縦横家の祖 鬼谷子 作:お腹ぽんぽん
鬼谷の結界は、完璧であるはずだった。
第一世代や第二世代の天才たちを迎え入れた後、鬼谷子によって再構築された八卦と五行の概念防壁は、常人の認識を完全に歪め、物理的な座標を無限のループへと陥らせる強固な迷宮として機能していた。
いかなる武将が軍隊を率いて山狩りをしようとも、どれほど優れた魔術師が大地の脈動を読もうとも、この森の奥底に座する庵へと辿り着くことは不可能である。歴史の調律者たる鬼谷子は、自らが意図して「招き入れる」者以外、決してこの領域への侵入を許さないシステムを構築したはずであった。
あの日、結界を緩和した数日の隙を突いて迷い込んできた幼い少女についても、完全に処理したはずだった。
記憶を霞ませ、ただの美しい夢として脳内に処理させる催眠の暗示。少女は村へ帰り、自分が少し山で迷って昼寝をしただけだと思い込み、やがて日々の農作業の中でその夢すらも忘却の彼方へと消え去る。それが、人間の脳という脆弱な記憶媒体が辿る、論理的で必然的な結末である。
――それから、七年の歳月が流れた。
鬼谷の庵は、今日も変わらぬ静寂に包まれていた。
縁側で竹簡を読み、天下の盤面の推移を観測していた鬼谷子の耳に、ふと、結界の境界線で「異音」が響いた。
ガサガサ、という下草を踏み分ける音。
空間を歪める防壁の術式が、何者かの侵入を拒絶しようと魔力を放っているにも関わらず、その侵入者はまるで「見えない糸」に引っ張られるように、迷宮の死角を縫って一直線にこちらへと向かってきている。
「……何事だ」
鬼谷子が漆黒の双眸を微かに細めた、その時である。
庵を囲む深い茂みが、バサァッ!と乱暴に掻き分けられた。
「ああっ! いたっ! やっぱりいたぁぁぁぁっ!!」
そこから転がり出るようにして姿を現したのは、泥だらけになり、服のあちこちを木の枝で引き裂かれた一人の少女であった。
年齢は十四、五歳ほど。頭の左右でお団子に結い上げた髪型には見覚えがある。
七年前、この庭に迷い込んできたあの幼い田舎娘――徐福であった。
彼女の全身には無数の擦り傷があり、靴の底はすり減り、足には血が滲んでいる。だが、その顔を泥だらけにしながらも、彼女の瞳は七年前と全く同じ、いや、それ以上に凄まじい熱量を伴って、縁側に座る鬼谷子の姿を一直線に射抜いていた。
「……徐福、か」
鬼谷子は、顔色一つ変えずに彼女の名を呼んだ。
彼の背中で思想鍵紋が淡く発光し、彼女がどのようにしてこの絶対の結界を突破してきたのかを瞬時に演算し、解析する。
その結果は、鬼谷子という冷徹な管理者にすら、微かな驚きを生じさせるものであった。
彼女は、結界の術式を理解して破ったわけではない。
ただ、七年間。毎日、毎日、飽きることなくこの山へ通い詰め、結界に弾き返され、迷い、傷つきながらも、自らの特異体質である気の流れを視覚化する才能をフル稼働させていたのだ。
彼女が頼りにしたのは、魔術の理論などではない。
あの日嗅いだ、鬼谷子の纏う『清浄な真エーテルの匂い』。それだけを道標とし、何千回、何万回と繰り返し、空間の歪みのわずかな隙間を感覚だけで見つけ出し、無理やりこじ開けて入ってきたのである。
「妖精のお兄さん! 妖精のお兄さんだよね!? 顔、全然変わってない! あああっ、やっぱりすっごく綺麗……!」
徐福は、足の痛みなど忘れたように縁側へと駆け寄り、バタンと地面に両手をついて、うっとりとした表情で鬼谷子の顔を見上げた。
