縦横家の祖 鬼谷子 作:お腹ぽんぽん
馬陵(ばりょう)の暗く冷たい谷底で、死の琴の音――一万の強弩が奏でる絶望の旋律が響き渡る中。
かつて戦国最強と謳われた大将軍・龐涓(ほうけん)は、ただ一人、名誉も誇りも、二万の部下たちの命すらも捨て去り、獣のように四つん這いになって泥濘(でいねい)の中を這い進んでいた。
背後からは、血の海に沈む味方の断末魔と、斉の兵士たちが勝鬨(かちどき)を上げる声が微かに聞こえてくる。
だが、龐涓の耳にはもう、それらの音はまともに届いていなかった。
彼の鼓膜を支配しているのは、己自身の荒々しく醜い呼吸音と、ドクン、ドクンと早鐘のように打ち鳴らされる心臓の音だけである。
「ひぃッ……はぁッ、がはッ……!」
矢の雨が届かない、馬陵の渓谷の奥深く。古木の根が複雑に絡み合う獣道へと逃げ込んだ龐涓は、泥と血にまみれた手で木の根を掴み、斜面を這い上がろうとしては無様に滑り落ちる、という動作を何度も繰り返していた。
すでに彼の肉体は限界を超えていた。連日の不眠不休の強行軍による極度の疲労。それに加え、逃走の最中に何本もの流れ矢が彼の四肢を掠め、深く肉を抉っていたのだ。特に右脇腹には、いつ受けたのかすら記憶にない一本の黒い矢が深々と突き刺さっており、動くたびにそこから生温かい鮮血がドクドクと溢れ出し、彼の生命力を大地へと垂れ流させていた。
「俺は、逃げる……。こんな所で、終わってたまるか……。俺は天下の、大将軍、龐涓だぞ……!」
剥がれた爪先から血を流し、泥水を啜りながら、彼は呪文のように己の栄光を呟き続けた。
大梁の都にある豪奢な屋敷。山のように積まれた金銀財宝。魏王からの絶対的な信任。万の兵士たちが己に平伏する、あの全能感。
それらを失うことの恐怖が、彼を無理やり突き動かしていた。自分が特別な人間であるという証明。貧しい村の泥水の中から這い上がった自分が、再び泥の中へ引きずり込まれることへの、狂気的なまでの拒絶反応。
だが、どれほど執念を燃やそうとも、失血による急激な体温の低下と、肉体の破壊は誤魔化しきれるものではなかった。
視界が白く明滅し、平衡感覚が消失する。
ついに龐涓は、絡み合う古木の根に足を滑らせ、斜面を数メートル転がり落ちて、小さな湧き水のある窪地へと仰向けに倒れ込んだ。
「あ……がッ、あぁ……」
全身の骨が軋み、凄絶な痛みが脳髄を焼く。
起き上がろうと泥だらけの手に力を込めたが、もはや指一本すら動かすことはできなかった。
彼の肉体を支えていた魔術回路――大地の気(龍脈)を読み取り、自らの力に変換するための霊的基盤が、物理的な限界と共についに完全にショートし、焼き切れたのである。
魔術師としての力の喪失。
それは、彼がもはや戦場を支配する超人ではなく、ただの致命傷を負った哀れな一人の人間に戻ったことを意味していた。
仰向けに倒れた龐涓の視界に、馬陵の渓谷の頂を覆い隠す、巨大な黒い樹冠が広がっていた。
月光の届かない漆黒の空。
その静寂の中で、龐涓の精神に、奇妙な変化が訪れ始めた。
(……俺は、ここで死ぬのか?)
その問いが脳裏に浮かんだ瞬間。
これまで十数年もの間、彼の脳髄にへばりつき、心臓を黒く締め付けていた『絶対的な執着』――孫臏(そんぴん)への嫉妬、己の無能さへの劣等感、そして栄光を失うことへの狂気的な恐怖が。
まるで、張り詰めていた太い琴の糸がプツリと切れたかのように、唐突に、彼の中からフッと抜け落ちていったのである。
「…………あれ?」
龐涓は、己の口から漏れた、あまりにも気の抜けた、空虚な声に驚いた。
憑き物が、落ちた。
まさにその表現が相応しかった。彼の精神を覆っていた真っ黒なヘドロのような靄(もや)が、死という絶対的な終焉を前にして、嘘のように霧散してしまったのだ。
思考が、恐ろしいまでに澄み渡っていく。
痛覚すらも遠ざかり、代わりに訪れたのは、極限の静寂と、客観的すぎるほどの己の人生の回顧であった。
(……なぜ、俺はあいつを、孫臏を、あんなにも憎んでいたのだ?)
