縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

24 / 24
第八節:合従連衡、仮初の安寧(3/3)――絡み合う呪縛の果て、そして調律者の追想

 

 蘇秦(そしん)の『合従(がっしょう)』による絶対的な論理の檻と、張儀(ちょうぎ)の『連衡(れんこう)』による狂気的な欲望の解放。

 この相反する二つの概念魔術が中原の大地で激突し、複雑に絡み合った結果、世界はかつてない奇妙な変容を遂げていた。

 

 物理的な破壊力で言えば、孫臏や龐涓といった第一世代の兵法家たちが引き起こした天変地異のような魔術戦の方が、遥かに派手で、甚大な死傷者を出していた。

 だが、中原という大地に刻み込まれた人間の呪いの深さで言えば、蘇秦と張儀がもたらした舌禍の方が、比較にならないほど深刻で、致命的であった。

 

 彼らが口先一つで国境線を書き換え、王たちを寝返らせ続けた結果、六国の間からは「信義」という概念が完全に消滅した。

 昨日まで血を分け合った盟友が、今日には背後から刃を突き立ててくる。約束は破られるために結ばれ、条約は相手を油断させるための単なる目眩しに過ぎなくなった。各国の王たちは、隣国だけでなく、自国の家臣や肉親すらも信じられなくなり、疑心暗鬼の底なし沼の中で、自らの影に怯えながら剣を振り回す亡者と化した。

 

 神代の残滓――大地の龍脈から無尽蔵のエネルギー(真エーテル)を引き出し、超常の奇跡を起こす魔術の時代は、ここで決定的な終わりを告げた。

 なぜなら、魔術を行使するための基盤となる自然への畏怖や神秘への信仰が、人間の剥き出しの「エゴイズム(欲望と恐怖)」によって完全に上書きされてしまったからだ。

 星の神秘よりも、人間の嘘の方が恐ろしい。神の雷よりも、隣人の裏切りの方が致命的である。

 世界を動かす法則が、神の理から人間の業へと、完全に書き換えられたのである。

 

 ――そして、その巨大な常識の変化を引き起こした二匹の怪物もまた、自らが織り上げた概念の糸に絡め取られ、因果の果てへと消え去る運命にあった。

 

 合従の黒龍、蘇秦。

 彼はその後、自らの作り上げたシステムを維持するため、あるいはさらに巨大な論理の檻を構築するために、斉(せい)の国へと渡り、その王の側近として暗躍していた。

 しかし、彼が権力を握れば握るほど、彼を嫉妬し、憎悪する者たちの数も天文学的に膨れ上がっていった。

 紀元前二八四年。蘇秦は、斉の王宮内で彼を快く思わない政敵たちの手によって、無数の刺客に襲撃される。

 

「……ぐ、がはッ……!!」

 

 白刃が蘇秦の胸を貫き、背中から血まみれの切っ先が突き出した。

 刺客たちは致命傷を与えたと判断し、その場から逃走する。

 冷たい石畳の上に倒れ伏し、自らの臓腑から流れ出る大量の血溜まりの中で、蘇秦の視界は急速に暗く、冷たくなっていった。

 

(……俺は、死ぬのか)

 

 痛覚が遠のき、呼吸が浅くなる。

 縦横家として世界を意のままに操った大天才の最期が、路地裏の野犬のように、名もなき暗殺者の刃に倒れることだとは。

 だが、死の淵にあっても、蘇秦の脳髄――その究極の演算機は、一切のパニックを起こさず、氷のように冷徹な論理を紡ぎ続けていた。

 

(俺を殺した刺客は逃げた。このままでは、俺はただの犬死にだ。俺の命の価値が、名もなき暗殺者と等価で終わるなど、論理的に許されない)

 

 薄れゆく意識の中で、蘇秦は己の魂の奥底に棲む『五龍』と『伏熊』の残存魔力をすべて掻き集め、最期の『闔(閉)』の呪式を構築した。

 死を間際にして、彼は駆けつけてきた斉の王に向かって、血反吐を吐きながらこう言い残したのである。

 

「王よ……。私が死んだら、私を謀反人として、車裂きの刑(四肢を馬車に繋いで引き裂く極刑)に処してください」

 

「な、何を血迷ったことを言うのだ蘇秦! 余のために尽くしてくれた忠臣に、そのような酷い真似ができるわけがなかろう!」

 

「いいえ、どうか……。私が謀反人として処刑されれば……『あの蘇秦を討ち取ったのは自分だ』と、恩賞を目当てに、必ず暗殺者が名乗り出てきます。……そいつらを、全員捕らえて、殺してください……。私の命の清算は、私の死体を餌にして……完璧に、終わらせるのです……」

