縦横家の祖 鬼谷子 作:お腹ぽんぽん
本経陰符七術のすべてをその魂に刻み込み、人間を捕食する七つの獣の概念へと完全な変態を遂げた蘇秦(そしん)。
彼が鬼谷子の元での凄絶な修行を終え、その漆黒の霧に閉ざされた庵を去る日が、ついに訪れた。
旅立ちの朝、鬼谷の庭には冷ややかな風が吹き抜けていた。
縁側に座る鬼谷子の傍らには、すでに張儀の姿はなかった。あの捉えどころのない風のような男は、数日前、蘇秦が瞑想に耽っている間に、一言の別れも告げずにふらりとどこかへ去っていったのだ。
最初から相容れない陰と陽の二つの星。だが、蘇秦はそのことに微塵の寂しさも抱いていなかった。彼らの戦場は、この狭い鬼谷の庵ではない。これから彼らが言葉一つで支配し、切り裂くことになる、広大な中華の盤面そのものなのだから。
「……行くか、蘇秦」
鬼谷子が、静かに茶をすすりながら声をかけた。
その背に刻まれた思想鍵紋は、いつもと変わらず冷徹に明滅している。第一世代の孫臏や龐涓を見送った時と、全く同じ無感情な観測者の眼差し。
「はい、お師匠様。大変、長い間お世話になりました」
蘇秦は、泥と血の跡がこびりついた粗末な麻の衣のまま、大地の土の上に深く膝をつき、平伏した。
彼の内側には今、魂を喰い破るほどの質量を持った『五龍』の生命力が渦巻き、それを外敵から完璧に隠蔽する『伏熊』の闇が彼を包み込んでいる。外見はただの貧しい哀れな書生にしか見えないが、その肉体の内側には、一国を内側から爆破できるだけの概念兵器が完全に充填されていた。
「お前は重く、堅実な土の性質を持つ。お前の紡ぐ『合従(がっしょう)』の論理は、弱者たちが生き残るための最も強固な檻となるだろう。だが、忘れるな」
鬼谷子は、ゆっくりと湯呑みを置くと、平伏する蘇秦の頭上から冷酷な現実を告げた。
「人間の王というものは、本質的に強欲で、傲慢だ。彼らは自分が安全な時にしか約束を守らない。お前がどれほど完璧な論理の鎖で彼らを繋ぎ合わせようとも、お前自身の貧困への恐怖という心の隙間を突かれれば、その同盟は一瞬にして内側から腐り落ちるぞ」
「……百も承知にございます」
蘇秦は、地面に額を押し付けたまま、奥歯を噛み締めて答えた。
自分がなぜこれほどの地獄の修行に耐え、人間の心を捨てる獣の魔術を身につけたのか。すべては、故郷で自分を「無能な穀潰し」と罵り、見捨てた家族や、自分を泥のよう見下した世界のすべてを、自らの『言葉』だけでひざまずかせるためだ。
「俺は、二度とあの泥の底には戻らない。強者たちがどれほど我儘であろうとも、彼らの無意識にある死への恐怖を霊蓍の術で暴き出し、伏熊の爪でその喉元を脅し続けます。六つの国が一つとなり、西の怪物である秦を封じ込める絶対のシステムを、俺がこの舌一つで構築してみせます」
「よかろう。行け、蘇秦。お前がこの世界にどのような歪みをもたらすのか、僕はここから楽しみに観測させてもらうよ」
鬼谷子が羽扇を微かに一振りすると、目の前を遮っていた濃密な霧が、モーセの海割りのように左右へと美しく分かれ、外の世界へと続く一本の細い山道が姿を現した。
蘇秦は立ち上がり、もう一度深く一礼すると、一切の躊躇なくその山道へと足を踏み出した。
数年ぶりに浴びる、外の世界の本物の太陽の光。
しかし、彼の皮膚はその暖かさを拒絶するように冷たく、彼の瞳は、これから自分が蹂躙し、支配することになる戦国中原の地を、恐ろしいほどの飢餓感を孕んで見据えていた。
