縦横家の祖 鬼谷子 作:お腹ぽんぽん
蘇秦(そしん)が六国の王を束ね、絶対的な防壁である『合従(がっしょう)』を完成させて天下の頂点に君臨していた頃。
彼と双璧をなすもう一人の天才、張儀(ちょうぎ)は、南の大国・楚(そ)の路地裏で、泥と自らの血の池の中に沈んでいた。
「……はは、こいつは傑作だ。人間の暴力ってのは、どうしてこうも単調で、つまらないんだろうな」
張儀は、全身の骨が何本も砕け、内臓が破裂しそうな激痛の中で、ポツリと独りごちた。
彼は楚の宰相の宴に客として招かれていたが、そこで国宝級の宝玉である『和氏の璧(かしのへき)』が紛失するという事件が起きた。貧しい身なりの遊説家であった張儀は、真っ先に泥棒の濡れ衣を着せられ、宰相の私兵たちによって、夜通し数百発の鞭打ちと凄惨な拷問を受けたのである。
並の人間であれば、とっくにショック死しているほどの外傷。
鬼谷で本経陰符七術を極めた張儀であれば、鞭を振るう兵士たちの精神を『散勢法鷙鳥(さんせいほうしちょう)』の言葉一つで破壊し、皆殺しにして逃げ出すことも容易にできたはずだ。
だが、彼は一切の魔術(反撃)を行わず、ただ黙って人間の物理的な悪意と暴力を、己の肉体だけで受け止め続けていた。
(痛い。確かに痛い。だが、この程度の物理的な痛みで、俺の魂の形(獣)は微塵も歪まない。……人間が本当に壊れるのは、肉体を刻まれた時じゃない。己の欲望とプライドをへし折られた時だ)
彼は泥水の中で、ボロ布のようにピクリとも動かなくなった。
兵士たちは「死んだか」と吐き捨て、張儀をゴミのように路地裏へと投げ捨てて去っていった。
数刻後。
冷たい雨が降る中、張儀の妻が、血だらけになって倒れている夫をようやく見つけ出し、悲鳴を上げて駆け寄ってきた。
「あなた! ああ、なんてこと……! 全身傷だらけじゃないですか! だから言ったのです、あんな書物ばかり読んで遊説の真似事などするから、こんな酷い目に遭うのだと……!」
妻は泣きじゃくりながら、張儀の泥だらけの顔を抱き寄せた。
張儀は、腫れ上がった瞼(まぶた)をわずかに開け、血を吐きながら、微かに口の端を歪めて笑った。
「……泣くことはないさ。それより、俺の口の中を見てくれないか」
「え……?」
「俺の舌は、まだ残っているか?」
妻は怪訝な顔をしながらも、夫の言う通りにその血まみれの口の中を覗き込んだ。
「……ええ、舌は、まだちゃんとあります。でも、それがどうしたというのですか!?」
妻の答えを聞いた瞬間。
張儀の喉の奥から、ククク、ハハハハハッ!という、狂気に満ちた哄笑が弾けた。
「舌さえあれば、十分だ。……俺の最強の魔術は、無傷で残っているじゃないか。だったら、この天下は、すでに俺の手の中にあるも同然さ」
全身の骨が砕けていようが関係ない。
縦横家にとって、肉体とは声帯を震わせ、舌を動かすための単なる土台に過ぎない。この舌から放たれる言葉さえあれば、楚の国を滅ぼすことも、蘇秦の編み上げた強固なシステムを内側から食い破ることも、造作もないことなのだから。
張儀は、鬼谷子から授かった『養志法霊亀』の治癒と回復の気を全身に巡らせ、バキバキと音を立てて自らの折れた骨を強引に繋ぎ合わせた。
そして、ふらつく足で立ち上がると、雨の降る西の空――怪物国家である『秦』の方角を、底知れぬ漆黒の双眸で睨みつけた。
「蘇秦。お前が六国を『恐怖』で縛り上げ、堅苦しい壁を作ったおかげで……天下の王たちの腹の中には、『欲望』という名のガスが今にも爆発しそうなほど充満しているぜ。お前の親友として、俺がその壁に、ほんの小さな『穴』を空けて、火を点けてやろう」
張儀は、かつて蘇秦が追い出された西の強国・秦(しん)へと向かった。
秦の恵文王(けいぶんおう)は、蘇秦の作り上げた六国合従の壁によって東への進出を完全に阻まれ、苛立ちを募らせていた。
そこに現れた張儀は、蘇秦とは全く逆のアプローチで王の精神へと侵入を開始した。
「王よ。蘇秦の合従を恐れる必要は微塵もありません。あの同盟は、見せかけの砂の城です」
張儀の放つ魔術は、陽の気――『捭(開)』。
相手の精神を恐怖で縛り付ける蘇秦の『闔(閉)』とは対極にある、相手の奥底にある傲慢さと欲望の扉を、甘い言葉でこじ開ける概念操作であった。
「六国の王たちは、互いを信じてなどいない。彼らは皆、自分が一番得をしたいと考え、他国が秦と戦って消耗するのを待っているだけの利己的な豚の群れです。……群れを崩すのは簡単です。一番大きくて欲深い豚の前に、極上の餌を吊るしてやればいい」