七年間の苦労。常人ならとっくに発狂している迷いの森の徘徊。
それらを彼女に強いていた原動力は、天下を動かす野心でもなく、怨敵への復讐心でもなく。
ただ純粋な、超絶美形な男の顔をもう一度拝みたいという、執念深くも滑稽な美的執着であったのだ。
「……僕の催眠を、自らの執着心だけで上書きし、この結界の隙間を感覚のみで突破したか」
鬼谷子は、縁側から見下ろすようにして徐福を観察した。
孫臏のような、息をするように世界の因果を読み解く圧倒的な天才性はない。彼女の魔術回路の質も、演算処理能力も、第一世代や第二世代の化け物たちに比べれば、ごく「平均の少し上」程度のものでしかない。
だが、この異常なまでの執念と、大自然の気に自らを同調させる調和の才能は、ある種の特化型魔術においては強力な武器となる。
何より、七年の歳月を経て、彼女の肉体と精神の器は、あの幼かった頃よりも格段に成長し、魔術の負荷に耐えうるだけの強度を獲得していた。
(……ちょうど良い頃合いか。秦の帝国が完成した後の歴史の停滞を招くため、不老不死の概念を扱う道士の育成は必須のプロセスだ。彼女のこの異常な執着心は、厳しい修行を乗り越えるための十分な燃料となるだろう)
鬼谷子は、ゆっくりと立ち上がり、冷徹な声で徐福に告げた。
「徐福。君は、なぜこの危険な森へ入ってきた。僕に会って、どうするつもりだ」
「え? えへへ、だって妖精のお兄さんのお顔、ずっと見ていたかったから。村の男の人たちなんて、みんな泥っぽくて臭くて全然かっこよくないんだもん。私、お兄さんのそばにいたい!」
屈託のない、しかしある意味で極めて狂気的な回答である。
鬼谷子は小さく息を吐き、竹簡を置いた。
「ここは、顔の良い男を眺めるための見世物小屋ではない。僕のそばに居たいというのなら、君はただの村娘としての生を捨て、人間の理を外れるための地獄の苦痛に身を投じなければならない。……僕の弟子となり、道術を修める覚悟があるか」
「どうじゅつ? よく分かんないけど、お兄さんのそばにずっと居られるなら、なんでもやるよ! 私、根性だけはあるから!」
徐福は、これから自分がどれほどの地獄を味わうことになるのか全く理解していないまま、二つ返事で元気よく頷いた。
歴史の裏側で、秦の始皇帝を狂わせることになる最初の道士が、かくも軽い理由で誕生した瞬間であった。
――その日の午後から、鬼谷子の容赦のない指導が開始された。
「第一世代の兵法家は、大地の気を操り、外側の世界を陣形として作り変えた。第二世代の縦横家は、言葉によって他者の精神を掌握した。……だが、お前がこれから学ぶ道術は、そのどちらでもない」
鬼谷の庭の真ん中で、徐福は泥だらけの服を着たまま、結跏趺坐(けっかふざ)の姿勢で座らされていた。
鬼谷子は彼女の背後に立ち、その背中へ氷のように冷たい指先を当てた。
「道術とは、自らの肉体という小宇宙の法則を、外界の大自然の大宇宙と完全にリンクさせ、循環させるための魔術だ。人間の肉体には、五行の理が内包されている。肝は木、心は火、脾は土、肺は金、腎は水。これらの臓器に大気中の魔力を取り込み、己の生命力(気)を精製・変容させていく」
「ひゃんっ! お、お兄さんの指、冷たくて気持ちいい……」
「黙って集中しろ」
鬼谷子の指先から、微弱だが極めて高密度の魔力が、徐福の背中の魔術回路へと直接流し込まれた。
それは、未開発だった彼女の魔術回路を、強制的にこじ開け、拡張するための鍵であった。
「……ッ!? あ、あつっ……!?」
