縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第九節:庵に迷い込んだ少女(3/4)――アメとムチの錬丹術、チョロすぎる天才

 

 鬼谷の庵における徐福の修行は、第一世代の孫臏たちや第二世代の蘇秦たちとは、根本的に異なる性質を持っていた。

 

 兵法や縦横の術が、他者を打ち負かし、世界を物理的・概念的に切り取るための外に向かう牙であるとすれば。徐福に与えられた道術あるいは仙術の修練は、ひたすらに己の肉体と魂という小宇宙を掘り下げ、大自然の法則と同化していくための内に向かう螺旋であった。

 大気中に偏在する魔力を取り込み、五臓六腑を魔力炉心として循環させ、気の性質を変換する『内丹術(ないたんじゅつ)』。

 そして、その体内で精製した特殊な魔力を触媒とし、薬草や鉱物を煮詰めて超常の効能を持つ霊薬を創り出す『外丹術(がいたんじゅつ)』。

 

 それらの理論を体得し、実践することは、文字通り「人間という生物の枠組みを強引に作り変える」行為に他ならない。

 当然のことながら、その修練に伴う肉体的な苦痛と精神的な負荷は、筆舌に尽くしがたいものであった。

 

「……あぁぁぁぁぁぁっ! もう無理! 絶対むりぃぃぃぃっ!!」

 

 ある日の午後。

 鬼谷の庭の片隅で、巨大な青銅の鼎(かなえ)の前に座らされていた徐福は、ついに盛大な悲鳴を上げてその場にゴロンと寝転がった。

 

「火の気を保てと言ったはずだ。丹砂(たんさ)の抽出は、あと三日で終わる」

 

 縁側から、竹簡から目を離すことすらなく、鬼谷子が冷たく言い放つ。

 徐福が現在課せられているのは、水銀の原料となる赤い鉱物・丹砂から、不純物を取り除いて純粋な概念としての不死の気を抽出するという、極めて高度で繊細な外丹術の基礎訓練であった。

 しかし、その条件が異常である。火を使わず、徐福自身の体内から放出される心火の気(魔力による熱)のみで、鼎の温度を七十二時間、一秒の狂いもなく一定に保ち続けなければならないのだ。

 

「三日!? あと三日もこのまま!? 冗談じゃないよ、師匠! 私、もう二日も寝てないし、お腹ぺっこぺこだし、足は痺れて感覚ないし、魔力も空っぽだよぉ!」

 

 徐福は、泥だらけの地面の上で手足をバタバタとさせて、盛大に駄々をこね始めた。

 

「これ以上やったら私、絶対に死んじゃう! ミイラになっちゃう! ていうか、師匠のお顔を眺めるために弟子になったのに、師匠ずっと竹簡ばっかり読んでて全然こっち見てくれないじゃん! 詐欺だ! ブラックだ! 村に帰って甘いお饅頭たべたいぃぃぃっ!!」

 

 涙と鼻水を垂らし流し、炭の煤(すす)で真っ黒になった顔を地面に擦り付けながら泣き叫ぶ。

 かつての龐涓や蘇秦であれば、己のプライドと野心のために、血反吐を吐いてでも耐え抜いたであろう苦境。しかし、徐福はただの村娘である。天下を獲る野望もなければ、誰かを見返してやりたいという復讐心もない。

 彼女の初期衝動であった「超絶美形な妖精のお兄さんのそばにいたい」という不純な動機は、七十二時間の不眠不休の魔力放出という物理的限界の前に、あっさりと崩壊してしまったのである。

 

 鼎の下から火の気が失われ、抽出中の丹砂がブクブクと不吉な音を立てて黒く変色し始める。

 このままでは、鼎の中の気が暴走し、爆発してしまう。

 

 その時。

 縁側に座っていた鬼谷子の脳内で、冷徹な演算処理が行われていた。

 

(徐福の精神耐久値が臨界点を突破。これ以上の強制的な負荷は、魔術回路の自己崩壊を招く。……先日導き出した、報酬の付与をフェーズ2へと移行し、再起動を図る)

 

 歴史の調律者たる彼は、静かに竹簡を置き、地面で泣き喚いている徐福のそばへと音もなく歩み寄った。

 そして、そのまま彼女の目の前で、ゆっくりと膝をついた。

 

「……え?」

 

 暴れていた徐福の動きが、ピタリと止まる。

 目の前に、信じられないほど端正で、透き通るようなお兄さんの顔が近づいてきたからだ。

 

