縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第六節:馬陵に響く琴の音(4/6)――馬陵の戦い(其の二):死の琴弦と、泥濘を這う孤独

 

 馬陵(ばりょう)の渓谷は、この世のすべての光を飲み込むような、底知れぬ暗黒に包まれていた。

 

 両脇を天を衝くような切り立った絶壁に挟まれ、その頂を覆い隠すように巨大な古木の枝葉が絡み合っている。月光も星の瞬きも届かず、風すらも淀み、ただ不気味なほどの静寂だけが支配する場所。

 大地の気(龍脈)を読み取る魔術師であれば、この渓谷の入り口に立っただけで発狂してもおかしくないほどの、異常な地脈の滞りがあった。ここは、世界のエネルギーが流れ込む『吹き溜まり』であり、生命力を急速に奪い取っていく、天然の巨大な呪術結界とも呼べる絶死の地であった。

 

「……急げ! 止まるな! 斉の残党どもは、この狭い谷を抜けて逃げようとしているはずだ! 一網打尽にしてくれる!」

 

 龐涓(ほうけん)の怒号が、渓谷の暗闇に虚しく反響する。

 彼が率いる二万の魏の精鋭騎兵たちは、昼夜を問わぬ強行軍によって、すでに馬も人も極限の疲労状態にあった。馬の口からは白い泡が絶え間なくこぼれ落ち、兵士たちの目は充血し、ただ前を走る仲間の背中だけを虚ろに見つめて、機械のように手綱を握りしめている。

 それでも、彼らは止まることを許されなかった。総大将である龐涓の背中から放たれる、異常なまでの執念と殺気が、彼らを死の淵へと無理やり引きずり込んでいたのだ。

 

「将軍……! お待ちください、谷が……谷が深すぎます! 前方から一切の物音が聞こえません。いくら逃走中の軍とはいえ、十万の兵が通ったにしては、大地の足跡(気の残滓)が綺麗に消えすぎております!」

 

 副将の一人が、馬を寄せて悲痛な声で進言した。

 彼の本能が、この谷が「ただの道ではない」ことを警告していたのだ。大軍が通過したならば、必ず地脈に乱れが生じる。しかし、この馬陵の谷は、まるで巨大な怪物が息を潜めて獲物を待っているかのような、人工的なまでの静けさを保っていた。

 

「黙れッ! 臆したか! 奴らは竈(かまど)を捨て、軍としての体をなしていない烏合の衆だ! 気が消散しているのは、奴らが完全に統制を失い、バラバラに逃げ散っている証拠に他ならん!」

 

 龐涓は、副将の言葉を怒鳴り散らして一蹴した。

 彼の目は完全に曇っていた。孫臏(そんぴん)を無能だと信じ込みたい。自分が天下の覇者であることを証明したい。その歪んだ自己正当化の欲望が、彼が本来持っていたはずの将軍としての直感や、魔術的な危機察知能力を完全に麻痺させてしまっていたのである。

 

 魏の騎兵二万は、一列の長い蛇のように連なりながら、馬陵の最深部――最も道幅が狭く、両脇の絶壁が頭上に迫り来る最悪の隘路(あいろ)へと踏み込んでいった。

 

 その時。

 先頭を駆けていた龐涓の馬が、突如として激しく嘶(いなな)き、前足を高く上げて急停止した。

 

「な、何だ!? どうした!」

 

 龐涓は落馬しそうになるのを必死に堪え、暗闇の前方を凝視した。

 狭い道のど真ん中。道を完全に塞ぐようにして、一本の巨大な古木が立っていた。

 いや、ただの木ではない。その巨木は、不自然なほどに周囲の樹皮が完全に剥ぎ取られ、真新しい真っ白な木肌が、暗闇の中でまるで墓標のようにヌラヌラと白く浮かび上がっていたのだ。

 

「……木だと? なぜこんな道の真ん中に……。それに、あの白い木肌に、何か文字が書かれているぞ?」

 

 龐涓は目を細めたが、闇が深すぎて文字を読み取ることができない。

 強行軍のため、彼らは夜襲を避ける意味合いも込めて松明を掲げていなかったが、この不気味な障害物を前にしては、確認せざるを得なかった。

 

「おい、松明を持て! 火をつけろ! あの木に何が書かれているのか照らし出せ!」

 

 龐涓の命令を受け、数名の近衛兵が火打ち石を叩き、松明にボッと火を灯した。

 オレンジ色の炎が、馬陵の深い闇を切り裂き、巨木の白い木肌に書かれた文字を赤々と照らし出す。

 そこには、極太の漆黒の墨で、次のように記されていた。

 

 ――『龐涓死於此樹之下(龐涓、この樹の下に死す)』。

 