 

 それが、天下を論理で縛り上げた怪物、蘇秦の最期の言葉であった。

 彼の眼球から光が失われ、その凄絶な生涯が幕を閉じる。

 

 斉の王は、涙を流しながら蘇秦の遺言を忠実に実行した。

 蘇秦の死体は謀反人として広場に引き出され、四台の馬車に手足を縛り付けられ、大衆の面前で無惨に引き裂かれた。

 すると、蘇秦の読み通り、「あの反逆者・蘇秦を暗殺したのは我々だ! 恩賞をくれ!」と、まんまと罠にかかった刺客たちが次々と名乗り出てきたのである。斉の王は彼らを一網打尽に捕縛し、全員の首を刎ねて蘇秦の仇を討った。

 

 自らの死体すらも、盤面の駒として冷酷に計算し尽くし、因果を完全に閉じてみせた。

 それは、人間の感情を徹底的に排除し、論理の極致に達した男の、あまりにも完璧で、あまりにも悲しい幕引きであった。

 

 一方、連衡の毒蛇、張儀。

 彼は最大の理解者であり、自らの言葉の価値を最も高く買ってくれていた秦の恵文王が病死したことで、その運命の歯車を狂わせていた。

 新たに即位した秦の武王は、張儀のペテン師のようなやり口をひどく嫌っており、彼を露骨に遠ざけたのである。

 

「……ははっ。舞台の幕引きってやつか。観客が変わっちまったんじゃ、俺の舌もただの肉の塊だな」

 

 権力基盤を失い、秦の朝廷内で孤立した張儀は、己の死期が近いことを悟り、自ら秦を去って魏(ぎ)の国へと逃れた。

 かつて天下の王たちを舌先三寸で翻弄し、巨大な国々をオセロのようにひっくり返してきた稀代のトリックスター。しかし、彼には蘇秦のような「世界を縛る」という執念もなく、ただ人間の滑稽な欲望を暴き出して嗤うことだけが目的であった。

 彼が権力の座から降りた時、彼の手元には何も残っていなかった。

 

 魏の国でひっそりと宰相の座を与えられたものの、すでに彼の肉体は長年の遊説と過労、そして拷問の後遺症によって限界を迎えていた。

 死の床に伏した張儀は、痩せこけた腕で虚空を掴むように伸ばし、最期を看取る妻に向かって、ヒューヒューと鳴る喉からかすれた声を出した。

 

「……おい。俺の口の中を見てくれ」

 

 妻は、涙を流しながら、かつて楚で半殺しにされた時と同じように、夫の口の中を覗き込んだ。

 

「……舌は、まだちゃんとあります。貴方の、立派な舌です……」

 

 その答えを聞いて、張儀は満足そうに、口の端を微かに歪めて嗤った。

 

「そうか。……なら、俺の勝ちだ。剣で天下を取ろうとした奴らは、皆、剣を折られて死んでいった。だが俺は、この舌一つで、あいつらの築き上げたものを全部ぶっ壊してやった。……あぁ、本当に……人間ってのは、馬鹿で、愛おしい……」

 

 張儀の瞳が、静かに閉じられる。

 彼の魂に宿っていた『螣蛇(とうだ)』と『鷙鳥(しちょう)』の概念が霧散し、風のように大気へと溶け込んでいく。

 天下を最も混沌とさせ、そして誰よりも人間の本質(欲望)を理解していた男は、最期まで己の舌の力を誇りながら、泥のように眠りについた。

 

 かくして、第二世代の天才たち――合従連衡の双竜は、共に歴史の表舞台から姿を消した。

 だが、彼らが中原に撒き散らした『人間の業』という名の呪いは、彼らの死後も決して消えることはなかった。

 相互不信と終わりのない謀略。誰も誰も信じられない、永遠に続く泥沼の生存競争。六国は互いの足を引っ張り合いながら緩やかに衰退し、西の巨大な怪物・秦だけが、着実にその質量を増していく。

 

 それが、彼ら縦横家が命を削って構築した、戦国時代という名の『盤面の完成形』であった。

 

     * * *

 

「……終わったか」

 

 世界から隔絶された深い霧の底、鬼谷(きこく)。

 時の流れから完全に切り離された庵の縁側で、青年の姿をした歴史の調律者・鬼谷子は、静かに宙に浮かぶ思想盤(盤面)を見上げていた。

 

