縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第八節:合従連衡、仮初の安寧(1/3)――六王を縛る泥土の鎖、蘇秦の合従

 

 紀元前三三〇年代。

 第一世代の天才たち――孫臏と龐涓が、己の命と魂を燃やし尽くして大地の陣形(兵法)を極めた馬陵の戦いから、時代はさらに混迷の度合いを深めていた。

 中原の大地においては、七つの巨大な国家が互いの領土と血を奪い合う『戦国七雄』の時代が到来していた。その中でも、西の辺境に位置する強国・秦(しん)は、商鞅(しょうおう)という冷徹な法家の手によって国家そのものを一つの巨大な軍事機械へと作り変え、東の六国(燕、趙、韓、魏、斉、楚)を虎視眈々と狙い、その暴食の顎(あぎと)を開きつつあった。

 

 圧倒的な武力と、非情なる法術によって統制された秦の進撃。

 それは、東の六国にとって、いずれ必ず訪れる『死の足音』であった。しかし、六国の王たちは、秦という巨大な怪物の恐怖に怯えながらも、目先の利権や過去の恨みに囚われ、互いに背中を刺し合う泥沼の抗争から抜け出すことができずにいた。

 彼らの精神は、猜疑心と傲慢さという名の重い鎧を着込んだまま、暗闇の中で震える哀れな肉の塊に過ぎない。

 

 そこに。

 鬼谷の深い霧の底から這い上がってきた一匹の『怪物』が、その漆黒の舌を舐めずりながら姿を現した。

 

「……愚かな。これほどまでに完璧な『恐怖』という名の接着剤が用意されているというのに、誰一人としてそれを利用しようとしないとは」

 

 北の最弱国・燕(えん)の雪降る王都の門前。

 ボロボロの衣を纏った青年、蘇秦(そしん)は、天を仰いで冷たく嗤った。

 彼が鬼谷を旅立ち、秦の恵文王に謁見を拒絶され、故郷の洛陽で家族から凄惨な迫害を受けてから、すでに数年の歳月が流れていた。自らの太ももを錐(きり)で突き刺し、血の池の中で『本経陰符七術』を極限まで自己解体・再構築した彼の肉体は、枯れ木のように細く、痛々しい。

 だが、その皮膚の一枚下には、人間の理性を完全に喰い破った『六つの獣』の概念が、獲物の喉首を掻き切るその瞬間を待ちわびて、ドクドクと不気味な脈動を打っていた。

 

「さあ、始めよう。盤面をひっくり返す、最初の舌禍を」

 

 蘇秦は、燕の文公(ぶんこう)が座する王宮へと足を踏み入れた。

 みすぼらしい身なりの彼を見るなり、居並ぶ燕の重臣たちは嘲笑を漏らし、王もまた退屈そうに欠伸を噛み殺した。燕は六国の中でも最も北に位置し、国土は痩せ、常に南の趙(ちょう)や西の秦の脅威に晒され、国家存亡の危機にあった。彼らには、素性の知れない遊説家の戯言に耳を貸す余裕などなかったのだ。

 

「燕の王よ。貴方の国は、すでに死に体だ。南の趙が本気で牙を剥けば、この雪の都は半月で血の海に沈むでしょう」

 

 挨拶もそこそこに、蘇秦の口から放たれたのは、王のプライドを粉々に叩き割る『死の宣告』であった。

 その瞬間、王宮の空気が凍りつき、重臣たちが一斉に剣の柄に手をかけた。

 

「無礼者ッ! 貴様、我が国を愚弄するか!」

 

「愚弄? 事実を述べたまでです。貴方たちは、西の秦を恐れるあまり、目の前にある趙の脅威から目を逸らしている。秦は遠く、趙は近い。飢えた狼に怯えて、足元にいる毒蛇を無視しているのです」

 

 蘇秦の漆黒の瞳が、王の顔を真っ直ぐに射抜く。

 彼の脳髄では、すでに『損兌法霊蓍(そんだほうれいし)』が超高速で稼働していた。王の瞳の微かな揺れ、額の冷や汗、筋肉の硬直。それらの生体情報から、王の精神の奥底にある「国を滅ぼすことへの絶対的な恐怖」と、「どうしていいか分からないという無力感」を、細胞レベルの解像度で完全に解析し尽くしていた。

 

(この男の精神は、すでに脆くヒビ割れている。ならば、力任せに叩き割る必要はない。そのヒビの隙間に、俺の『論理の泥』を流し込み、内側から固めてやればいい)

 

 蘇秦は、自らの内に飼い慣らした獣の檻を開き、言葉の波長に『盛神法五龍』の重圧と、『散勢法鷙鳥』の鋭い殺意を乗せて放った。

 

「王よ。貴方が生き残る道は、ただ一つ。その足元の毒蛇(趙)と手を結び、互いの毒牙を外に向けさせることです。燕が趙と同盟を結び、背後を固めれば、趙は安心して西の秦と戦うことができる。これは、燕と趙、双方にとって完全なる『利害の一致』。……私が、趙の王を説き伏せ、貴方の国を永遠の恐怖から解放する防壁を構築してご覧に入れましょう」