 鬼谷子は、自らの白く細い指先を伸ばし、徐福の顔にこびりついた炭の煤を、壊れ物を扱うようにそっと、優しく拭い取った。

 

「……無理をさせて、すまなかったな」

 

「へ……?」

 

 感情の起伏など一切存在しないはずのその声に、システムによる極めて精密な「哀愁」と「優しさ」のチューニングが施されていた。

 

「君の言う通りだ。まだ年若い君に、神代の術士ですら音を上げるような苛烈な修練を課すなど、僕が間違っていた。……だが、聞いてくれ、徐福」

 

 鬼谷子は、漆黒の瞳で、徐福の目を真っ直ぐに見つめた。

 

「この丹砂の抽出は、極めて純度の高い自然との調和の気を持つ者にしか行えない。第一世代の天才たちにも、これは不可能だった。……この世界で、この霊薬を精製できる才能を持っているのは、君だけなんだ」

 

「わ、私、だけ……?」

 

「ああ。君のその特異な才能を見込んで、僕はつい焦ってしまったようだ。……君がここで倒れてしまっては、僕の長年の夢も潰えてしまう。だが、君の命には代えられない。この鼎は僕が処理するから、君はもう休――」

 

「やりますっっっっっ!!!!!!」

 

 鬼谷子の言葉を遮るようにして、徐福が物凄い勢いで跳ね起きた。

 

 先ほどまでの疲労困憊と涙は完全にどこかへ消え去り、彼女の瞳孔はバキバキに開き、頭頂部からはシュウゥゥゥッと物理的な湯気が噴き出していた。

 彼女の脳内麻薬の分泌量は、この瞬間、人間の致死量すら超えるほどの異常数値を叩き出していた。

 

(し、師匠が!? 私を頼りにしてる!? 私だけの才能!? ひゃあああああっ、私、師匠の特別なオンリーワンだったの!? ていうか顔ちかっ! 指先つめたくて気持ちいいっ! 好き!!)

 

「師匠、休むなんてとんでもないです! 私、全然まだまだいけます! 三日でも四日でも、心火の気を出しまくって見せますから! 師匠の夢は、私が絶対に叶えてみせます!!」

 

 鼻息をフンスと荒くして、徐福は再び鼎の前に座り直し、先ほどよりもさらに純度が高く、熱量に満ちた心火の気を放出し始めた。

 黒く濁りかけていた丹砂が、彼女の凄まじい魔力によって一瞬にして安定を取り戻し、透き通るような赤い輝きを取り戻していく。

 

 鬼谷子は、その様子を横目で見ながら、ゆっくりと立ち上がり、縁側へと戻っていった。

 

(……見事な回復力だ。肉体的な疲労限界すらも、精神的な「自己重要感の充足」によって強制的に上書きし、魔力炉心の出力を120%まで引き上げている。……やはりこの個体に対する『褒めて伸ばす』方針は、極めて有用な最適解と言える)

 

 こうして、鬼谷子による「完璧に計算し尽くされた褒め言葉」と、徐福の「チョロすぎる乙女心」という、歴史上最も奇妙で噛み合わない師弟のサイクルが完成したのである。

 

 徐福の修行の毎日は、概ねこのパターンの繰り返しであった。

 

 高度な魔術理論や、肉体を苛め抜く修行に、徐福が音を上げて泣き言を言う。

 ↓

 鬼谷子が、絶妙なタイミングで「頭を撫でる」「微笑む」「特別扱いする言葉をかける」などの報酬を与える。

 ↓

 徐福の脳内がピンク色に染まり、やる気が大爆発して常人離れした成果を出す。

 

「師匠! 五行の相克(そうこく)を利用した『水』の気の圧縮、難しすぎてできないよぉ!」

「……君の気の流れは、小川のように清らかで美しい。君なら、必ず大河を御することができると信じているよ」

「大河ぁぁぁっ!? 任せてください、師匠のために海でも何でも圧縮してみせますぅぅっ!!」

 

「師匠、符籙(ふろく)の術式、細かすぎて目がチカチカする……もう筆を持ちたくない……」

「……君の書く符の筆致は、神代の神獣の爪痕に似て、非常に芸術的だ。僕は君の書いたこの符を、大切に持っておきたい」

「師匠のお守りぃぃぃっ!? 分かりました、徹夜で千枚書いてお部屋の壁にびっしり貼り付けておきますねっ!!」

 