張儀は、秦の強大な軍事力や恐怖を一切説かなかった。
彼が語ったのは、秦が持っている「莫大な領土」と「富」を、いかにして他国の王の欲望と交換するかという、徹底的なまでの『利益供与の欺瞞(ぎまん)』であった。
「一つ一つの国と、個別に甘い取引を持ちかけるのです。他国を裏切れば、秦の領土を割譲すると。これを『連衡(れんこう)』と呼びます。餌に釣られて一国でも合従を抜け出せば、蘇秦の作った論理の壁は、ドミノ倒しのように崩壊します。……私を秦の宰相として使ってください。私の舌一つで、東の六国を互いに食い殺させてご覧に入れましょう」
恵文王は、張儀の放つ『実意法螣蛇(じついほうとうだ)』の変幻自在で魅力的な弁舌に、完全に魂を奪われた。
武力で壁を叩き割るのではなく、毒を流し込んで内側から壁を溶かす。法と軍事を重んじる秦にとって、これほど効率的で悪魔的な兵器は存在しなかった。
恵文王は張儀を最高位の宰相に任命し、秦の全権を彼に委ねた。
――そして、張儀の「世界解体ショー」が、ついに幕を開ける。
彼が最初の標的に選んだのは、合従の要であり、最も巨大な国力を誇る南の大国・楚(そ)であった。
かつて自分が泥棒扱いされ、半殺しにされた因縁の国。しかし張儀の心に、個人的な復讐心というような熱い感情はない。あるのはただ、楚の王の巨大な「欲望」を逆手に取り、盤面を崩壊させるという冷徹な遊戯の快楽だけであった。
楚の懐王(かいおう)は、プライドが高く、底なしの貪欲さを持った男であった。
秦の宰相として華々しく楚の王宮へ乗り込んできた張儀を、懐王は苦い顔で出迎えた。南の楚と東の斉(せい)の強固な同盟関係こそが、秦を封じ込める最大のストッパーとなっていたからだ。
「秦の宰相どの。我が国は斉と固い盟約を結んでおる。秦が何を言ってこようと、我が楚が揺らぐことはないぞ」
強がる懐王に対し、張儀は恭しく頭を下げ、懐王の精神の奥底へと『霊蓍(れいし)』の解析触手を滑り込ませた。
(なるほど。この男、口では同盟を誇っているが、内心では斉の王が自分より目立っていることが気に食わないのだな。それに、秦の豊かな土地が欲しくてたまらないという涎(よだれ)が、心臓から垂れ流しになっている)
張儀は、内心でクスクスと笑いながら、極上の毒餌を懐王の前に放り投げた。
「楚の王様。秦の王は、貴方様の偉大さに心から感服しており、どうしても斉との同盟を破棄し、秦と手を結んでいただきたいと願っております。もし、貴方が斉との国交を断絶してくださるのなら……秦は、かつて楚から奪った『商於(しょうお)の地の六百里』を、すべて貴方の国に無償で返還すると約束しております」
「――――な、六百里だと!?」
懐王は、玉座から身を乗り出し、目を血走らせた。
商於の地・六百里。それは、楚が長年喉から手が出るほど欲しがっていた、広大で肥沃な領土である。それが、斉との同盟を破棄するだけで、血を一滴も流さずに手に入るというのだ。
「張儀よ、それは誠か!? 秦王は本当に六百里の地を割譲するというのだな!」
「ええ、もちろん。私のこの舌に誓って嘘は申しません。楚ほどの強国と手を結べるのであれば、六百里など安いものです。……ただ、斉との同盟が続いている間は、お渡しすることはできませんが」
張儀の声は、悪魔の囁きであった。
捭の魔術が、懐王の精神の扉を限界までこじ開け、その中へ「六百里の領土」という強烈な欲望を滝のように注ぎ込む。
蘇秦が論理で編み上げた「合従の鎖」など、この直接的な欲望の爆発の前には、紙切れほどの強度もなかった。
「わ、分かった! 我が国は今すぐ斉との同盟を破棄する! 使者を送って、斉の王に罵詈雑言を浴びせて絶交を宣言してやろう! だから早く、その六百里の土地を寄越せ!」
懐王は、重臣たちの必死の制止を完全に無視し、狂ったように喚き散らした。
張儀は、深々と頭を下げながら、顔の下でひっそりと、三日月のようにおぞましい笑みを浮かべていた。
楚は即座に斉に使者を送り、同盟の破棄を宣言した。
当然、激怒した斉の王は楚を敵と見なし、逆に秦へと接近し始めた。これで、蘇秦の合従の最大の要であった「楚と斉の連携」は完全に崩壊したのである。
だが、張儀の悪ふざけは、ここで終わらない。
楚が斉と絶交したという報告を受けた張儀は、秦へ帰国する道中、馬車からわざと転げ落ちて足を捻挫し、自邸に三ヶ月間引きこもってしまったのだ。
「怪我のため、楚への領土割譲の書類にサインができない」という露骨な時間稼ぎ。
焦った楚の懐王は、秦に何度も使者を送った。
