥臭い人間の心の御し方など、何一つ分かっていないのだ! 俺が……俺こそが天下で最も優れた大将軍なのだ!」

 狂喜のあまり、龐涓の目からは血の涙が流れていた。

「重く足の遅い歩兵部隊はここに残せ! 俺は一刻を惜しむ! 足の速い軽騎兵二万だけを率い、昼夜を問わず奴らの背中を追いかけるぞ! 奴が逃げ切る前に、あの忌まわしい車椅子ごと、その首をこの手でへし折ってやる!!」

「将軍、お待ちください! 罠の可能性がございます! いくらなんでも脱走兵の数が多すぎる! 十年前の桂陵の時も、奴の策だったのでは……せめて結界陣形を維持できる速度で、歩兵と共に進軍を!」

 

 副将をはじめとする老将たちが、必死に龐涓の馬の轡(くつわ)に取りすがって制止した。

 しかし、龐涓は己の剣の柄で副将の顔面を容赦なく殴りつけ、馬の蹄で蹴り飛ばした。

 

「黙れ! 十年前とはわけが違う! 現に奴らの陣地からは、人間の生命力が失われていると魔術師も証言しているのだ! この勝機を逃せば、俺は二度と奴を殺せん! 俺の心は永遠に救われないのだ! 進め! 進めェェェッ!!」

 

 狂気に支配された龐涓は、自ら黒い駿馬に跨がると、二万の精鋭騎兵と共に、斉軍の後を追って猛烈な追撃を開始した。

 それは軍隊の行軍ではない。大地の流転を完全に無視し、結界による防御も、斥候による索敵もすべて放棄し、ただ本能のままに突き進む、首輪の千切れた狂犬の群れであった。

 彼らが大地を蹴り立て、魏という大国の運命をバチバチと概念的に引き裂きながら駆け抜けるその先には、孫臏が用意した最悪の死地がぽっかりと口を開けて待っていた。

 ――そして運命の日の、夕暮れ時。

 逃げる斉軍のしんがりを追って、不眠不休で駆け続けた魏の騎兵隊の眼前に。

 両脇を切り立った絶壁の崖に囲まれ、一本の細く暗い道だけが地獄の底へと続くように伸びている、不気味なほどに静まり返った渓谷が姿を現した。

 空を覆う巨大な木々が月光を遮り、大地の気が極限まで淀み、滞る場所。

 そこが、二人の天才のすべての因縁に完全なる終止符を打つ、呪われた決戦の地――『馬陵(ばりょう)』であった。

 

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