縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第九節:庵に迷い込んだ少女(4/4)――下山の罰

 

 深山幽谷に閉ざされた鬼谷(きこく)の庵。

 そこは、外界の血生臭い戦乱や、泥にまみれた人間の愛憎から完全に隔絶された、神代の清浄なる気が満ちる箱庭であった。

 

 その箱庭の中で、鬼谷子による巧妙な「飴と鞭」――もとい、緻密に計算された報酬の与え方によって育て上げられた徐福(じょふく)は、十代も半ばを過ぎる頃には、紛れもなく当代随一の道士としての霊格を備えるに至っていた。

 大気中の魔力を呼吸と共に取り込み、五臓六腑を巡らせて万物の理と結びつく内丹の法。そして、霊草や丹砂を煮詰め、この世ならざる効能を引き出す外丹の法。

 彼女の特異な才能である「自然との調和」は、鬼谷の淀みない空気の中で、まさに水を得た魚のように開花していたのである。

 

 しかし、才能が開花し、師からの称賛(と彼女が勘違いしている言葉)を浴び続けた結果。

 徐福の精神は、道術の極意に近づくにつれて研ぎ澄まされるどころか、ひどくふんわりとした、そして極めて巨大な「驕り」に包まれ始めていた。

 

(ふふふ……。私ってば、やっぱり百年に一人の超天才に違いないわ。師匠が教えようとしていた難解な木簡の術式も、感覚だけでスラスラ解けちゃったし。最近じゃ、師匠の顔を見ても緊張せずに、堂々とお話しできるようになったもんね!)

 

 あるうららかな春の日の午後。

 徐福は、庭の隅で一人、ニヤニヤと笑みを浮かべながら数枚の黄色い呪符(おふだ)を指先に挟んでいた。

 

(……よし。今日は一つ、師匠を驚かせてやろう。私がただの弟子じゃなくて、もう師匠と対等に肩を並べられるくらい立派な道士になったんだってことを、証明して見せるんだから!)

 

 彼女が思いついたのは、師に対する極めて無邪気で、そして恐れを知らぬ「いたずら」であった。

 徐福は、足音を完全に殺し、気配を周囲の草木と同化させる隠行の術を用いて、縁側で書物を読んでいる鬼谷子の背後へと忍び寄った。

 彼女の手にあるのは、彼女自身が編み出したオリジナルの呪符。対象を傷つけるものではないが、空間の気を一時的に縛り上げ、対象の身体をふわりと宙に浮かせて身動きを封じるという、高度な拘束の術式が組み込まれていた。

 

(えへへ……。師匠が宙に浮いて慌てるところ、ちょっと見てみたいかも。それで私が「どうですか、私の術は!」って助けてあげたら、きっと師匠も私の成長に目を丸くするはず!)

 

 すうっ、と息を吸い込み、徐福は自らの丹田から練り上げた純度の高い気を、呪符へと一気に流し込んだ。

 

「いっけーっ! 特製・捕縛陣!」

 

 徐福が元気な声と共に五枚の呪符を放つ。

 符は空中で生き物のように軌道を変え、鬼谷子の周囲の死角を取り囲むように展開された。そして、木、火、土、金、水の五行の気を結び合わせ、見えない光の檻となって鬼谷子の身体を包み込もうとした。

 発動の速度、気の練り込み具合、五行の相克を利用した結界の閉じ方。どれをとっても、第一世代の天才たちに勝るとも劣らない、見事な術の行使であった。

 

 ――しかし。

 

「…………」

 

 縁側に座っていた鬼谷子は、本から目を離すことすらなく、小さく、本当に微かな溜息をついた。

 次の瞬間である。

 徐福が完璧に編み上げたはずの光の檻が、鬼谷子の身体に触れる直前で、まるで水面に落ちた雪の結晶のように、音もなくスゥッと溶けて消え去ってしまったのだ。

 

「えっ……? あれ?」

 

 術を破られたという手応えすらなかった。

 ただ、絶対的な差の違いによって、彼女の術式が最初からこの世界に存在しなかったかのように、虚無へと還元されたのである。

 ヒラヒラと、力を失ったただの黄色い紙切れが、風に吹かれて庭の芝生の上へと落ちていく。

 

「な、なんで!? 今のは完璧なタイミングだったのに……!」

 

 目を白黒させる徐福。

 鬼谷子は、静かに書物を閉じると、ゆっくりと立ち上がり、背後で固まっている徐福の方へと振り返った。

 

「徐福」

 

 その声は、いつもと変わらぬ平坦な響きであったが、その漆黒の双眸の奥には、すべてを見透かすような底知れぬ深淵が広がっていた。

 

「ひゃいっ! あ、あの、これはですね、師匠に私の成長度合いをテストしてもらおうかと……その、出来心というか、ほんのいたずらでして……!」

 