 

 それは、単なる提案ではない。

 蘇秦の放つ言葉は、概念的な重力となって王の精神にのしかかり、その思考回路を強制的に一本道へと縛り上げていく。陰の気――すなわち闔の魔術。

 王は、蘇秦の言葉の前に完全に圧倒されていた。目の前に立つボロボロの青年が、まるで天の理を体現する巨大な黒龍のように見え、その重圧に息をすることすら忘れていた。

 

「……できるのか? そ、そのようなことが、貴様に……」

 

「できます。私は、そのために地獄の底から這い上がってきたのですから」

 

 燕の文公は、蘇秦の放つ圧倒的な魔力(説得力)に完全に屈服し、彼に趙へ向かうための莫大な資金と、燕の特使としての絶対的な権限を与えた。

 これが、蘇秦の編み出す巨大な概念の鎖――『合従(がっしょう)』の、最初の環が繋がった瞬間であった。

 

 燕の莫大な富と威光を背盾に、蘇秦は次なる標的、中原の要衝である趙(ちょう)へと乗り込んだ。

 趙の粛侯(しゅくこう)は、燕の王とは違い、野心と警戒心に満ちた男であった。彼は容易に他者を信じず、自国の強大な武力に絶対的な自信を持っていた。

 

「燕からの使者だと? 笑わせる。あの雪に閉ざされた貧弱な国が、我が趙に何の利益をもたらすというのだ。秦が攻めてくれば、我が軍が単独で叩き潰すまでよ」

 

 豪奢な王宮で、粛侯は蘇秦を見下して冷笑した。

 しかし、蘇秦の表情には微塵の揺らぎもない。彼の魂の形は、すでに『養志法霊亀』の絶対防御形態をとっており、王の傲慢な威圧など、厚い甲羅の表面を撫でるそよ風に過ぎなかった。

 

「単独で叩き潰す。なるほど、勇ましいお言葉だ。ですが王よ、それは『戦術』の話であり、『戦略』ではありません」

 

 蘇秦は一歩前へ出た。

 その瞬間、彼の背後から、目に見えない強大な五匹の龍の幻影が立ち上り、王宮の柱を軋ませた。物理的な破壊ではない。それは、世界を俯瞰する『大局観』という名の、圧倒的な情報量の暴力であった。

 

「秦は、一つの首を切り落としてもすぐに別の首が生えてくる、不死身の怪物。貴方の軍が一度や二度勝利したところで、彼らは決して止まらない。秦が狙っているのは、趙だけではないのです。韓、魏、斉、楚……彼らは六つの国を一つずつ、確実に各個撃破していく計画を立てている」

 

 蘇秦は、両腕を大きく広げた。

 彼の言葉に合わせて、王宮の空間そのものが歪み、不可視の巨大な『大地の盤面』が王の目の前に展開された。

 

「想像してください。もし、貴方の隣国である韓や魏が秦に降伏し、彼らの領土が秦の軍事拠点となった未来を。貴方は、西、南、東の三方から、秦の無尽蔵の軍勢に包囲されることになる。その時、単独でどうやって国を守るおつもりか!」

 

 『分威法伏熊』で限界まで圧縮して溜め込んでいた重圧を、『散勢法鷙鳥』の絶速で一気に解き放つ。

 蘇秦の言葉は、鋭く尖った氷の刃となって、粛侯の精神の奥底にある「孤立への恐怖」を正確に貫いた。

 

「六国は、すでに同じ一つの首枷をはめられた死刑囚に過ぎない。誰か一人が処刑台から逃げようとすれば、全員の首が絞まる。生き残る道はただ一つ……六つの国が完全に手を結び、一つの巨大な『合従の壁』となることです。南北に連なる六国が軍事同盟を結べば、秦は決して東へ兵を進めることはできない。私が、その鎖を編み上げましょう」

 

 蘇秦の言葉は、論理という名の猛毒であった。

 反論の余地がない。彼の描く盤面はあまりにも完璧であり、その結末(死)の恐怖はあまりにもリアルであった。粛侯の頭から、単独で勝利するという傲慢な幻想が、音を立てて崩れ去っていく。

 

「……相分かった」

 

 長時間の凄絶な心理的攻防の末、ついに趙の粛侯は玉座から崩れ落ちるようにして、蘇秦の提案を受け入れた。

 燕と趙。北の二大国が、蘇秦の舌によって完全に結びつけられたのである。

 

 ここからの蘇秦の進撃は、まさに破竹の勢いであった。

 彼は燕と趙の同盟という巨大な実績を手に入れ、それを武器として残りの四国(韓、魏、斉、楚)を次々と蹂躙していった。

 

