縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

15 / 24
第六節:馬陵に響く琴の音(6/6)――喪失の盤面、そして終幕(エピローグ)

 

 夜が明け、馬陵(ばりょう)の渓谷に白々とした朝の光が差し込み始めていた。

 

 かつて大地の気が淀み、光を拒絶していたこの死の谷は、十万の命がぶつかり合い、そして散っていった凄まじい熱量(魔力)の放出によって、皮肉にもその澱みが完全に吹き飛ばされていた。

 木々の隙間から差し込む朝日が照らし出すのは、文字通りの『地獄』である。

 見渡す限りの屍の山。無数に突き刺さった黒い矢。血と泥が混ざり合い、鉄の錆びたような強烈な死臭が、冷たい朝靄(あさもや)と共に谷底に立ち込めている。

 魏の精鋭二万は、この地で完全に消滅した。歴史に名を刻む無敵の軍勢は、斉の軍師が張り巡らせた概念の罠によって、一夜にして単なる肉の塊へと還元されたのである。

 

「……先生。こちらです」

 

 斉の大将軍・田忌(でんき)に案内され、兵士たちが慎重に、一台の車椅子を谷底の奥深くへと運んできた。

 車椅子に座る孫臏(そんぴん)の顔には、一切の表情が浮かんでいない。

 彼女は、自らの手で殺戮を命じた万の死体の山を見ても、眉一つ動かさなかった。極限まで研ぎ澄まされた彼女の『神の目』から見れば、これらの死体はすべて、数日前に脳内で演算し尽くした数式の答えが物理的に出力されただけのものに過ぎないからだ。

 

 兵士たちが道をあけ、車椅子がとある窪地の前で止まった。

 

「……龐涓(ほうけん)の、遺体です。自らの首を短剣で掻き切り、自刃しておりました」

 

 田忌が静かに告げ、一歩後ろへと下がった。

 孫臏は、車椅子の上から、泥だらけになって横たわるかつての親友の亡骸を見下ろした。

 

 黄金の鎧は脱ぎ捨てられ、高価な衣は見る影もなく引き裂かれている。全身に無数の擦り傷と矢傷を負い、泥と血に塗れたその姿は、天下の大将軍というよりは、路地裏で死んだ名もなき浮浪者のように惨めだった。

 だが。

 その顔を見た瞬間、孫臏の心臓が、ドクン、と不自然な音を立てて跳ねた。

 

(……なぜ)

 

 孫臏の漆黒の双眸が、微かに揺れる。

 龐涓の顔には、死の恐怖も、自分に対する怨嗟(えんさ)も、十数年間彼を苛み続けていたあの醜悪な嫉妬の苦悶も、何一つ残されていなかったのだ。

 すべての重荷を下ろし、長い悪夢からようやく解放されたような、ひどく穏やかで、安らかな死に顔。

 

「……どうして、そんな顔をして死んでいるの……?」

 

 ポツリと、孫臏の口から乾いた声が漏れた。

 彼女は、この復讐の盤面を構築するにあたり、龐涓がどのような最期を迎えるかを何万回もシミュレーションしてきた。

 矢の雨の中で恐怖に泣き叫びながら死ぬか。あるいは、捕らえられて自分の前に引き出され、命乞いをして泥に頭を擦り付けるか。最後まで自分を呪い、憎悪の炎に焼かれながら狂死するか。

 どの結末であっても、彼女はそれを『冷酷な観測者』として受け入れ、復讐の完了を己の魂に刻み込むつもりだった。彼を絶望のどん底に叩き落とすことこそが、砕かれた両脚への唯一の代償だったのだから。

 

 しかし、目の前にある現実は違った。

 龐涓は、最後の最後、死の淵において自らの『嫉妬』という憑き物を落とし、一人の不器用な青年に戻って死んでいったのだ。

 孫臏の異常なまでの直感力が、龐涓の遺体から微かに漂う気の残滓を読み取ってしまう。彼が自刃する直前、自分に許しを乞うこともなく、ただ純粋な『後悔』と、自分への『謝罪』だけを胸に抱いて刃を引いたという残酷な事実を。