――だが、鬼谷の庵を出た蘇秦を待っていたのは、華々しい栄光などではなかった。
縦横家としての最初の行動。
蘇秦はまず、自らの故国であり、周の王室が形骸化して残る洛陽へと向かった。そして、周の朝廷に仕える権力者たちに、自らが鬼谷で練り上げた「天下を掌握する軍略の書」を提出し、自らを登用するよう説いたのである。
しかし、朝廷の老人たちは、粗末な身なりをした蘇秦を一瞥するなり、鼻で笑って追い出した。
『鬼谷子の弟子だか何だか知らんが、どこの馬の骨とも分からぬ貧乏書生の戯言など、聞く耳は持たん。大方、口先だけで金を騙し取ろうとする詐欺師の類だろう。疾く失せよ』
門番たちに突き飛ばされ、洛陽の冷たい石畳の上に転がる蘇秦。
彼の自尊心は粉々に引き裂かれた。魂の奥底で『五龍』が怒りの咆哮を上げ、周囲の大気を物理的に歪めるほどの魔力が暴走しかける。だが、彼は『伏熊』の術でそれを強引に抑え込み、泥を舐めながら立ち上がった。
(……まだだ。この国(周)の連中には、世界を俯瞰する度量すらない。ならば、次は西の強国、秦(しん)だ)
蘇秦は、着の身着のまま、険しい山を越えて西の秦の国へと向かった。
当時の秦は、商鞅(しょうおう)による改革を経て、武力においては戦国最強と目される新興の怪物国家であった。蘇秦は秦の恵文王(けいぶんおう)に謁見を求め、持てるすべての弁舌(鷙鳥の急降下)をもって、秦が天下を武力で統一するための具体的な戦略を説いた。
しかし、そこでも不運が彼を襲う。
秦の王宮は、ちょうど大改革を断行した直後で保守派と革新派の血生臭い権力闘争の真っ只中にあり、他国から来た怪しげな弁論家を新しく迎え入れる余裕など、微塵もなかったのだ。恵文王は蘇秦の言葉を「大言壮語である」と一蹴し、彼を宮廷から追放した。
――それから、一年。
蘇秦は、完全に敗残兵となって、故郷である洛陽の農村へとトボトボと歩いて帰ってきた。
その姿は、あまりにも無惨であった。
衣服はボロボロに引き裂かれて擦り切れ、靴の底は完全に抜けて足裏からは血が滲んでいる。長旅の飢えと疲労により、肉体は極限まで痩せ細り、かつて鬼谷で見せたあの傲慢なまでの知性の輝きは、完全に消え失せているように見えた。
彼が実家の粗末な小屋の扉を開けた時。
そこにいた家族たちの対応は、鬼谷の結界が見せた『最悪の幻影』そのものであった。
「……何だい、その格好は。天下を動かす大物になるとか言って大金を借金して出て行ったくせに、結局は一文無しで逃げ帰ってきたのかい」
機織りをしていた妻は、蘇秦の顔を見るなり、あからさまに軽蔑の目を向けて機織りの手を止めることすらしなかった。
「情けない奴だ。お前が遊んでいる間、俺たちがどれほど苦労して土を耕していたと思っている。我が家の面汚しめ、二度とお前の飯など作らんからな」
飯を炊いていた兄の妻は、蘇秦に一瞥もくれず、彼を犬けだもののように罵った。
両親すらも、部屋の隅でため息をつき、「あんな穀潰し、生まなければ良かった」と冷たく言い放ち、誰一人として、飢えと疲労で倒れそうな蘇秦に一杯の水すら差し出そうとはしなかった。
絶対的な孤立。
血の繋がった家族から受ける、物理的な暴力よりも遥かに残酷な『言葉の暴力』。
普通の人間であれば、この時点で完全に心が折れ、首を吊って自殺するか、狂人となって野垂れ死んでいただろう。
だが。
冷たい床の上に這いつくばり、家族たちの罵声の雨を浴びながら、蘇秦の瞳の奥底で、何かが完全に『反転』した。
(……あは。あはははは……!)