 盤面上で激しく明滅し、中原の大地を二つの概念で真っ二つに引き裂いていた蘇秦と張儀が、今、完全にその輝きを失い、消滅した。

 鬼谷子の背中に刻まれた『思想鍵紋(しそうけんもん)』が、第二世代の観測終了のログを記録し、青白い発光を静かに収束させていく。

 

『……シャァ……(主よ、第二世代の調律が完了したようですね)』

 

 足元でとぐろを巻く巨大な白蛇が、黄金の瞳を細めて問いかけた。

 鬼谷子は、縁側に置かれた冷めた茶を一口すすり、静かに頷いた。

 

「ああ。第一世代が大地に血を吸わせ、第二世代が人間の精神に呪いを刻み込んだ。彼らのおかげで、この中華というテクスチャから、神代の神秘はほぼ完全に剥がれ落ちた。……人間はもはや、神に祈るのではなく、自らの嘘と欲望、そして論理によって世界を回すようになったのだ」

 

 鬼谷子の漆黒の瞳には、感情の揺れはない。

 だが、その眼差しには、人間という脆く愚かな生き物が、自らの限界を超えて歴史を紡ぎ出す姿に対する、微かな畏敬の念が宿っていた。

 

「蘇秦は、己の死体すらもシステムに組み込み、完璧な論理の檻の中で死んだ。張儀は、人間の欲望という矛盾を嗤いながら、最期まで己の舌を信じて死んだ。……全く、どちらも救いようのないほどの阿呆であり、そして、極上の天才であった」

 

『……しかし、主よ。彼らが構築したこの盤面は、あまりにも淀んでいます。互いに疑心暗鬼に陥り、永遠に足の引っ張り合いを続ける六国。このままでは、中華の歴史は泥沼の中で完全に停滞し、未来への推進力を失うのではありませんか?』

 

 白蛇の指摘は、極めて正確であった。

 戦国時代というシステムは、人間の業を煮詰めるための坩堝(るつぼ)としては完璧に機能した。しかし、永遠に続く争いは、いずれ大地の生命力を枯渇させ、歴史そのものを腐らせてしまう。

 「停滞」は、人理を管理するシステムにとって、最も忌むべきバグ(剪定事象)の要因である。

 

「お前の言う通りだ、シロ。混沌は十分に行き渡った。ならば、次はこの無秩序な盤面を、たった一つの絶対的な力で平定し、統合する『特異点』が必要になる」

 

 鬼谷子は、立ち上がり、西の空――強国・秦がある方角を、鋭い視線で見据えた。

 

「人間の多様性と嘘をすべて許容した結果が今の泥沼だ。ならば、次はそれらをすべて否定し、同じ度量衡、同じ文字、同じ法、そして同じ思想の下に、数千万の人間を一つの機械(パーツ)として強引に統率する、巨大な『怪物』を産み落とさねばならない」

 

 鬼谷子の背中で、休眠に入ろうとしていた思想鍵紋が、再びバチバチと不吉な音を立てて活性化し始めた。

 

「……血の繋がりも、言葉の繋がりも信じられないのなら。圧倒的な『暴力と不死性』によって、この中華の大地を一つの鉄の塊(帝国)に圧縮する。……いずれ、秦という土壌から、人間の枠を超越した『絶対的な真人(皇帝)』が誕生するだろう」

 

『……それは、諸刃の剣では? 完璧すぎる統一は、それ自体が歴史の終わり(停滞)を意味します』

 

「分かっている。だからこそ、僕は次なる仕込みを始めなければならない。絶対の秩序の中に、微かな人間という名のバグを忍ばせるための準備を」

 

 鬼谷子は、静かに踵を返し、庵の奥へと歩き出した。

 彼の頭の中には、すでに次の世代――いや、神代と人理の狭間を決定的に断ち切るための、さらに途方もない第三の盤面が描かれ始めていた。

 

 不老不死の霊薬を求める、一人の純真な少女。

 そして、帝国の技術基盤に密かに組み込むべき、人型多脚式機動兵器の設計図。

 歴史の調律者たる鬼谷子の仕事に、終わりはない。

 

「……さあ、少し忙しくなるぞ。中原の血生臭いドラマはこれくらいにして、次は、この中華のテクスチャを物理的に統合する『機械仕掛けの神』の設計に取り掛かるとしよう」

 

 深い霧が、再び鬼谷の庵をすっぽりと覆い隠していく。

 第一世代、第二世代と、数多の天才たちの命を喰らって熟成された戦国の盤面は、いよいよその終焉の時――『始皇帝』の降臨という、最大規模の歴史の転換点に向けて、不気味な産声を上げ始めていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。