直前まで呑気に頬を緩めていた徐福の顔が、一瞬にして苦痛に歪んだ。
体内に異物が侵入し、血管の中を煮えたぎる鉛が駆け巡るような激痛。五臓六腑が内側から焼かれるような熱さ。
「これが吐納(とのう)の基礎だ。大気中の気を吸い込み、体内の穢れた気を吐き出す。ただの呼吸ではない。肺から取り込んだ魔力を、心臓の火で熱し、腎臓の水で冷却し、丹田(たんでん)へと落とし込んで圧縮する。……その循環の回路が一つでも狂えば、お前の血液は沸騰し、内臓が破裂して死ぬ」
「あ、がぁっ……ひぃっ、息が、できない……っ!」
徐福は前のめりに倒れそうになったが、鬼谷子の見えない魔力の壁がそれを許さず、無理やり姿勢を正された。
彼女の才能は「気の流れを視る」ことには長けていたが、自らの肉体を改造し、巨大な魔力炉心として稼働させることには全く慣れていなかった。
才能自体が「並より少し上」であるため、孫臏のように一度教えられただけで完璧に術式を理解し、最適化することなど不可能である。彼女は、自らの血肉を削り、痛みにのたうち回りながら、強引に体の内側を組み替えていくしかなかった。
「意識を手放すな。循環を止めれば死ぬぞ。体内の陰陽のバランスを保て。火の気が強すぎる。腎臓の水を回して冷却しろ」
鬼谷子の指導は、一切の容赦がない。
彼は徐福を一人の少女としてではなく、秦の歴史を歪めるための部品として見ており、その調整を冷徹に行っているに過ぎなかった。
初日の修行は、夜が明けるまで続いた。
気を失いそうになるたびに、鬼谷子の鋭い魔力が経絡を刺激し、強制的に意識を覚醒させられる。
翌朝、修行が終わった時、徐福は全身から尋常ではない量の汗と、体内の老廃物が混ざった黒い血を流し、泥のように地面へと崩れ落ちた。
「……今日はここまでだ。明日からはこれに加え、『辟谷(へきこく)』の行に入る。穀物を絶ち、大気の気のみで肉体を維持する術だ。……食事は三日に一度、木の実とわずかな水のみとする」
倒れ伏す徐福に冷たく言い渡し、鬼谷子は縁側へと戻っていった。
それからの日々は、徐福にとって文字通りの地獄であった。
毎日何十時間も座禅を組み、体内の気を循環させる。少しでも気が乱れれば激痛が走り、時には血を吐く。おまけに極度の空腹と栄養失調が彼女の体力を限界まで削っていく。
肉体的な苦痛と飢え。それは、兵法や弁論といった「外に向かう魔術」とは全く質の異なる、終わりのない自己との戦い、精神と肉体を極限まで研ぎ澄ませていく内丹術(ないたんじゅつ)の基礎修練であった。
「うぅ……お腹すいた……お肉食べたい……痛い……もう無理……」
数日後。
ボロボロになった徐福は、庭の隅で草を握りしめながら涙をこぼしていた。
才能が突出していない分、彼女が結果を出すには、他者の何倍もの努力と痛みを必要とする。
彼女を突き動かしていた「イケメンのそばにいたい」という不純で滑稽なモチベーションも、四六時中続く肉体改造の激痛と、鬼谷子の人間味の欠片もない冷酷な扱いの前に、急激に摩耗し始めていた。
(お兄さん……顔は最高だけど……すっごく冷たいし、お腹空いたし、死にそうだよぉ……。私、なんでこんなことしてるんだろう……)
徐福の心の中に、限界の兆しが見え始めていた。
超絶美形な妖精のお兄さんは、ただひたすらに厳しく、痛いことしかしない。
普通の少女であれば、とっくに逃げ出しているか、精神を病んで発狂しているレベルのストレスである。彼女の持ち前の根性も、いよいよ底を尽きようとしていた。
