縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第九節:庵に迷い込んだ少女(1/4)――結界の綻びと、星を宿した瞳

 

 神代の残滓が色濃く残る魔境、鬼谷(きこく)。

 第一世代の兵法家たちが大地に血を吸わせ、第二世代の縦横家たちが人間の精神に拭い去れない呪いを刻み込んでから、さらに数十年の歳月が流れ去ろうとしていた。

 

 中原の大地は、果てしない戦乱の泥沼の底で、一つの巨大な特異点を生み出すための胎動を始めていた。

 西の辺境に位置する強国・秦(しん)。商鞅の変法により、法と軍事という冷徹なシステムで国家を機械化させたこの怪物は、歴代の王たちの野望を養分としながら、いよいよ中華全土を物理的に呑み込むための巨大な顎(あぎと)を完成させつつあったのである。

 

「……中原の龍脈が、ひどく淀んでいるな。人間への呪いが多すぎる」

 

 鬼谷の庵の縁側で、時の流れから完全に切り離された青年――歴史の調律者たる鬼谷子(きこくし)は、宙に浮かぶ盤を見下ろし静かに呟いた。

 彼自身の容姿は、数十年前に孫臏や龐涓を迎え入れたあの日の朝から、一分一秒たりとも変化していない。雪のように白い肌、俗世の穢れを一切知らない漆黒の双眸。人理を定着させるための思想盤の端末そのものであった。

 

 これより数年後、秦は中華を統一し、絶対的な皇帝という概念を生み出すことになる。

 だが、その強引な統一は、大地のテクスチャに莫大な負荷をかける。鬼谷子は、来たるべき帝国の技術基盤に干渉し、歴史のバグを調整するための次なる盤面の準備に取り掛からねばならなかった。

 そのためにはまず、この鬼谷を基点として大陸全土に張り巡らせている龍脈のネットワークを、一度大規模に洗浄する必要があったのである。

 

「シロ。少しの間、谷を覆う概念結界の出力を落とす。大地の『気』の風通しを良くし、溜まった呪いを外へ排出しなければならない」

 

『……シャァ……(承知いたしました、主よ。ですが、結界を緩めれば、外界の獣や、運の悪い人間が迷い込むやもしれませんが)』

 

 足元でまどろむ巨大な白蛇が、黄金の瞳を開いて懸念を伝えた。

 鬼谷の結界は、空間を捻じ曲げ、侵入者の方向感覚を狂わせる「迷いの森」としての機能を持っている。それを緩めるということは、一時的に物理的な山道とこの庵が、直接繋がってしまうことを意味していた。

 

「構わない。数日の間だけだ。それに、今の時代、わざわざこんな辺境の深い山奥まで足を踏み入れるような物好きな人間などいやしないさ」

 

 鬼谷子は淡々とそう答えると、背中に刻まれた『思想鍵紋(しそうけんもん)』を青白く発光させ、谷を覆う結界の術式を一時的に解除・緩和した。

 その瞬間、年中立ち込めていた鬼谷の濃密な霧が、嘘のように薄れ、木漏れ日が谷の底へと差し込み始めた。

 

 ――しかし、鬼谷子の演算には、ほんのわずかな「人間の気まぐれ」という要素が欠落していた。

 

 結界が緩められてから二日後の、昼下がり。

 鬼谷の山麓にある小さな村から、一人の幼い少女が、薬草を摘むための小さな竹籠を背負って山へと入ってきていた。

 

 少女の名は、徐福(じょふく)。

 年齢はまだ七歳になったばかり。髪を頭の左右で二つのお団子に結い、泥だらけの麻の服を着た、どこにでもいるような田舎の子供であった。

 ただ一つ違っていたのは、彼女が生まれながらにして、風の流れや水のせせらぎ――すなわち大自然の気の流れを、無意識のうちに視覚として捉えることができる、特異な知覚の持ち主であったということだ。

 

「あれ……? 今日のお山は、なんだか変だぞ」

 

 幼い徐福は、山の斜面で薬草を探しながら、不思議そうに小首を傾げた。

 いつもなら、この山の中腹から上は、どんよりとした重い空気が漂っていて、村の大人たちからも「絶対に近づいてはいけない迷いの森だ」と厳しく教えられていた。

 しかし今日の森は、いつもと違う。

 まるで、目に見えない綺麗な「光の川」が、山の奥からサラサラと流れ出してきているように見えたのだ。それは、鬼谷子が結界を緩めたことによって漏れ出た、純度の高い神代の真エーテルの残滓であった。

 

「わあ……キラキラしてる! あっちに、何か綺麗なものがあるのかな?」

 