 

「……ずるい。そんなの、ずるいじゃない……ッ」

 

 孫臏の震える両手が、車椅子の肘掛けを強く握りしめた。

 彼女の内側に構築されていた『氷のように冷酷な怪物』という殻が、音を立ててヒビ割れていく。

 完璧だったはずの盤面。完全な勝利。

 だが、盤上の敵の王は、最後にその呪われた王冠を自ら捨て去り、ただの盤外の人間として死んでしまった。これでは、彼女の憎しみは、振り下ろす先を永遠に失ってしまったではないか。

 

「起きて……起きなさいよ、龐涓ッ! あなたが私からすべてを奪ったんでしょう!? 私の夢を、私の脚を砕いて、泥の中に沈めたんでしょう!?」

 

 孫臏は、動かない両脚を引きずるようにして車椅子から身を乗り出し、泥の地面へと無様に崩れ落ちた。

 周囲の兵士たちが慌てて駆け寄ろうとするが、田忌がそれを無言の手で制止する。

 

「私に謝りなさいよ……。私を恐れて、見下して、嫉妬に狂った醜い顔で、私を呪いなさいよ……! そうじゃなきゃ……そうじゃなきゃ、私は、これからどうやって生きていけばいいの……ッ!!」

 

 彼女は這いつくばって龐涓の遺体にすがりつき、その冷たくなった胸を小さな両の拳で何度も、何度も叩いた。

 どんなに叩いても、彼が目を覚ますことはない。

 あの日のように、「痛ッ、何をする!」と憎まれ口を叩きながら笑ってくれることは、二度とないのだ。

 

 その絶対的な事実が、孫臏の精神を根底から打ち砕いた。

 彼女が生き延びるために自らを最適化させた『怪物としての知性』は、すべて龐涓への復讐というたった一つの目的を動力源としていた。

 その目的が達成され、対象が消滅した今。

 彼女の心の中には、宇宙空間のような、暗く、冷たく、無限の『虚無』だけがぽっかりと口を開けていた。

 

(……あぁ。私は、この男を殺したかったわけじゃない)

 

 冷たい龐涓の頬に触れた瞬間、孫臏の瞳から、十数年間決して流すことのなかった大粒の涙が溢れ出した。

 

 彼女の本当に欲しかったもの。

 それは、天下の覇権でも、自分を陥れた男への復讐でも、血塗られた軍師としての名声でもなかった。

 ただ、あの深い霧に包まれた鬼谷の森で。

 一緒に桃をかじりながら、兵法の竹簡を広げ、「お前のお気楽な陣形はすぐ崩れる」「龐涓の陣形は固すぎるんだよ」と、他愛のない文句を言い合いながら笑っていたかっただけなのだ。

 泥臭くても真っ直ぐだった彼と、どこまでも広がる世界を、ただ並んで歩いてみたかっただけなのだ。

 

「うぅ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!」

 

 馬陵の谷底に、車椅子の天才の、血を吐くような慟哭が響き渡った。

 

 それは、勝利者の雄叫びではない。

 自らの半身をもぎ取られ、存在意義を完全に失った迷子の少女の、哀絶な泣き声であった。

 泥に顔を擦り付け、親友の死骸にすがりついて泣きじゃくる孫臏の姿を前に、田忌も、周囲の歴戦の兵士たちも、ただ黙って頭を垂れ、その凄惨な因縁の結末に涙を流すことしかできなかった。

 

 勝者は、どこにもいなかった。

 神代から人理へと時代を移行させるために出力された『第一世代』の二つの才能は、互いの魂を極限まで削り合い、すべてを燃やし尽くして、ただ泥まみれの虚無だけをその戦場に残したのである。

 

 ――そして、時は流れ。

 

 馬陵の戦いから数年後。

 中華の歴史における最大の脅威であった魏の覇権は完全に失墜し、斉は東の最強国としての地位を不動のものとした。

 だが、その最大の功労者である最高軍師・孫臏が、その後歴史の表舞台に姿を現すことは、二度となかった。

 彼女はすべての役職を辞し、王宮の奥深く、深い森に囲まれた庵に引き篭もったと言われている。

 