龐涓は、泥だらけの虚空を見つめながら、自問自答した。
あいつは、俺の陣形を馬鹿にしたか? ――否。彼女はただ、純粋に無邪気に、より良い答えを口にしただけだ。
あいつは、俺の地位を奪おうとしたか? ――否。彼女には権力への執着など微塵もなく、ただ兵法というパズルを楽しんでいただけだ。
あいつは、俺を見下していたか? ――否。彼女は、貧しい出の俺を、心から「天下無敵の相棒」として信頼してくれていた。
「……そうか。俺は、あいつを憎んでいたわけじゃ、なかったんだ」
龐涓の口から、乾いた、しかしひどく澄んだ声が漏れた。
今なら、分かる。憑き物が落ちた今なら、自分の弱さと直視することができる。
俺が本当に憎み、恐れていたのは、孫臏という天才ではない。
『努力しなければ何者にもなれない、凡庸でちっぽけな自分自身』だったのだ。
泥臭く、血反吐を吐いて、何千時間もかけてようやく辿り着いた答えを、息をするように一瞬で導き出してしまう圧倒的な光。
その光の隣にいると、自分の築き上げてきたものが、すべて無価値なガラクタのように思えてしまった。彼女のその無垢な翼が、俺の泥にまみれた足を、ひどく惨めなものに感じさせた。
だから、俺はあいつの翼を折った。
俺と同じ、泥を這いずる惨めな虫けらに引きずり下ろさなければ、俺の自我が崩壊してしまうから。
「……なんて、愚かで、ちっぽけな男なんだ、俺は……」
龐涓の目から、一筋の涙がツーッと流れ落ち、泥にまみれた頬を伝った。
それは、死の恐怖による涙ではない。敗北の悔し涙でもない。
己が犯した罪の重さと、己という人間の器のあまりの小ささに対する、深くて重い、後悔の涙であった。
視界が霞む中、彼の脳裏に、一つの鮮明な情景が浮かび上がった。
血生臭い戦場でも、大梁の豪奢な王宮でもない。
外界から隔絶された深い霧の底。清浄な空気に満ち、巨大な白蛇がまどろむ、あの『鬼谷』の庭の風景だ。
『――シィッ! ハァッ……!!』
夜明け前、上半身裸で必死に木戟を振るう自分。
そこに、庵の縁側から、亜麻色の髪を寝癖で跳ねさせた少女が、大きな欠伸をしながら現れる。
『ん〜……ふぁぁぁあ……。おはよー、龐涓。今日も朝から元気ねえ』
『遅いぞ、孫臏。兵を率いる将たる者、兵よりも先に起きて陣を見回るのが鉄則だろうが』
『えー、だってここは戦場じゃないもん』
あはは、と笑いながら、彼女は縁側から軽やかに飛び降りる。
あの、すらりと伸びた、健康で、どこまでも自由に跳ね回る美しい両脚。
彼女は俺の怒声など気にも留めず、朝露に濡れた草地を駆けて、霊獣の背中にダイブして無邪気に笑っていた。
『龐涓が泥だらけになって敵の壁を壊して、私がその後ろからすーっと綺麗な道を作ってあげる。私たちが二人で組めば、きっと天下無敵の大将軍と大軍師になれるわよ! ね?』
夕暮れの森。桃の甘い香り。
純粋な信頼の眼差しで、俺の背中をバンッと叩いて笑ってくれた、あの眩しい太陽のような笑顔。
「あぁ……ああぁぁ……っ……!!」
龐涓は、喉の奥から、言葉にならない慟哭を漏らした。
胸が、物理的な傷よりも深く、激しく痛み、引き裂かれそうだった。
俺は、何というものを壊してしまったのだろう。
俺を心から信じてくれた、たった一人の友を。
世界中を歩き回りたいという彼女のささやかな夢を。
あの美しく健やかな脚を、俺はこの手で、鋭い鑿と重い木槌で、粉々に叩き割ってしまったのだ。
「すまない……。すまない、臏(ひん)……。俺が、俺が弱かったばかりに……お前の翼を、奪ってしまった……っ」
懺悔の言葉は、暗い谷底の虚空に吸い込まれて消えていく。
もはや取り返しはつかない。時計の針は戻らない。
もし、あの時、俺が己の凡庸さを受け入れ、彼女の才能を素直に認める勇気を持てていたなら。
嫉妬という毒に屈することなく、彼女の言葉を信じて、共に魏の軍勢を率いていたのなら。
俺たちは本当に、歴史に並び立つことのない、天下無敵の双璧になれていたのかもしれないのに。
「……戻りたい。あの鬼谷の、平和な日々に……。ただお前と一緒に、兵法の本を囲んで、笑い合っていた、あの頃に……」
ぽろぽろと、止めどなく涙が溢れ続ける。
冷酷な大将軍としての仮面は完全に砕け散り、そこにはただ、己の過ちを悔いる一人の不器用な青年だけがいた。
彼は泥にまみれた右手を必死に動かし、虚空に向かって何かを掴もうと指を伸ばした。あの日の、彼女が差し出してくれた桃を、今度こそ素直に受け取るために。