 韓の王には「自国の防衛を他国に依存する安心感」を売り渡し、魏の王には「かつての栄光を取り戻すための安全な土台」を提示した。斉の王には「東の覇者としての面子」を保たせながら同盟に組み込み、最後に残った最大にして最も傲慢な南の大国・楚の王に対しては、『転円法猛獣』の術を駆使し、その巨大なプライドを傷つけることなく、巧妙に恐怖心を煽り立てて自発的に同盟の盟主の座へと座らせた。

 

 それは、兵士の血を一滴も流すことなく、大地の龍脈(国境線)を人間の『言葉』だけで完全に書き換えてしまうという、神代の魔術すら凌駕する究極の概念操作であった。

 蘇秦が放つ闔の魔力は、六国の王たちの自我を「恐怖」という一つの箱の中に閉じ込め、「合従」という名の絶対的なシステムでその箱に厳重な鍵をかけたのである。

 

 紀元前三三三年。

 蘇秦の足掛け数年に及ぶ狂気の遊説は、ついに完全なる結実を迎えた。

 燕、趙、韓、魏、斉、楚。

 互いに血を洗う抗争を繰り広げていた六つの大国が、蘇秦というたった一人の人間の論理によって束ねられ、西の秦に対抗する強大な軍事同盟――『合従(がっしょう)』が、ここに成立したのである。

 

 六国の王たちは、蘇秦の圧倒的な知と魔力に平伏し、彼に六国すべての宰相の印綬を授けた。

 ここに、歴史上空前絶後の『六国大封相(りっこくたいほうしょう)』――六つの大国の最高権力者を兼任する、究極の怪物が誕生した。

 かつて鬼谷子のもとで学んだ泥まみれの貧乏書生は、今や、中華の六分の五の軍勢と富を己の舌先一つで動かす、神のごとき存在へと昇り詰めたのである。

 

 合従成立の翌年。

 蘇秦は、六国の軍隊に護衛されながら、黄金の馬車に乗って故郷である洛陽へと凱旋した。

 王侯貴族をも凌駕するその圧倒的な威光の前に、洛陽の太守は自ら道を清め、民衆は地面に額を擦り付けて彼を出迎えた。

 

 そして、彼がかつて逃げ帰った実家の前。

 そこには、かつて彼を「無能な穀潰し」と罵倒し、飯すら与えなかった両親、兄弟、そして妻が、恐怖と後悔に顔を引き攣らせながら、泥の中に平伏していた。

 特に、彼を犬けだもののように見下していた兄の妻(嫂)は、ガタガタと震えながら蛇のように地面を這い、蘇秦の馬車の車輪に顔を擦り付けて命乞いをした。

 

「……嫂(あによめ)よ。かつて俺をあれほど蔑んでいたというのに、なぜ今はそれほどまでにへりくだり、恐れるのだ」

 

 馬車の上から、黄金の衣を纏った蘇秦が、氷のように冷たい声で問いかけた。

 兄の妻は、泥にまみれた顔を上げず、震える声で答えた。

 

「季子(蘇秦の字)様が……今は位が高く、黄金を多く持っておられるからです……」

 

 その言葉を聞いた瞬間。

 蘇秦の心の中で、六国の王を束ね上げた時すら感じなかった、絶対的な『虚無』が、音を立てて広がっていった。

 

(……そうか。やはり、そうだったのだ)

 

 蘇秦は、泥に平伏する家族たちを見下ろし、そして空を見上げた。

 彼の瞳からは、歓喜の涙も、復讐を成し遂げた達成感も、一切の感情が抜け落ちていた。

 

(血の繋がりも、家族の愛も、名誉も、誇りも、人間の心には存在しない。あるのはただ、力と富への屈服。恐怖と欲望という名の、ちっぽけなものだけだ。……俺は、こんな下等な獣たちのために、自分の魂を削り、六つの獣を喰らい、魔道に堕ちたというのか)

 

 彼は勝利した。

 世界を己の論理で縛り上げ、自分を見下した者たちを全員ひざまずかせた。

 だが、その手の中にあるのは、金と暴力で構築された、冷たくて脆い『仮初の繋がり』だけである。

 彼は世界のシステムを掌握したがゆえに、自らもまた、その巨大で退屈なシステムの『孤独な管理者』という歯車の一つに成り下がってしまったのだ。

 

「……立て。そして金を取れ。お前たちの命など、俺の舌を汚す価値すらない」

 

 蘇秦は、大量の黄金を家族たちの前に無造作に放り投げ、馬車をそのまま引き返させた。

 六国の合従という強固な檻は、秦の進行を完全に食い止め、戦乱の中原に奇跡的な「平和(膠着状態)」をもたらした。

 しかし、その平和の頂点に君臨する黒龍の心には、底知れぬ絶望の穴が開いていた。

 

 そして、この合従という絶対的なシステムが完成したその瞬間から。

 この完璧すぎる防壁を、内側から最も残酷に、最も滑稽に食い破るための『もう一匹の怪物』が、ついにその牙を剥き出しにして盤面へと躍り出るのである。

 

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