縁側からその様子を観測していた鬼谷子は、思想鍵紋の演算結果を見て、小さく目を細めた。
(……部品の耐久値が限界を迎えつつあるな。このまま負荷をかけ続ければ、精神の基盤が崩壊し、使い物にならなくなる)
管理者としての冷静な判断。
第一世代の龐涓は、己の異常な嫉妬と野心で勝手に限界を超えていった。第二世代の蘇秦は、自己への復讐心を燃料として自らを解体した。
だが、この徐福という少女の燃料は、あくまで「好意」と「執着」である。痛みに耐えるための自己破壊的な衝動を持ち合わせていない凡人を、このままのペースで魔術師に仕立て上げるのは、論理的に非効率であると鬼谷子は悟った。
(育成のアルゴリズムを変更する必要がある。彼女のモチベーションを回復させ、効率的に魔術回路を定着させるためには……)
鬼谷子は、過去の人間たちの観察データから、ある一つの「教育方針の変更」を導き出した。
それは、彼の冷酷なシステムの振る舞いとは対極にある、極めて人間臭く、そして徐福のチョロい性格には絶大な効果を発揮するアプローチであった。
庭の隅で泣きべそをかいている徐福の背後に、鬼谷子が音もなく近づく。
「……徐福」
「ひゃいっ!? ご、ごめんなさい、さぼってないです! 今すぐ気の循環やりますから、燃やさないでぇ!」
ビクビクと怯えて縮こまる徐福に対し。
鬼谷子は、そっと手を伸ばし、彼女の泥だらけの頭の上に、自らの白く美しい手をポン、と置いた。
「……え?」
徐福が驚いて見上げると、そこには、普段の冷徹な仮面の下から、ほんのわずかだけ、春の陽だまりのように柔らかい(ようにプログラムされた)微笑みを浮かべた鬼谷子の姿があった。
「よく頑張っているな。君の経絡の定着速度は、僕の予想を超えている。その痛みは、君が着実に道術の理へと近づいている証拠だ。……君は、とても優秀な弟子だよ」
ポンポン、と。
静かに、優しく、頭を撫でられる。
「――――ッ!!!」
その瞬間。
徐福の脳内で、飢えも、激痛も、すべてのマイナス感情が、致死量を超えるドーパミンの奔流によって一瞬にして彼方へと吹き飛ばされた。
(お、おおおおおお兄さんが、笑った!? 頭撫でてくれた!? えっ、私、褒められてる!?)
徐福の顔が、一瞬にしてゆでダコのように真っ赤に染まり、頭頂部からプシューッと幻の湯気が立ち上る。
限界を迎えていたはずの彼女の魔術回路が、凄まじい勢いで脈動を再開し、周囲のエーテルを猛烈な勢いで吸い上げ始めた。
単純。あまりにも単純なシステムの回復。
「あ、あはははは! もー、お兄さんがそこまで言うなら仕方ないなぁ! 私、もっと頑張っちゃうよ! 気の循環なんて余裕余裕! 徹夜でもなんでもやってやるーっ!」
先ほどまでの涙はどこへやら、徐福はガバッと立ち上がり、鼻息を荒くして再び結跏趺坐の姿勢を取り、猛烈な勢いで『吐納』の修練を再開したのである。
(……なるほど。この個体は褒めて伸ばすのが最適解というわけか。人間の感情メカニズムとは、極めて非論理的で、扱いやすい)
鬼谷子は、再び無表情に戻りながら、内心で演算結果の正しさを確認していた。
スパルタから、アメとムチへの見事なシフトチェンジ。
ここから先、徐福は鬼谷子のこの「計算し尽くされた極上の褒め言葉と頭撫で」を報酬として、自らの血肉を削る地獄の道術修行を、文字通り死に物狂いで乗り越えていくこととなる。
それは、歴史の調律者が初めて経験する、あまりにもドタバタで、少しだけコミカルな師弟関係の始まりであった。