 表向きの歴史書には、彼女はそこで己の兵法のすべてを記した『孫臏兵法』を執筆し、天寿を全うしたと記されている。

 しかし、その最後の日々を知る者は誰もいない。彼女が何を思い、どのような最期を迎えたのかは、歴史の深い闇の中へと永遠に葬り去られた。

 

 ただ一つ、その真実を観測していた存在を除いては。

 

     * * *

 

「……人間とは、実に非効率で、美しく、そして残酷な生き物だ」

 

 深い霧に閉ざされた魔境、鬼谷(きこく)。

 その庵の縁側で、時の流れから完全に切り離された青年――『鬼谷子』は、宙に浮かぶ巨大な思想盤を見上げながら、静かに茶をすすっていた。

 

 盤面上では、すでに次の世代の駒たちが動き始めている。

 だが、彼の視線は、盤面の片隅に残された『二つの光の残滓』へと向けられていた。

 

『……シャァ……(主よ、第一世代の観測は終了したのですか)』

 

 足元でまどろむ巨大な白蛇が、鎌首をもたげて問いかける。

 鬼谷子は、静かに頷き、空になった湯呑みを縁側に置いた。

 

「ああ。僕が最初に放った二つの星は、期待以上の熱量(魔力)を発し、完全に燃え尽きた。龐涓の泥臭い執念と、孫臏の純粋な天才性。彼らが互いを喰らい合い、憎み合い、そして最後に到達した『極限の喪失感』は、この中華の大地に人間同士の業――『人理の楔(くさび)』を打ち込むための、完璧な礎となった」

 

 鬼谷子の背で、思想鍵紋が青白く、静かな鼓動を打っている。

 彼の眼差しには、哀しみもない。喜びもない。ただ、システム管理者としての冷徹な満足感だけがあった。

 

「孫臏。天賦の才を持ちながら、己のすべてであった『歩く自由』を奪われ、そして唯一の友であった男を自らの手で死に追いやった少女」

 

 鬼谷子は、目を細め、遥か東の空――斉の国がある方向を見つめた。

 

「後世の人間たちは、彼女が兵法書を書き上げ、静かに隠居して生涯を終えたと信じるだろう。だが、あの馬陵の戦いの後、彼女の『魂』はすでにこの世のどこにも存在していなかった。あれほどの極限の演算能力を持つ天才が、己の存在意義を失ったまま、この退屈な俗世で息をし続けられるはずがないのだから」

 

『……では、あの娘は』

 

「さあな。公式な記録は、僕の権限で曖昧にぼかしておいた。だが……」

 

 鬼谷子は、ふっと口元に微かな弧を描いた。

 それは、人間という不可解な生き物に対する、彼なりの最大の敬意であったのかもしれない。

 

「彼女の遺した兵法書の最後の竹簡には、陣形でも、気脈の操作でもなく、ただ一言、宛名の無い言葉だけが記されていたという。……『あの日の桃は、甘かったか』と」

 

 鬼谷子は立ち上がり、背を向けて庵の中へと歩き出した。

 

「肉体の檻を捨て、概念となった彼女の魂がどこへ向かったのか。それは僕にも分からない。ただ、真っ暗な黄泉の道をたった一人で歩く不器用な友の背中を追って、今度こそ、彼女自身の脚で駆け出していったのだと思えば……この冷酷な盤面にも、少しは詩的な余韻が残るというものだ」

 

 深い霧が、鬼谷の谷底をさらに濃く包み込んでいく。

 第一世代の二人の天才が織り成した、血と泥に塗れた凄惨なる因縁の物語は、ここに完全に幕を下ろした。

 だが、神代を終わらせるための歴史の調律は、まだ始まったばかりである。

 鬼谷子の紡ぐ次なる盤面は、さらなる怪物たちをこの中華の大地へと解き放とうとしていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。