縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第七節:盤上を這う舌禍の双竜(4/5)――獣性魔術の深淵、本経陰符七術(後編)

 

 深い霧に沈む鬼谷の庭は、死のような静寂に包まれていた。

 三日三晩、一睡もせずに縁側に正座を続ける蘇秦と張儀の肉体は、すでに限界をとうに超えていた。唇はひび割れ、目尻からは乾いた血の跡が黒くこびりつき、呼吸は微弱な糸のようになっている。

 しかし、彼らの肉体が死の淵を彷徨えば彷徨うほど、肉体という檻から解き放たれた彼らの「精神」は、かつてないほどの異常な活性化を見せていた。

 魂の形を特定の獣の概念へと強制的に歪め、言葉に絶対的な魔術的効力を付与する、精神領域にのみ作用する獣性魔術。

 五龍の力で精神の質量を極限まで膨張させ、霊亀の力でそれを絶対の防御結界として圧縮し、螣蛇の力で状況に応じて変幻自在に思考を滑らせる。この三つの術を魂に刻み込んだ時点で、彼らの自我はすでに常人のそれとは完全に異なる、異形の怪物へと変態しつつあった。

 だが、歴史の調律者たる鬼谷子の教えは、ここで終わるものではない。

 

「基礎となる精神の器は完成した。次は、その器に隠された『殺意』を制御する術だ」

 

 鬼谷子の冷徹な声が、二人の青年の脳髄に直接響き渡る。

 

「第四の術。分威法伏熊。獲物を狙って身を伏せる巨大な熊のように、己の威圧感と実力を極限まで隠匿し、内側に力を蓄え続ける術だ」

 

 鬼谷子の言葉と共に、空間の温度が急激に低下したかのような錯覚が二人を襲った。

 いかに強力な弁舌を持っていようとも、それを常にひけらかす者は三流の愚か者に過ぎない。王宮という名の伏魔殿において、己の牙を最初から見せている者は、真っ先に警戒され、排除される。真の縦横家とは、相手の懐に最も深く潜り込むその瞬間まで、己を完全に無害な存在であると偽装できなければならない。

 

「ただ沈黙するだけではない。己の内に燃え盛る五龍の力と、相手を殺そうとする極大の悪意を、一切の気配も漏らさずに魂の奥底へと封じ込めろ。冬眠する熊のごとく、己の存在感を大地の泥と同化させるのだ」

 

 蘇秦は、その教えを誰よりも早く、そして深く理解した。

 彼は生まれながらにして、この「伏熊」の術を体現して生きてきたような男だったからだ。貧しい農村で、無能と罵られ、理不尽な暴力を振るわれても、彼は決して反抗しなかった。反抗すれば殺されると分かっていたからだ。彼は泥に顔を擦り付けながら、己の内にどす黒い復讐心と野心を何十年も溜め込み続けてきた。

 蘇秦は目を閉じ、己の魂の形を、暗い洞窟の奥深くでうずくまる巨大な黒熊へと変質させた。

 彼の内側には、国を一つ滅ぼせるほどの強大な論理と魔力が渦巻いている。しかし、外側から見た彼の精神は、ただの冷たい石ころか、あるいは死骸のように完全に気配を絶っていた。

 隣に座る張儀が、探りを入れるように微かな魔力の触手を蘇秦の精神へと伸ばす。しかし、張儀の触手は、蘇秦の精神の表面にある絶対的な「虚無」に触れた瞬間、気配の無さに逆に恐怖を覚え、慌てて後退した。

 

「……気持ち悪いな。隣に巨大な岩山があるのに、目を閉じると何も存在しないみたいだ」

 

 張儀が冷や汗を流しながら呟く。

 蘇秦の伏熊は完璧であった。彼は己の殺意を完全にコントロールし、いついかなる時でも、相手が油断しきった瞬間にのみその巨大な爪を振り下ろせるよう、精神のバネを極限まで圧縮したのだ。

 

「張儀、お前もだ。お前のその軽薄な舌と態度は、己の本心を隠すのには役立つが、魔術的な気配までは隠しきれていない。相手の深層心理に疑念を抱かせないよう、魂の波長そのものを周囲の空気に同化させろ」

 

 鬼谷子の指摘を受け、張儀もまた己の精神を改変する。彼の持つ破壊的な混沌を、道化という仮面の下の、さらにその奥底にある真っ暗な箱の中へと封印する。

 二人の青年が完全に気配を絶った時、鬼谷の庭からは、人間の生気というものが一切感知できなくなった。そこにあるのは、ただの風景の一部と同化した、二つの恐るべき時限爆弾であった。

 

「良かろう。力を完全に隠匿できたのなら、次はそれを解放する術だ」

 

