縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

2 / 24
第二節:因果の受容と魔境の主(前編)

鬼谷の奥深くにその赤子が産み落とされてから、六度目の厳しい冬が過ぎようとしていた。

 

 五色の龍の落とし子と名高いその少年――王禅(おうぜん)は、およそ「子供」という枠組みからかけ離れた成長を見せていた。

 赤子の頃から夜泣きというものを一切せず、言葉を覚えるよりも先に、大気に満ちる「気」の流れを指先でなぞるような手遊びばかりをしていた。彼にとって、世界とは光と色彩を伴った「情報」の奔流であり、鳥の囀りも、風が木々を揺らす音も、すべては中華の大地を覆う魔術基盤――『思想盤』が弾き出す数理の律動として知覚されていたのだ。

 

 六歳になった王禅は、すでに大人のような静謐な顔立ちをしていた。

 彼が庵の縁側に座り、漆黒の双眸でじっと虚空を見つめている時、その背中には衣服越しに仄青い光が脈打つことがあった。生まれながらにして彼自身の肉体に刻み込まれた究極の魔術回路であり、思想盤への絶対的なアクセス権を示す『思想鍵紋(しそうけんもん)』である。

 

 彼はその鍵紋を通じ、無意識のうちに周囲の環境へ干渉していた。

 冬の身を切るような寒風が吹けば、彼から半径数メートルの空間だけが、まるで春の陽だまりのように暖かくなる。空を舞う落ち葉が地に落ちる前に、彼の瞳がその軌跡の数式を読み解き、微弱な気の操作によって落ち葉を空中で静止させることすらあった。

 一切の詠唱も、複雑な手順も必要としない。ただ「世界をそう再定義する」だけで、物理法則を容易く書き換えてしまう。それは、人間が長い年月をかけて至る魔術の極致を、生まれながらにして息を吐くように行えるということであり、端的に言ってしまえば『人型の特異点』とでも呼ぶべき異常性であった。

 

 だが、そんな規格外の怪異を我が子として育ててきた女――王禅の母の身体は、すでに限界を迎えつつあった。

 

「……ごほッ、がはッ……!」

 

 庵の奥から、乾いた、ひび割れるような咳き込みが響いた。

 王禅が静かに立ち上がり、薄暗い部屋の奥へと歩み寄ると、獣の毛皮で作られた寝台の上で、母が苦しげに身をよじっていた。彼女の手を覆う粗末な布には、どす黒い血がべったりと付着している。

 

「母上。また、気の流れが乱れています」

 

 王禅の鈴を転がすような、しかし感情の起伏に乏しい平坦な声が落ちる。

 彼は母の傍らに跪き、その細く痩せこけた手首に、小さく白い指を当てた。脈を測っているのではない。彼が見ているのは、母の肉体を構成する生命力――オド(小源)の残量と、その器に生じた決定的な「ひび割れ」であった。

 

 母の病は、外から入り込んだ流行り病でも、臓器の単純な不調でもなかった。

 そもそもの原因は、六年前に王禅という『神代の神秘の結晶』を、ただの人間である彼女が胎内に宿し、生み落としたことそのものにある。大地の龍脈の極大の出力に長期間晒されたことで、彼女の生命の器(テクスチャ)は概念的なレベルで焼き切れてしまっていたのだ。

 六年間、彼女が生き長らえてきたこと自体が奇跡であった。だがそれも、もはや尽きようとしている。命の灯火が、文字通り最後の明滅を繰り返していた。

 

「……王禅、や……。私のことは、もう、いいのです……」

 

 母は焦点の定まらない目で我が子を見つめ、ひび割れた唇に微かな笑みを浮かべた。

 死の淵にありながら、その眼差しには恐怖よりも、我が子への深い慈愛が満ちている。王禅には、それが理解できなかった。なぜ、自らの消滅が迫っているというのに、この個体はこれほどまでに穏やかな波長を保っていられるのか。

 

「いいえ。生命活動の停止は、不条理です。母上の霊的基盤の崩壊は、僕の出力で補填できます。いえ、補填しなければなりません」

 

 王禅は首を横に振り、漆黒の瞳に微かな熱を宿した。

 彼はまだ六歳の子供でありながら、世界のバグを修正するシステムとしての自我が強く前面に出ている。彼にとって、目の前の母が失われるという事象は、己の存在意義に対する重大なエラーのように感じられていた。

 

 王禅は立ち上がり、両手をゆっくりと胸の前で広げた。

 瞬間、庵の中の空気が凍りついたように重くなる。鬼谷の底に溜まっていた濃密な霊気が、渦を巻いて少年の小さな身体へと吸い込まれていく。

 彼の背中にある『思想鍵紋』が、衣服を透かして青白い業火のように激しく燃え上がり始めた。それは、一個人の生命を強引に引き延ばすという、世界の因果に対する明確な「反逆」の始まりであった。

 

「――思想盤、第四層へ接続。領域指定、鬼谷。対象の生命概念を『減衰』から『停滞』へ上書き。欠損した生命力は、地脈からの直接変換により強制充填する」

 

 王禅の口から紡がれるのは、呪文というよりは世界システムへのコマンド入力であった。

 大気を震わせる硬質な音が響く。空間そのものがギシギシと悲鳴を上げ、彼の足元から翡翠色の術式が幾何学模様となって広がり、寝台の母を包み込もうとしていた。

 

 このまま実行すれば、母は助かる。

 欠損した臓器も、焼き切れた生命の器も、思想盤から引き出された無尽蔵の龍脈エネルギーによって強引に接着され、彼女は不老に近い存在として蘇るだろう。彼には、それが可能だった。それほどの全能が、その小さな掌には握られていた。