「――――ッ!?」

 

 その文字を読み上げた瞬間。

 龐涓の心臓を、見えない氷の刃が深々と貫いた。

 全身の血液が一瞬にして凍りつき、呼吸が止まる。

 ただの挑発ではない。その文字から放たれるのは、圧倒的なまでの『事象の確定』。魔術的な呪詛が、その言葉を読んだ龐涓の魂と、この馬陵という座標を、概念的に完全に結びつけてしまったのだ。

 

「は、罠だッ! 火を消せ! 今すぐ火を消せェェェッ!!」

 

 龐涓が喉が裂けるほどの悲鳴を上げた、まさにその時。

 松明の炎が馬陵の谷底で揺らめいたのを、遥か絶壁の頂上から見下ろしていた『漆黒の双眸』があった。

 

「――火が、灯りました」

 

 車椅子に深く身を沈めた、斉の最高軍師・孫臏。

 彼女は、戦場全体を俯瞰する神の視座から、自分の仕掛けた因果の罠に、哀れな獲物が自ら頭を突っ込み、絶望の炎を灯したことを確認した。

 龐涓の心理を完全に読み切った、究極の誘導。彼は必ず文字を読むために火を灯す。そして、その『火』こそが、この暗闇の谷に潜む一万の斉の弩(いしゆみ)隊にとっての、完璧な射撃の標的となる。

 

 孫臏は、静かに、流れるような動作で羽扇を振り下ろした。

 

「万の弦(いと)にて、奴の傲慢なる魂に終止符を」

 

 直後。

 馬陵の絶壁の左右から、一万張りの強弩の弦が、一斉に弾かれた。

 

 ――ビィィィィィィィィィィィィンッッ!!

 

 それは、想像を絶する異様な音響であった。

 一万もの太く強靭な弦が同時に空気を叩く音は、まるで地獄の底から響き渡る、巨大で狂った『琴の音(調べ)』のように渓谷中に反響したのだ。

 美しく、そして残酷な死の旋律。孫臏という天才が、馬陵という巨大な地形を楽器とし、魏軍の命を代償にして奏でる、破滅のレクイエム。

 

 その琴の音に続くのは、大気を切り裂く一万本の矢の嵐であった。

 暗闇の中、松明の炎というただ一つの標的に向かって、正確無比な角度で降り注ぐ漆黒の雨。

 矢尻には、装甲を貫通する物理的な破壊力に加えて、大地の気の繋がりを強制的に切断する『対結界・対魔術』の概念的呪符が巻き付けられていた。

 

「ぎゃぁぁぁぁぁぁッ!!」

「痛いッ、将軍、将軍ッ……!!」

 

 松明を持っていた近衛兵たちが、一瞬にして数十本の矢を全身に浴び、ハリネズミのようになって絶命する。

 それを皮切りに、馬陵の谷底は完全なる『必滅の死地』へと変貌した。

 絶壁の上から一方的に、そして無尽蔵に降り注ぐ弩の雨。狭い谷底に二万もの騎兵が密集しているのだ。狙う必要すらなく、放たれた矢は必ず誰かの肉を貫き、馬の急所を抉った。

 

「退けェッ! 陣形を組め! 魔力を回せェェェッ!!」

 

 龐涓は、降り注ぐ矢の雨の中で、狂乱しながら叫んだ。

 彼は己の背に負った大将軍としての莫大な魔力(オド)を放出し、自軍の兵士たちと強制的に『方円の結界』を結ぼうとした。大地の気を吸い上げ、上空に物理的な土の防壁を展開できれば、矢の雨を凌げるはずだ。

 

「――土よ、集え! 我が軍を護る壁となれッ!!」

 

 だが。

 何も、起きなかった。

 彼がどれほど魔力を振り絞ろうとも、足元の大地は微塵も反応を示さない。

 

「な、なぜだ……!? なぜ気が流れない! なぜ俺の魔術が発動しないのだッ!?」

 

 龐涓が絶望に顔を歪める中、絶壁の上から、風に乗って冷ややかな、しかし確実に彼の脳髄に直接響く『声』が降り注いだ。

 

『無駄よ、龐涓』

 

「……っ!? そ、孫臏……!? お前か、孫臏ッ!!」

 

 姿は見えない。だが、大地の残響を通じて、かつての親友の声が、耳元で囁くように響いてくる。

 

『この馬陵の地形は、私が数日かけて完全に「再構築」したわ。大地の脈動を楔(くさび)で打ち止め、気の流れを完全に遮断する概念の棺。……今のあなたは、魔術的な結界に守られた大将軍じゃない。ただの、泥の上に立つ無力な人間よ』

 

「おのれ、おのれぇぇッ! 俺を、俺を嘲笑うなァァァッ!!」

 