 徐福は慌てて両手を振り、言い訳を並べ立てた。

 かつての孫臏や龐涓であれば、師にこのような真似をすれば、即座に精神を破壊されるか、手足を切り落とされても文句は言えない。

 しかし、鬼谷子は怒りの感情を露わにすることもなく、ただ静かに徐福の目の前まで歩み寄った。

 

「術の構成自体は、見事だった。五行の理を正確に捉え、気を澱みなく循環させていた。……君は確かに、この数年間で素晴らしい成長を遂げた」

 

「ほ、ほんとですか!? えへへ、やっぱり私って天才……」

 

 徐福が安堵して顔を綻ばせかけた、その瞬間。

 

 ――こつん。

 

 鬼谷子の白く細い人差し指が、徐福の額を、ほんの軽く、小突いた。

 痛みなど、ほとんどない。本当に、羽が触れるようなごく軽いデコピンであった。

 

「……あいたっ?」

 

 しかし、その軽い一撃が額に触れた瞬間、徐福の全身を、巨大な山脈に押し潰されるかのような途方もない『威圧』が駆け抜けた。

 立っていることすらできず、徐福はへなへなとその場に腰を抜かし、尻餅をついてしまった。額を押さえながら、見上げる師の姿が、天を衝くほどの巨大な影(怪物)のように感じられ、ガタガタと震えが止まらなくなった。

 

「し、ししょ、う……?」

 

「君は、少しばかり己の才に酔い、足元が見えなくなっていたようだ。天狗の鼻を伸ばすのは構わないが、それは君の術の根幹にあるものを乱す不純物となる」

 

 鬼谷子は、腰を抜かした徐福を静かに見下ろした。

 そこに怒りはない。ただ、圧倒的な事実としての格の違いを、文字通り骨の髄まで理解させるための、極めて優しい、しかし絶対的な調律であった。

 

「君の術が僕に通用しなかったのは、君の気が弱かったからではない。君が外界を知らないからだ。この鬼谷という清浄な箱庭の中で、純粋な魔力だけを吸って育った君の気は、綺麗すぎる。綺麗すぎるものは、ほんの少しの異物や、圧倒的な大局のうねりの前には、あまりにも脆い」

 

 鬼谷子の言葉が、徐福の心に深く染み込んでいく。

 

「真の道術とは、山の頂で霞を食って生きることではない。泥にまみれた人間の世に下り、老い、病、死、そして果てしない欲望の渦をその目で見て、それでもなお己の内の清浄を保ち、万物と調和して初めて完成するものだ。……君は、この箱庭で学ぶべき基礎を、すべて終えた」

 

「お、終わった……? それって、どういう……」

 

 徐福は、嫌な予感に胸を締め付けられ、涙目で師を見上げた。

 

「慢心し、師に悪戯を仕掛けようとしたその驕りへの罰として。そして、君の道術を真の完成へと導くための試練として……徐福、山を下りなさい」

 

 鬼谷子の宣告は、冷たく、そして絶対であった。

 

「外界へ出よ。今、人間の世は大きなうねりの只中にある。幾百の国が争い、数え切れないほどの命が泥の中で消え去っている。その地獄を、君のその目で見てきなさい。君が作り出す霊薬が、どれほど人間の命を救い、そして同時に人間の欲望を狂わせるのか。……それを知らぬ者に、不老不死の理を語る資格はない」

 

「い、嫌だっ! 私、山を降りたくない! 師匠のそばにいたい! いたずらしたことは謝ります、もう二度としません! だから、ここに置いてくださいっ!」

 

 徐福は泣きじゃくりながら、鬼谷子の衣の裾にすがりついた。

 七年間。苦しい修行に耐えられたのも、すべてはこの美しい師匠のそばにいるためだったのだ。それを突然、血みどろの人間の世に放り出されるなど、彼女にとっては死刑宣告に等しい。

 

 だが、鬼谷子は静かに、しかし力強く、自らの衣を掴む徐福の手を振りほどいた。

 

「子供の駄々は終わりだ、徐福。君はもう、一人前の道士なのだから」

 

 その冷たくも響く言葉に、徐福はハッと息を呑んだ。

 鬼谷子の瞳には、いつものような「アメ」としての甘さは微塵もない。歴史を紡ぐための駒を、盤面へと放つ観測者としての厳粛な光だけがあった。

 

「……君が人間の世を巡り、真に大自然と人間の業の調和を見出した時。君の足は、自然と私のいる盤面へと向かうだろう。……行け。そして、生き延びてみせろ」

 

 それ以上、すがりつくことは許されなかった。

 徐福は、師の絶対的な意志を悟り、ポロポロと涙をこぼしながら、深く、深く地面に額をすりつけて平伏した。

 

「……はい。お兄さん……ううん、お師匠様。今まで、本当にありがとうございました……っ」

 