「なぜ六百里の地を渡さないのか! 怪我が治るまで待てない、今すぐ寄越せ!」と。
さらに懐王は、「斉との絶交が足りないから張儀が疑っているのだ」と勝手に勘違いし、勇者を斉に派遣して、斉の王を個人的にボロクソに罵倒させるという愚行まで犯した。これで斉と楚の関係は修復不可能なまでに完全に破壊された。
三ヶ月後。
斉と楚の分断が決定的なものになったことを確認した張儀は、ケロリとした顔で楚の使者の前に姿を現した。
「おお、楚の使者殿。大変お待たせいたしました。さあ、約束の土地をお渡ししましょう。私の領地である、ここからあそこまでの『六里』の土地をどうぞ」
「……は? ろ、六里? 何を言っているのだ、張儀! 貴様、商於の地『六百里』を割譲すると約束したではないか!!」
使者が顔面を蒼白にして叫ぶ。
張儀は、きょとんとした顔を作り、大げさに肩をすくめてみせた。
「六百里? 滅相もない。秦の大切な領土をそんなに簡単に割譲できるわけがないでしょう。私は最初から、私の個人の領地である『六里』を差し上げると言ったのですよ。楚の王様が、勝手に聞き間違えられただけではありませんか?」
「き、貴様ァァァッ!! 騙したな! 我が楚国を、天下の笑い者にしたなァァァッ!!」
その報告を聞いた楚の懐王の怒りは、まさに天を焦がすほどのものであった。
斉との同盟を自ら破棄し、散々媚を売った挙句に、たったの六里しかもらえなかった。天下の強国である楚の威信は地に落ち、懐王のプライドは完全に粉々に叩き割られたのである。
「許さん! 張儀、そして秦め! 全軍を出撃させろ! 秦に攻め込み、あのペテン師の舌をこの手で引き抜いてやる!!」
理性を完全に失った懐王は、蘇秦がかつて警告した「単独で秦に挑んではならない」という絶対のルールを破り、同盟国の援護もなしに、単独で十数万の楚軍を秦へと突撃させた。
怒りに任せて陣形も戦略も無視した烏合の衆。
秦の軍勢は、これを待ち構えていた。
冷静に配置された秦の大軍は、突進してきた楚の軍勢を包囲し、文字通り完膚なきまでにすり潰した。
楚の兵士八万が首を斬られ、大将軍は捕虜となり、漢中の広大な領土が逆に秦に奪われるという、楚にとって歴史的な大惨敗。
さらには、楚に恨みを持っていた斉までもが背後から楚を攻撃し、南の超大国は、たった一人の男の「嘘」によって、一瞬にして再起不能の深手(致命傷)を負わされたのである。
――秦の王宮の奥深く。
月明かりが差し込む豪奢なテラスで、張儀は極上の美酒が入った杯を傾けながら、遠く南の空を焦がす戦火の光を見つめていた。
「あっはははははッ! 見たか、蘇秦! これがお前の信じた人間の正体だ!」
張儀の笑い声が、夜の闇に響き渡る。
彼の目には、自分の計略によって何万という人間が死に、国が燃えているという事実に対する罪悪感など、微塵も存在しなかった。
ただ、人間という生き物の果てしない滑稽さと、自分がその因果を思い通りに弄んでいるという全能感の快楽に酔いしれていた。
「お前が何年もの血を流して築き上げた『論理の壁』も、俺が『六百里の土地』という名の毒針を一本刺しただけで、奴らは自ら壁を壊して殺し合いを始めたじゃないか」
張儀は、杯の酒を一口飲み込み、残りを空中に向かってパシャリと撒いた。
「人間は、恐怖では縛れない。連帯なんていう言葉は、自分の胃袋を満たす前には何の役にも立たない。……俺の『連衡』は、お前の『合従』を完全に凌駕したぜ、蘇秦」
張儀のこの楚に対する歴史的な詐欺事件を皮切りに、蘇秦の構築した六国の合従は、次々と音を立てて崩壊していった。
張儀はその後も六国を巡り、ある国には脅迫を、ある国には利益をちらつかせ、『転円法猛獣』の舌先三寸で各国の王を翻弄した。
王たちは張儀の巧みな言葉に騙され、あるいは秦の圧力に屈して、互いの同盟を破棄し、次々と秦に「連衡」を誓うようになっていったのである。
盤面は、再び混沌と流血の時代へと逆戻りした。
しかし、それは第一世代のような力と魔術のぶつかり合いではない。
蘇秦と張儀という二人の天才が、言葉と欲望という概念を用いて、国家の運命そのものをオセロのよう裏返し合う、歴史上最も醜悪で、最も洗練された舌戦の時代であった。
鬼谷の底で産声を上げた舌禍の双竜は、戦国という世界を完全に自分たちの遊技場として書き換えたのである。
彼らの言葉一つで、数万の兵が動き、城が落ち、王が死んだ。
物理的な暴力が飽和した世界において、人間の「脳髄」を直接掌握する第二世代の魔術は、中華の歴史に消えることのない深い傷跡を残すこととなる。