 鬼谷子の声が、一段と鋭さを増す。

「第五の術。散勢法鷙鳥。猛禽が遥か上空から獲物を見定め、急降下してその喉笛を食い破るように、蓄え続けた勢いと力を一瞬にして解き放つ術だ」

 

 隠忍自重は、この一撃のための準備に過ぎない。

 縦横家にとっての戦いとは、何十日も続く泥沼の論戦ではない。相手の油断、論理の破綻、あるいは感情の隙間。それが一瞬でも見えたならば、もはや躊躇うことなく、持てるすべての殺意と論理を一つの言葉に凝縮して叩き込み、相手の精神を即死させなければならない。

 

「伏熊で蓄えた重い力を、空を裂く猛禽の速度へと変換しろ。迷いは死を意味する。相手の急所が露呈した瞬間にのみ、己の魂を巨大な鷲へと変えよ」

 

 これは、張儀の真骨頂であった。

 彼の精神は、伏熊の暗闇の中から、一瞬にして遥か天高くへと飛翔した。彼の魂は鋭い嘴と爪を持つ猛禽へと姿を変え、眼下にある蘇秦の精神の防壁を上空から睥睨する。

 蘇秦は咄嗟に霊亀の甲羅で己の精神を覆い隠したが、張儀の目は、その完璧に見える甲羅のほんのわずかな継ぎ目、論理の極小の矛盾をすでに見抜いていた。

 一切の予備動作なし。

 張儀の魂が、猛禽の急降下のごとき絶速で蘇秦の精神へと襲い掛かる。

「――お前の論理は、結局のところ弱者の恨みに過ぎない」

 張儀の口から放たれたのは、ただの一言。

 しかし、その言葉には鷙鳥の概念が完全に付与されていた。言葉は物理的な斬撃を伴う突風となって、蘇秦の霊亀の甲羅の継ぎ目に正確に突き刺さる。

 蘇秦の精神が激しく軋み、内側に隠していた伏熊の魔力が暴走しかける。張儀の放った一言は、蘇秦のコンプレックスという最も痛い急所を、一片の迷いもなく正確に抉り取ったのだ。

 相手が息を吸い込むその一瞬の隙に、致死の猛毒を流し込む。弁論において、この鷙鳥の急降下を躱せる人間は存在しない。

 蘇秦もまた、その凄絶な攻撃を身をもって味わいながら、己の内に猛禽の殺意を宿す術を血の滲むような努力で模倣し、習得していった。

 

「次へ行くぞ。攻撃が必ずしも致命傷になるとは限らない。相手が予想外の抵抗を見せた時、お前たちはどうする」

 

 鬼谷子の容赦のない教えは続く。

「第六の術。転円法猛獣。猛獣が獲物を狩る際、決して直線的な動きに終始せず、円を描くように自在に動き回るように。己の論理や計略を球体のごとく角のないものとし、相手のいかなる反論や状況の変化にも滞りなく対応する術だ」

 

 言葉の戦いにおいて、論理が直角に曲がるような強引な軌道修正は、相手に隙を与える。

 自分の意見を否定された時、あるいは状況が劇的に変化した時、決して立ち止まってはならない。己の精神を角のない完全な球体へと変え、相手の反発する力を利用してそのまま転がり、別の角度から再び相手の急所へと迫るのだ。

 

「今から、お前たちに三つの架空の国の王を同時に演じさせる。互いに同盟と裏切りを繰り返し、一秒ごとに立場を変えながら、決して己の論理の円を止めるな。少しでも思考が停止し、角ができた者は、その瞬間に猛獣の牙に噛み砕かれると思え」

 

 狂気の多重思考実験が始まった。

 蘇秦と張儀は、極度の疲労状態にありながら、脳内で三つの国の王の思考を同時に展開し、互いに凄まじい速度で弁論を交わし始めた。

 A国としてB国を非難した直後に、C国としてA国を擁護し、さらにB国としてC国を裏切る。言葉の応酬は常人の耳には理解不能な速度に達し、彼らの口からは呪文のような早口の論理が止めどなく溢れ出し続ける。

 彼らの精神は、獰猛な四つ足の獣となり、互いの周囲を円を描くようにグルグルと猛スピードで駆け回っていた。

 相手の鷙鳥の急降下を躱し、そのまま流れるように円を転がり、背後から牙を突き立てる。相手の言葉の力を自分の勢いに変換し、終わりのない回転運動を生み出していく。

 彼らの脳髄は、沸騰するほどの熱を発していた。

 論理の矛盾を絶対に発生させず、あらゆる変化に対して即座に最適解を出し続ける。それは、人間の脳を極限まで酷使する地獄の千本ノックであった。

 少しでも気を抜けば、精神の球体が歪み、猛獣の動きが止まる。止まれば、相手の容赦のない論理の牙が魂を噛み砕く。

 二人の青年の精神は、この終わりのない回転の中で、いかなるイレギュラーにも瞬時に適応できる、悪魔的な柔軟性と耐久力を獲得していったのである。

 