 龐涓は血の涙を流しながら、見えない空に向かって剣を振り回した。

 彼が自らの絶対的な盾として誇っていた『兵法(魔術陣形)』は、孫臏という上位のシステム管理者によって、完全にアクセス権を剥奪され、封殺されていたのだ。

 

 琴の音が、再び鳴り響く。

 第二波、第三波と続く絶え間ない矢の雨が、魏の二万の精鋭たちを文字通り「すり潰して」いく。

 馬が倒れ、その下敷きになった兵士が悲鳴を上げ、パニックを起こした兵士同士が狭い谷で逃げ場を失って互いを踏み殺し合う。

 肉が裂け、血が泥を赤く染め、臓物が飛び散る。それは戦争というより、巨大なミキサーの中に放り込まれた肉塊の末路であった。

 

「将軍! お逃げください! ここは我々が盾になります!!」

 

 全身に何本もの矢を受けた副将が、血を吐きながら龐涓を庇うように前に出た。

 彼は、狂気に満ちた総大将であっても、最後まで魏の軍人としての忠義を尽くそうとしていた。

 しかし。

 その副将の顔を見た瞬間、龐涓の精神の奥底で、何かが決定的に『壊れる』音がした。

 

(……死ぬ? 俺が、ここで死ぬだと?)

 

 龐涓の脳裏に、かつて貧しい村で泥水に塗れ、誰からも見下されていた惨めな少年時代の記憶がフラッシュバックした。

 あんな底辺から這い上がり、血反吐を吐いて天下の大将軍にまで上り詰めたのだ。黄金の鎧を着て、万の軍勢を率い、歴史に名を刻む絶対的な覇者となるはずだった。

 それが、こんな暗い谷底で、あの忌々しい小娘の手によって、虫けらのように殺されるだと?

 

(嫌だ。死にたくない。俺の栄光を、命を、奪われてたまるか……!)

 

 恐怖。

 純粋で、圧倒的で、どうしようもなく醜悪な『死への恐怖』が、龐涓の精神から「大将軍としての誇り」を完全に消し飛ばした。

 彼は、自らを庇って前に出た忠実な副将の背中を、あろうことか『力任せに前へと突き飛ばした』のである。

 

「ぐわッ!? しょ、将軍……!?」

 

 バランスを崩して前に倒れ込んだ副将の背中に、無数の矢が深々と突き刺さる。

 龐涓は、部下の肉体を物理的な盾として扱い、その隙に己の乗っていた馬すらも蹴り捨てた。

 矢の的になりやすい巨大な標的を放棄し、彼はただ一人、生き延びるためだけに行動を開始した。

 

「どけッ! 俺の邪魔をするな! 俺は龐涓だぞ、天下の龐涓だぞォォッ!!」

 

 血の海の中、もがき苦しむ味方の兵士たちの顔を軍靴で踏みつけ、彼は馬陵の狭い谷の側面――矢の射角がわずかに死角となる、岩肌の隙間へと向かって転がるように逃げ込んだ。

 

 その姿は、あまりにも無惨であった。

 彼が何よりも執着していた大将軍の証である黄金の兜をかなぐり捨て、重い甲冑の紐を引きちぎって泥水の中に投げ捨てる。

 栄光も、誇りも、二万の精鋭たちの命も、国家への忠誠も、すべてをこの泥の中に放り出し、ただ己の命一つを繋ぐためだけに這いつくばる姿。

 

 ――それは、十数年前に彼自身が、孫臏の両脚を砕き、豚小屋の泥の中に沈めた時の姿と、恐ろしいほどの因果の反転として完全に重なり合っていた。

 

「ひぃッ、はぁッ、はぁぁッ……!!」

 

 龐涓は、矢の雨と兵士たちの断末魔の悲鳴が鳴り響く馬陵の谷底を、ただ一人、四つん這いになりながら、獣のように泥を這って進んだ。

 爪が剥がれ、指先から血が流れる。岩肌に身体を打ち付け、高価な絹の下着がボロボロに引き裂かれても、彼は止まらなかった。

 

(逃げる。逃げ延びてやる。こんな所で終わってたまるか。俺はまだ、何も成し遂げていない……!)

 

 狂乱の谷底から、たった一人だけ、暗く深い森の奥へと続く獣道へと逃げ込む龐涓。

 彼の背後では、一万の弩の弦が奏でる死の琴の音が、いつまでも、いつまでも絶えることなく鳴り響いていた。

 かつて天下を震え上がらせた無敵の軍勢は、今や完全に消滅し、残されたのは、己のすべてを失い、恐怖という名の泥濘を這いずり回る、一匹の惨めな亡者だけであった。

 

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