だが、彼の手が掴むのは、冷たく湿った馬陵の虚無の空気だけだった。
ふと、彼の意識が、現在へと引き戻される。
遠くから、松明の明かりと、軍犬の吠える声、そして甲冑が触れ合う音が近づいてきているのが分かった。
斉の捜索隊だ。彼らは、敵の総大将である龐涓の首を確実に取るため、血痕を辿ってこの谷の奥へと迫ってきているのだ。
(……捕まるわけには、いかないな)
龐涓の瞳に、武人としての最後の静かな決意が宿った。
これほどの罪を犯した自分が、生き延びようなどと図々しいことはもう思わない。かといって、斉の兵士たちに捕まり、鎖に繋がれて晒し者になるのは、かつての親友の『復讐の結末』を汚すことになる。
俺の命は、俺の意思で終わらせる。
それが、彼女の完璧な盤面に対する、俺の唯一の贖罪であり、同時に将軍としての最後の矜持だ。
龐涓は、泥水に浸かっていた左手を動かし、腰の帯に差していた短い護身用の短剣(匕首)をゆっくりと引き抜いた。
冷たい鋼の刃が、微かな光を反射する。
彼はその刃を、自らの首筋へと静かに押し当てた。
死の直前、彼の脳裏をよぎったのは、やはり彼女のことであった。
(……臏。俺は今から死ぬ。お前の完璧な復讐は、これで達成される)
龐涓は、遠く離れた丘の上にいるであろう彼女の姿を想像した。
車椅子に座り、冷徹な目で盤面を見下ろす、あの『怪物』の姿を。
(俺が、お前を怪物にしてしまった。純粋だったお前の魂を殺し、復讐のためだけに因果を操る、氷のように冷たい悪魔に変えてしまった。……俺には、お前に許しを乞う資格などない)
刃が皮膚を切り裂き、血がツーッと首筋を伝う。
恐怖はなかった。ただ、無限の寂寥感だけがあった。
(だが、それでも……。俺が消え去った後、どうかお前のその胸から、憎しみの炎が消えてくれることを願う。復讐の鎖から解き放たれ、もう一度、お前が心の底から笑える日が来ることを……)
車椅子の上の天才は、これから先、どれほどの孤独を抱えて生きていくのだろうか。
並び立つ者のいない極限の知性は、必ず彼女を世界から孤立させる。その上、彼女にはもう、自分の足で外の世界へ出掛ける自由すらないのだ。
俺の歪んだ嫉妬が、彼女の未来からすべての光を奪ってしまった。
その罪の重さを、龐涓は死の淵でようやく完全に理解したのである。
(俺の兵法は、間違っていた。力で大地の理をねじ伏せ、他者を蹴落として得る栄光など、結局は泥の城に過ぎなかったのだ。……お前の言う通りだったよ、臏)
近づいてくる斉軍の足音が、もう数十歩の距離にまで迫っていた。
「血痕はここへ続いているぞ!」「総大将を逃すな!」という怒声が聞こえる。
「……さらばだ、我が友よ」
龐涓は、目を閉じた。
そして、己の首筋に当てた短剣を、躊躇うことなく、一息に横へと引き裂いた。
ブシュゥッ!!
頸動脈が切断され、大量の鮮血が噴水のように空高く舞い上がり、馬陵の黒い土を赤く染め上げた。
凄絶な痛みが一瞬だけ走り、すぐに意識が遠のいていく。
短剣が手から滑り落ち、チャリン、と冷たい音を立てて泥の上に転がった。
龐涓の身体が、ゆっくりと斜面に崩れ落ちる。
彼の瞳は、暗い夜空を見上げたまま、静かにその光を失っていった。
その顔には、死の恐怖も、嫉妬の苦悶も刻まれていない。ただ、すべての重荷から解放され、どこか安堵したような、ひどく穏やかな表情だけが残されていた。
「――いたぞ!! あそこだ!!」
松明の明かりを持った斉の兵士たちが、ついにその窪地へと辿り着いた。
彼らが見たものは、泥と血に塗れ、自らの首を掻き切って絶命している、魏の大将軍の無惨な姿であった。
「……死んでいる。自刃したようだ」
兵士の一人が恐る恐る近づき、脈を確認して首を横に振った。
天下にその名を轟かせ、中原を恐怖のどん底に陥れた無敗の将軍・龐涓。
彼の泥臭く、しかし誰よりも激しく燃え上がった野心の炎は、冷たい馬陵の谷底で、誰にも看取られることなく、ただ一人で静かに消え去ったのである。
周囲の森は、彼の死を嘲笑うことも、悼むこともなく、ただ永遠の静寂を保っていた。
それは、神代から人理へと時代が移り変わる中、自らの業に食い破られた一個の人間が辿った、あまりにも小さく、儚い結末であった。
そして、この悲劇的な最期を、概念の糸を通じて『観測』していた車椅子の怪物が、これからどのような絶望の淵に立たされることになるのか。
それを知る者は、歴史の裏側に座するあの冷徹なる調律者(鬼谷子)を除いて、誰もいなかった。