 好奇心旺盛な年頃である。

 徐福は、大人たちの言いつけなどすっかり忘れ、その綺麗な光の川を辿るようにして、トテトテと頼りない足取りで山の奥へ奥へと進んでいった。

 本来であれば、方向感覚を狂わせる空間の歪みによって元の場所へ戻されるはずだったが、結界が緩和されていたことに加え、彼女自身の持つ「自然の気に逆らわず、流れに同化する」という特異な才能が、無意識のうちに森の防衛機構をすり抜けてしまっていた。

 

 獣道すらない深い森を抜け、奇妙な形をした岩場を越え。

 やがて、小さな徐福の目の前で、視界がぱあっと開けた。

 

「……あ」

 

 そこは、外界の荒れた戦国の世とは完全に隔絶された、仙境のような美しい庭であった。

 季節外れの桃の花が咲き乱れ、清らかな泉が湧き出し、見たこともないような巨大で真っ白な蛇が、日向ぼっこをするようにとぐろを巻いて眠っている。

 そして。

 その庭の奥、静かな庵の縁側に。

 

「――――」

 

 お茶をすすりながら、竹簡を読んでいた一人の青年の姿があった。

 徐福は、背負っていた竹籠をコロンと地面に落としたことにも気づかず、ただその青年の姿に釘付けになった。

 

 幼い彼女のボキャブラリーでは、その存在を正確に表現する言葉を知らない。

 雪のように真っ白で、透き通るような肌。光を織り込んだような美しい黒髪。そして、夜空の星をすべて集めたかのような、深く、静かで、吸い込まれそうな漆黒の瞳。

 村にいる泥だらけの大人たちとは、根本的に違う。違う生き物だ。

 

(……お、お星さまが、落ちてきたのかな……?)

 

 徐福は、両手をぽふっと自分の頬に当て、その瞳をこれ以上ないほどキラキラと輝かせた。

 神代の魔境に迷い込んだという恐怖も、巨大な白蛇がすぐそばにいるという警戒心も、完全にどこかへ吹き飛んでいた。

 ただただ、目の前にいる青年の『あまりにも人間離れした、規格外の美貌』に、幼い心臓を射抜かれてしまったのである。

 

 一方、縁側に座っていた鬼谷子は、侵入者の気配に気づき、竹簡から静かに視線を上げた。

 

「……人間の子、か」

 

 鬼谷子の漆黒の瞳が、僅かに細められる。

 まさか、結界を緩めた数日の間に、これほど幼い子供が鬼谷の深奥まで単独で辿り着くとは、彼の演算システムにもないイレギュラーであった。

 

「……ねえねえ、お兄さん!」

 

 徐福は、恐れるどころか、目をキラキラと輝かせながらトテトテと縁側へと駆け寄ってきた。

 

「お兄さん、すっごく綺麗! 妖精さん? それとも、お星さまの神様?」

 

「……神ではない。僕はただの人に過ぎない」

 

 感情を持たない鬼谷子は、顔色一つ変えずに淡々と答えたが、徐福はその冷たい声すらも「かっこいい!」と解釈してしまい、さらに目を輝かせて縁側の前にしゃがみ込んだ。

 

「妖精さんのお兄さん、ここで一人で何してるの? お茶、美味しい? 私も飲んでいい?」

 

 あまりの無邪気さと、警戒心のなさに、足元で眠っていた白蛇のシロちゃんすらも呆れたように鎌首をもたげた。

 しかし、鬼谷子は彼女を邪険に追い払うことはしなかった。彼は静かに背中の『思想鍵紋』を起動させ、目の前で目を輝かせている幼い少女の運命力と、魂の形をスキャンし始めたのだ。

 

(……なるほど。空間の歪みをすり抜けてきた理由はこれか)

 

 鬼谷子の目には、徐福の肉体を流れる魔術回路――東洋における経絡(けいらく)と気の流れが、明確な光の図形として視覚化されていた。

 彼女の才能は、かつての孫臏が持っていたような「盤面を支配し、事象の因果を書き換える」といった、神を震え上がらせるような超絶的なものではない。また、蘇秦や張儀のような、他者の精神を毒牙で食い破るような破壊的なものでもなかった。

 

 彼女の魂に宿っていたのは、極めて繊細で、精密な『調和と循環』の才能であった。

 自然の気と自らの気を同調させ、植物の生命力を抽出し、肉体という小宇宙の法則を管理・調整する力。すなわち、のちに道術あるいは仙術と呼ばれることになる、不老不死や霊薬精製、肉体改造へと繋がる特化型の才能である。

 軍師や弁論家としては二流で終わるだろう。しかし、「生命を研究し、霊薬を作り出す研究者」としては、間違いなく時代に名を残すレベルの優良な素材であった。

 