 

 だが。

 因果を視通す王禅の漆黒の瞳は、術式が発動するコンマ一秒の隙間に、その「代償」のビジュアルを克明に幻視してしまった。

 

『――――ッ』

 

 世界は、等価交換の法則によって成り立っている。

 特に、神代から人理へと移行しつつあるこの時代において、個人の運命を強引に捻じ曲げるような大規模な神秘の行使は、世界からの強烈な反発を招く。

 王禅の脳裏に、凄まじい情報量が雪崩れ込んできた。

 

 もし今、母一人を救うためにこの鬼谷の龍脈を極大に吸い上げた場合。

 その皺寄せは、数百里離れた中原の平野部へと直撃する。龍脈の枯渇は大地を死に絶えさせ、翌年の春には未曾有の大旱魃が中華を襲うだろう。雨は降らず、作物は枯れ、ひび割れた大地の上で、何万、何十万という何の罪もない民草が餓死していく光景。

 それだけではない。飢えは戦乱を激化させ、歴史のターニングポイントとなるはずだった国々の興亡の形すらも歪めてしまう。本来ならば生き残るべき才ある者が死に、紡がれるべき「人理」の基礎が、母ひとりの命の代償として完全に崩壊してしまうのだ。

 

「……あ……」

 

 王禅の指先が、微かに震えた。

 彼には、人を憐れむという感情はまだ乏しい。だが、彼がこの世に生み落とされた最大の理由は「神代を終わらせ、正しい人理の定着を見届けること」にある。彼の存在意義そのものが、眼前に突きつけられた『因果の崩壊』を強烈に拒絶していた。

 

 母を救えば、数万の命が消え、人類の歴史が歪む。

 術式を停止すれば、世界は正常に保たれるが、母はここで死ぬ。

 

 初めて直面する、演算不可能な矛盾。絶対の正解がない究極の二択。

 全知全能に等しい力を持っていながら、世界という巨大な織物の前では、一つの命を救うことすら許されないという絶望的な無力感。王禅の背の鍵紋が、迷いを示すように明滅を繰り返した。

 

「……王、禅……」

 

 その時、温かな手が、王禅の小さな両手を包み込んだ。

 死の淵にいるはずの母が、最後の力を振り絞って身を起こし、輝く術式の中心にいる我が子を止めようとしていたのだ。

 

「術を……解きなさい……。世界を、私のために、歪めては、いけません……」

 

「しかし、それでは、母上の存在が消滅してしまいます。僕は、それが……」

 

「消滅では、ありません……。死は、人が人として生きるための、大切な、終わりの形なのです……」

 

 母の瞳からは、涙が零れ落ちていた。

 それは死への恐怖からではない。巨大すぎる力と宿命を背負わされてしまった我が子が、今まさに「人を救うために罪を犯そうとしている」ことへの、身を切るような悲しみであった。

 

「あなたは、五色の龍の落とし子。神の如き知恵を持って、生まれてきた。……けれど、あなたは怪物ではありません。私の、愛しい子です」

 

 母の血に塗れた手が、王禅の白い頬をそっと撫でた。

 その手は酷く冷たかったが、王禅の心臓の奥底にある、彼自身も気づいていなかった『人間の部分』を強く揺さぶった。

 

「痛みを知りなさい。悲しみを知りなさい。……そして、その途方もない力と知恵を、私のような一個人のためではなく……いつか来る、この世を正しく導く者たちのために、使いなさい……」

 

「母上……」

 

「愛して、いますよ……。どうか、立派に……」

 

 それが、最期の言葉だった。

 頬に添えられていた手が、力なく滑り落ちる。母の目から光が失われ、彼女の肉体を構成していた最後の生命力が、大気の中へと溶けていくのを、王禅の瞳ははっきりと捉えていた。

 

 静寂が、庵を包み込んだ。

 外の嵐は嘘のように静まり返り、冷たい冬の月明かりが、息を引き取った母の顔を優しく照らしている。

 

 王禅は、動かなかった。

 彼の背中で暴走しかけていた思想鍵紋の光は、すでに完全に沈静化している。展開しかけていた術式を、彼自身の意志で破棄したのだ。

 数万の命と歴史を守るために、母の死という『因果』を、彼は明確に受容したのである。

 

「……死は、エラーではない。人間が人間として機能するための、正常なサイクル」

 

 ぽつりと、王禅は呟いた。

 その言葉は、あくまでシステムとしての冷徹な分析のように聞こえた。しかし、彼の漆黒の瞳からは、無意識のうちに一筋の雫が零れ落ちていた。

 

 ぽたり、と。

 頬を伝い、床に落ちたその温かな雫の正体が何であるかを、六歳の王禅はまだ正確には言語化できなかった。だが、胸の奥が物理的に引き裂かれたかのように痛むこの感覚こそが、母が最期に教えようとした「人間の心」なのだと、彼は理解していた。

 

 彼は、神の視座を持つ怪物として生まれた。

 しかしこの夜、母の死という抗えない因果を受け入れたことで、彼は初めて人間としての「悲哀」を獲得したのだ。

 冷徹な世界の観測者に、一つの「情」という名の楔が打ち込まれた瞬間であった。

 

 王禅は、冷たくなった母の体を小さな腕でしっかりと抱きしめ、声を殺して泣き続けた。

 鬼谷の夜闇の中で、人間の感情を学んだ怪人の幼い慟哭だけが、いつまでも静かに響いていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。