「……最後だ」

 どれほどの時間が経過したのか。

 二人の口から血の泡が吹き出し、いよいよ精神の球体が崩壊しかけたその時、鬼谷子の静かな声が回転を強制的に停止させた。

 蘇秦と張儀は、その場に突っ伏して荒い息を繰り返した。彼らの魂は、すでに人間のそれではなく、六つの獣の神秘を宿した完全なる概念兵器へと仕上がっていた。

 

「これまで学んだ六つの術は、すべて己の精神と力を操作するためのもの。だが、相手を意のままに操るためには、何よりもまず、相手の心を完全に読み解かねばならない。……第七の術。損兌法霊蓍」

 

 鬼谷子の放つ空気が、これまでの荒々しい獣の気配から、極めて静謐で、神聖なものへと変化した。

「霊蓍とは、神の意志を問う占いに用いられる神聖な植物。己の精神を獣の猛りから一転して静かなる植物の根へと変え、大地に張り巡らせよ。物事のわずかな兆し、相手の呼吸の乱れ、視線の動き、筋肉の収縮、そして魂の奥底で微かに揺れる欲望と恐怖。それらすべてを、一つの見落としもなく完全に観測し、分析する究極の洞察術だ」

 獣性魔術の最後に行き着くのが、動かぬ植物の概念であるというのは、極めて東洋魔術的な逆説であった。

 完璧な攻撃も、完璧な防御も、相手の意図を正確に把握していなければ無用の長物となる。

 鬼谷子は、二人に「目を開け」と命じた。

 血に塗れたまぶたを重々しく開けた二人の目に映ったのは、もはやただの風景ではなかった。

 彼らの精神は霊蓍の形をとり、世界に存在するあらゆる微細な情報が、直接脳髄へと流れ込んでくる。

 風の音。霧の粒子の動き。そして何より、目の前にいる相手の肉体から発せられる、膨大な量の生体情報。

 蘇秦の目には、張儀の心臓の鼓動の速さ、血流の音、眼球の微細な震えが、まるで拡大鏡を通したように明確に認識できた。それらの情報を己の脳内で一瞬にして統合し、彼が次に発しようとしている言葉すらも、発音される前に完璧に予測できる。

 張儀もまた、蘇秦の表情筋のわずかなこわばりから、彼の内側に隠された感情の揺れを、手に取るように読み取っていた。

 相手との駆け引きにおいて、損得や利害を見極め、的確な判断を下すための神の如き観察眼。

 何を言えば相手が喜び、何を言えば相手が絶望するのか。相手の精神のどの部分に最も脆い継ぎ目があるのか。

 霊蓍の術を完成させた彼らにとって、他者の心とは、もはや複雑な迷宮ではなく、すべての答えが書き込まれた開かれた書物に等しかった。

 

「……これで、七つの術はすべて伝授した」

 鬼谷子は、ゆっくりと頷き、竹簡の束を閉じた。

 彼の背で明滅していた思想鍵紋の光が、静かに収束していく。

「盛神法五龍。養志法霊亀。実意法螣蛇。分威法伏熊。散勢法鷙鳥。転円法猛獣。損兌法霊蓍。……この本経陰符七術を魂に刻み込んだお前たちは、もはや一個の人間ではない。天下の理を言葉一つで書き換える、人の皮を被った概念の怪物だ」

 三日三晩に及ぶ凄絶な精神の変態儀式を終えた二人の青年は、静かに縁側から立ち上がった。

 彼らの肉体は泥と血にまみれ、今にも倒れそうなほど消耗しきっている。

 しかし、その漆黒の双眸には、いかなる王の威光をも恐れぬ、底知れぬ魔性の光が宿っていた。

 蘇秦の目には、天下のすべての国々を己の論理の鎖で縛り上げ、巨大な一つのシステムを構築するという、重く冷酷な野望が。

 張儀の目には、そのシステムを内側から食い破り、人間の醜い欲望を引きずり出して世界を混沌の渦に叩き落とすという、軽薄にして残忍な破壊衝動が。

 第二世代、すなわち「縦横家」という名の悪魔たちが、ついに鬼谷の底で産声を上げたのである。

 彼らの放つ言葉は、やがて何十万の兵士の命よりも重く、深く歴史に突き刺さることになる。

 来るべき世界大戦の盤面において、彼らがどのような舌禍を巻き起こすのか。その準備は、今ここに完全に整えられたのだった。

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