(……悪くない。秦の帝国が完成した暁には、皇帝の不老不死への妄執を煽り、歴史の楔を打ち込むための道士の駒が必要になる。彼女の適性は、その役割に完璧に合致している)

 

 鬼谷子は、瞬時に彼女の将来の利用価値(ポテンシャル)を計算し尽くした。

 だが。

 彼はスキャンを終えると、静かに思想鍵紋の光を収束させ、小さく首を横に振った。

 

(しかし、いかんせん幼すぎる)

 

 彼が教える思想魔術や本経陰符七術は、人間の精神を一度限界まで破壊し、獣やシステムへと再構築する、発狂と死が隣り合わせの地獄の修練である。

 第一世代の龐涓たちや、第二世代の蘇秦たちは、すでに大人であり、己の野心と引き換えにその地獄に耐えうるだけの自我の器を持っていた。

 しかし、目の前にいる七歳の少女にそれを施せば、一日と持たずに精神が崩壊し、廃人となるか肉体が破裂して死ぬことは明白であった。

 

「……少女よ。君の名前は何という」

 

「じょふく! 徐福だよ、妖精のお兄さん!」

 

「そうか。徐福。君は少し、山に深く入りすぎたようだ。ここは人間の子供が遊びに来ていい場所ではない。すぐに村へ帰りなさい」

 

 鬼谷子は、一切の感情を交えずに冷たく言い放った。

 しかし、徐福はぷくっと頬を膨らませて首を横に振った。

 

「えーっ! やだ! もっと妖精のお兄さんとお話ししたい! お兄さんのお顔、ずっと見てたいもん!」

 

 駄々をこねる徐福に対し、鬼谷子は微かなため息をつくと、指先で軽く空間を弾いた。

 パチン、という音と共に、微弱な「催眠の気」を含んだ風が徐福の顔を撫でる。

 

「ふわぁ……あれ……? なんだか、すっごく、眠く……」

 

 徐福の目がトロンとなり、そのままこてんと縁側の下の草地へと倒れ込み、スヤスヤと寝息を立て始めた。

 鬼谷子は、眠る彼女の顔を冷徹に見下ろしながら、足元の白蛇に指示を出した。

 

「シロ。この子を山の麓の、村の近くまで運んでやってくれ。怪我をさせないようにな」

 

『……シャァ(畏まりました。しかし、よろしいのですか? なかなかの素質を持った雛鳥のようでしたが)』

 

「今はまだ器が小さすぎる。下手に僕の魔術に触れさせれば、器ごと砕け散ってしまう。……それに、次に僕の盤面に必要なのは、戦乱を生き抜く武ではなく、歴史の停滞を招く不死という幻想を扱う者だ。彼女がもう少し成長し、世界の理屈を理解できる年齢になるまでは、放っておくのが最適解だ」

 

 白蛇は巨大な尻尾を器用に使って、眠る徐福と彼女の竹籠をそっと背中に乗せると、音もなく霧の中へと滑るように消えていった。

 

 その背中を見送った後、鬼谷子は再び縁側に座り直した。

 ほんのわずかな結界の綻びから、未来の重要な駒が自ら転がり込んできたという事実。システムとしては好都合な偶然ではあるが、これ以上イレギュラーな侵入者が増えるのは、盤面の管理においてノイズとなる。

 

「……洗浄はこれで終了とするか。これ以上、勝手に工房に入られてはたまらないからな」

 

 鬼谷子は立ち上がり、自らの背の思想鍵紋を最大出力で稼働させた。

 青白い炎のような魔力が鬼谷全体を包み込む。

 彼は、今まで以上に念入りに、そして幾重にも複雑な空間のねじれと概念的な防壁を重ね掛けし、鬼谷の結界を再構築した。八卦の陣、五行の迷宮、そして認識阻害の呪い。

 これで、いかに気の流れに敏感な者であろうと、あるいは大軍を率いた王であろうと、二度とこの鬼谷の深奥に辿り着くことはできない。彼自身が「招き入れる」と決めた者以外は。

 

「帰りの道順は、彼女の脳から薄れさせておいた。夢だと思って忘れるのが、彼女にとっても一番の幸せだろうさ」

 

 再び深くて濃い霧が、庵の周囲を完全に遮断する。

 歴史の調律者は、冷たい結界の中で、次なる時代の歯車が回る音を静かに待ち続けるのであった。

 

 だが。

 鬼谷子の「忘れるだろう」という演算は、人間の――特に、初恋にも似た強烈な執着心を抱いた少女の感情というものを、いささか甘く見積もりすぎていたのである。

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