彼の脳内で、本経陰符七術の最後の秘術――『損兌法霊蓍』が、恐ろしいほどの解像度で作動していた。
彼は、自分を罵倒する兄の妻や、無視する妻の肉体の動き、呼吸の乱れ、そしてその奥にある「金を失ったことへの怒り」と「他者への傲慢な優越感」という醜い精神構造を、細胞レベルの解像度で冷徹に『解剖』し尽くしていたのだ。
(そうか。人間とは、これほどまでに浅ましく、利害関係だけで動く生き物なのか。血の繋がり? 家族の情? そんなものは存在しない。人間を結びつけるのは、ただ一つの絶対的な『損得』だけだ)
家族への恨み。世界への憎悪。
それが、彼の魂の奥底に封印されていた『五龍』の最大の燃料となった。
憑き物が落ちて死んでいった第一世代の龐涓とは真逆に、蘇秦は今、この絶望の泥濘の中で、自らの野心と狂気をさらに巨大な結晶へと昇華させていた。
(見ているがいい、お前たち。俺を無能と笑った家族、俺を追い出した王たち……。お前たち全員を、俺の編み出す『利害の鎖』で縛り上げ、俺の足元でひざまずかせてやる。お前たちが命乞いをするその瞬間まで、俺の舌は止まらない)
蘇秦は無言のまま立ち上がると、家族の誰とも目を合わせず、屋敷の奥にある薄暗い物置部屋へと篭った。
それからの一年間。
彼は物置部屋の鍵を閉め、一切の外界との接触を絶ち、ただひたすらに、鬼谷子から授かった『本経陰符七術』の竹簡を貪るように読み返し、己の精神をさらに深く、鋭く研ぎ澄ませることに没頭した。
夜中、睡魔が彼を襲い、意識が遠のきそうになると、蘇秦は机の上に置いた尖った『錐(きり)』を手に取り、自らの『太もも』へと躊躇なく深く突き刺した。
ブスリ、という鈍い音と共に、鮮血が迸り、激痛が脳髄を割る。
床が己の血で赤く染まる中、彼はその痛みを狂気の笑みで受け入れ、再び竹簡へと目を走らせた。後に歴史に『錐を刺して股を紡ぐ』と称される、人間の執念の極致。
肉体の痛みなど、世界への復讐心に比べれば心地よい愛撫に過ぎない。
一年後。
物置部屋の扉が、内側から静かに開けられた。
そこから出てきた蘇秦は、一年前のあの惨めな敗残兵ではなかった。
頬は痩せこけ、太ももは幾つもの傷跡でボロボロになっていたが、その双眸から放たれる『気』の質量は、もはや一国の軍勢を物理的に圧死させるほどの、完全なる『黒龍』の威圧感を帯びていた。
彼の舌は、一年間の血の滲むような自己解体を経て、触れる者すべての脳髄を溶解させる最高純度の『言葉の猛毒』へと進化を遂げていた。
「……さあ、盤面をはじめよう」
蘇秦は冷たく呟き、再び洛陽の家を後にした。
今度の目的地は、北の弱小国――『燕(えん)』。
最も虐げられ、最も他国の脅威に怯える弱者。その心の隙間に、彼が飼い慣らした七つの獣の牙を突き立て、天下を真っ二つに引き裂く巨大な合従の鎖を紡ぎ出すための、最初の旅路。
泥土の底から昇り詰める、合従の黒龍。
蘇秦という名の本当の『怪物』が、ついに中原の戦場へとその巨大な影を落とし始めた。彼が発する最初の一言が、戦国七雄のすべての王たちを戦慄させる恐怖のカウントダウンの始まりとなることを、まだ誰も知らなかった。