 その日の夕暮れ。

 徐福は、自らが精製したいくつかの丹薬と、数枚の呪符だけを竹籠に入れ、鬼谷の庵を後にした。

 庭の出口まで見送りに来たのは、巨大な白蛇の霊獣だけであった。

 

「シロちゃん。お師匠様のこと、お願いね。ご飯、ちゃんと食べてるか見張っててよ。あの師匠、放っておくと霞ばっかり食べて生きていけそうなんだから」

 

『……シャァ(案ずるな、幼子よ。己の道をゆけ)』

 

 白蛇に優しく鼻先をすり寄せられ、徐福は赤くなった目をこすりながら、力強く頷いた。

 そして、一度だけ庵の方を振り返り、深く一礼をしてから、夕闇の迫る深い森の中へと足を踏み入れていった。

 彼女の特異な才能は、もはや迷いの森の空間の歪みすらも道標とし、外界へと続く一本の道をはっきりと視覚化していた。

 

 少しだけ天狗になっていた少女は、恩師からの軽い小突きの痛みを額に残したまま、血と泥に塗れた戦国末期の中原へと、その一歩を踏み出したのである。

 彼女がのちに、歴史を変える霊薬を探し求める旅に出ることになるなど、この時の彼女はまだ知る由もなかった。

 

     * * *

 

 徐福の気配が、鬼谷の結界の外へと完全に消え去った。

 静寂を取り戻した庵の縁側で、鬼谷子は再び一人、暮れゆく空を見上げていた。

 

 第一世代の兵法家たちが大地を砕き。

 第二世代の縦横家たちが王たちの精神を縛り上げた。

 そして今、第三世代として育て上げた道士の少女を、盤面へと放った。

 

 時代は、いよいよその終焉に向けて加速している。

 かつて天下を七つに分かち合った強国たち――楚、斉、燕、韓、魏、趙。それらの国々は、長きにわたる合従連衡の謀略と終わりのない消耗戦によって、すでに内部から腐り落ち、かつての輝きを失っていた。

 対して、西の怪物である秦(しん)は、歴代の王たちが積み上げた法と軍事の礎の上に、ついに「すべてを呑み込む」ための規格外の超人を誕生させようとしていた。

 

 ――嬴政(えいせい)。

 のちに、中華全土を統一し、自らを三皇五帝をも凌駕する『始皇帝』と名乗ることになる、人間という枠組みを超越した特異点。

 

「……さて」

 

 鬼谷子は、静かに独りごちた。

 彼の背中に刻まれた思想鍵紋が、これから訪れる巨大な歴史のうねりを演算し、青白く、不気味な脈動を始めている。

 

「始皇帝による中華の統一。それは、人間の世に完全なる『秩序』をもたらす反面、歴史の歩みを永遠に停止させてしまう危険を孕んでいる。不老不死の帝国など、人理を定着させる盤面には不要だ。……彼が築き上げる完璧な機械仕掛けの国家に、致命的なバグを仕込まねばならない」

 

 鬼谷子の脳内には、すでに壮大な計画の青写真が描かれていた。

 秦の技術を極限まで高め、始皇帝の統一を裏から支えると同時に、その技術を反転させて帝国を破壊するための「楔」を打ち込む。

 のちに『項羽』と呼ばれることになる、人型多脚式機動兵器――會稽零式(かいけいぜろしき)の基礎設計。

 そして、今日盤面へと放った徐福を用いた、始皇帝の不老不死への妄執を煽るという大仕掛け。

 

「そのためには、僕自身が、あの怪物の懐深くへと潜り込む必要があるな」

 

 鬼谷子は、自らの白く細い指先を見つめた。

 歴史の調律者として、常に高みから盤面を見下ろしてきた彼が、ついに自ら駒の一つとなって、血生臭い人間の歴史の中心へと降り立つ時が来たのだ。

 

「武将として名を馳せるのは悪手だ。縦横家のように口先で取り入るのも、あの絶対者の前では無意味だろう。……ならば、技術者か。あるいは、星の巡りを読み解く異端の学者としてか」

 

 いかにして、始皇帝のそばに着くか。

 あのすべてを見透かすような冷徹な覇王の目を欺き、秦の中枢技術に干渉するための最善の身分と手段を、鬼谷子は静かに演算し続ける。

 

「待っていろ、嬴政。君が創り上げる完璧な帝国の夢を、僕がこの手で、最も美しい形で終わらせてやろう」

 

 宵闇が鬼谷を包み込む。

 数百年続いた戦国時代の血みどろの幕が閉じ、人類史上類を見ない超帝国が誕生するその瞬間まで、あとわずか。

 不滅の観測者は、次なる歴史の転換点に向けて、静かに、そして確実な歩みを進めようとしていた。

 

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