 鬼谷子にとっては、ただの「部品のメンテナンスと稼働率の調整」に過ぎない。

 しかし、徐福の目には、それが「厳しくも優しい師匠との、愛と絆を深める甘酸っぱい青春の日々」として完全に誤変換されていた。

 彼女は、自分が歴史を狂わせるための恐るべきシステムの一環として育てられていることなど微塵も疑わず、ただ師匠に褒められるためだけに、己の限界を次々と突破していった。

 

 ――そして、数年の歳月が流れた。

 

 すっかり少女から若い女性へと成長した徐福は、鬼谷の庵において、もはやただの村娘とは呼べないほどの強大な道士としての実力を身につけていた。

 

 大気中の魔力を自在に操り、風を呼び、火を放つ。

 紙の札に魔力を込めて放つ『符籙(ふろく)』の術は百発百中の精度を誇り、五臓六腑の気を循環させる内丹術によって、彼女の肉体は常人の数倍の身体能力と自己治癒力を獲得していた。

 そして何より、彼女の最大の才能である外丹術の技術は、歴史上のいかなる魔術師も到達したことのない神域へと足を踏み入れつつあった。

 

「ふふーん! 師匠、見て見て!」

 

 ある晴れた日。

 徐福は、自分が精製したばかりの丸薬(丹薬)を木の皿に乗せ、得意げな顔で縁側の鬼谷子に見せびらかしに来た。

 その丸薬からは、金色の微かな光が漏れ出し、周囲の枯れた草花が、その気にあてられただけで瞬時に青々とした生命力を取り戻していくという、異常な現象を引き起こしていた。

 

「……『小還丹(しょうかんたん)』か。見事だ」

 

 鬼谷子が、珍しく感嘆の(ように調整された)声を漏らす。

 小還丹とは、瀕死の重傷者であっても、一粒飲めばたちまち傷が塞がり、失われた血液が再生するという伝説の霊薬である。これを弱冠十代の少女が、たった一人で精製してみせたのだ。

 

「えへへっ! 火の加減と、月の満ち欠けの気を抽出するタイミングを、私なりに少しアレンジしてみたの! これなら、師匠がもし怪我しても、すぐに治してあげられるからね!」

 

 徐福は、胸を張ってドヤ顔を決めた。

 彼女の特異な自然との調和の才能は、鬼谷子の教えを完全に吸収した上で、彼女独自の直感による改良を加えるレベルにまで到達していたのだ。

鬼谷子が怪我をするはずがないのだが、彼女はそのようなことは知る由もない。

 

「素晴らしい才能だ、徐福。君はすでに、道術の基礎理論を完全にマスターしたと言っていい。第一世代の孫臏にも劣らぬ、見事な適応力だ」

 

 鬼谷子は、ゆっくりと立ち上がり、彼女の頭をポンポンと撫でた。

 それは、計算された報酬の極致。

 徐福は、目を細めて猫のようにその感触にすり寄りながら、心の中で完全に『調子に乗って』いた。

 

(ふふんっ! どうよ、私! あの超絶クールな師匠が、ここまで私をベタ褒めしてる! 完全に私のこと認めてるし、これはもう弟子とかじゃなくて、パートナー……いや、奥さん候補として意識されちゃってるんじゃない!?)

 

 数年間の「褒めて伸ばす」修行の副作用。

 それは、徐福の中に、かつての田舎娘の素朴さを吹き飛ばすほどの、巨大な天狗の鼻を育成してしまったことである。

 

「私ってば、やっぱり超天才なんじゃない? 師匠の難しい理論も、なんとなく感覚でパパッとできちゃうし! このままいけば、不老不死の霊薬大還丹(だいかんたん)だって、そのうち簡単に作れちゃう気がするなぁ!」

 

 鼻高々に笑う徐福を見下ろしながら。

 鬼谷子の脳内システムは、静かに警告音を鳴らしていた。

 

(……感情の異常値を確認。『徐福』の自己評価が、実際の能力値を大幅に超過し、慢心の領域に達している。このまま増長させれば、魔術の深淵にある畏怖を忘れ、致命的な事故(自爆)を引き起こす可能性が高い)

 

アメを与えすぎた結果、部品が自らのスペックを過信し始めた。

ならば、どうするか。

管理者たる鬼谷子の導き出した答えは、極めて単純明快であった。

 肥大化した自我(天狗の鼻)は、物理的、あるいは概念的に、一度根元からへし折ってやらねばならない。

 

「……そうか。それほどまでに己の道術に自信があるというのなら」

 

 鬼谷子の瞳の奥で、数年ぶりに、あの冷酷な管理者としての漆黒の光が明滅した。

 それに気づかず、徐福は「うんうん!」と自信満々に頷いていた。

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