縦横家の祖 鬼谷子 作:お腹ぽんぽん
神代の残滓が色濃く残る魔境、鬼谷(きこく)。
歴史の調律者たる鬼谷子(きこくし)が、その「飴と鞭」によって立派な道士へと育て上げた少女、徐福(じょふく)を外界の盤面へと放ってから、数ヶ月の月日が流れていた。
徐福が下山した後の鬼谷の庵は、かつての、そして本来の、一切のノイズが存在しない絶対的な静寂を取り戻していた。
庭を駆け回り、「師匠、師匠!」とけたたましく黄色い声を上げていたあのチョロい少女はもういない。巨大な白蛇であるシロも、日向ぼっこを邪魔する者がいなくなったため、心穏やかに大木の下で長きにわたる微睡(まどろみ)の期間に入っていた。
「……やはり、この静寂こそが、僕の本来あるべき環境だな」
縁側に座り、冷めた茶をすすりながら、鬼谷子は宙に展開された盤面の推移を眺めて独りごちた。
徐福という特異な駒は、今頃、戦乱の世の泥土に塗れながら、人間という生き物の業と大自然の理のギャップに苦しんでいる頃だろう。彼女が不老不死の概念を理解し、始皇帝の前に姿を現すまでの間、鬼谷子自身にはしばらくの空白期間が訪れていた。
天下の情勢は、西の秦が着実に力を蓄え、他の六国を物理的にすり潰していくフェーズに入っている。第二世代が残した呪い(疑心暗鬼)は完璧に機能しており、鬼谷子が直接介入して調律すべきものは、当面の間は存在しないはずであった。
そう、存在しないはず、であった。
――ズドォォォォォォンッ!!!
突如として。
外界のノイズを完全に遮断しているはずの鬼谷の深奥に、まるで山そのものが震えるような、物理的な地響きと爆音が鳴り響いた。
「……何事だ」
鬼谷子は、竹簡から視線を上げ、漆黒の双眸を微かに細めた。
背中に刻まれた『思想鍵紋(しそうけんもん)』が、瞬時に結界の異常を検知し、青白い光を明滅させる。
鬼谷を覆う結界は、空間を捻じ曲げ、侵入者の方向感覚と認識を狂わせる概念的な防壁である。かつて幼い徐福が迷い込んできたのは、結界の出力を意図的に落としていた数日間の偶然と、彼女の持つ「気への同調」という才能が重なった結果のバグであった。
しかし、今は違う。結界は最大出力で稼働しており、五行八卦の迷宮は完璧に機能している。
思想鍵紋が弾き出した結果を見て、鬼谷子という管理者は、ほんのわずかに、しかし確かな『当惑』を覚えた。
(……結界が、物理的に殴り破られようとしている、だと?)
それは、魔術理論の根底を覆すような現象であった。
概念防壁を破るには、通常、術式の脆弱性を突くか、より上位の概念で上書きするしかない。しかし、今まさに結界の外縁部で起きているのは、そうした知的な行為ではなかった。
迷いの森が侵入者に「恐怖の幻影」を見せれば、侵入者は「恐れをなす己の未熟さ!」と叫んで幻影を素手で殴り飛ばしている。
空間が捻じ曲がり「無限のループ」に陥らせれば、侵入者は「ならば真っ直ぐ進むのみ!」と叫び、目の前にある大木や岩壁を、己の肉体一つで粉々に粉砕しながら、文字通りの『直線』で強引に突き進んできているのだ。
『……シャァッ!? 主よ、何事ですかこの地響きは! 地震ですか!?』
あまりの騒音に、冬眠に近い状態だった白蛇のシロが、パニックを起こして鎌首をもたげた。
「いや……どうやら、とてつもなく頭の悪い、極大の質量を持った熱が近づいてきているようだ」
鬼谷子がそう呟いた直後。
庵を囲む深い森の木々が、バキバキバキッ!と薙ぎ倒され、土煙と共に「それ」が庭へと飛び込んできた。
「おおおおおおおおッ! 見つけたぞォォォォォッ!! ここが、ここが伝説の仙境、鬼谷かァァァァァッ!!!」
庭の中央にドスンと着地したそれは、一人の筋骨隆々たる青年であった。
名を、茅濛(ぼうもう)という。
年齢は二十代半ば。上半身は裸で、その肉体は過酷な鍛錬によって鋼のように引き締まり、無数の傷跡が刻まれている。乱れた髪を振り乱し、両の瞳には、文字通り燃え盛るような極大の情熱が炎となって宿っていた。
迷いの森の岩壁を素手で砕きながら進んできたため、彼の拳は血まみれであり、全身から尋常ではない熱気が陽炎のように立ち上っている。
「た、たのもーーーーーーうッッッ!!!」
茅濛は、縁側に座る鬼谷子を見つけるなり、大地が割れんばかりの大声で叫び、その場にズザーッと土下座を決めた。
その勢いで庭の芝生が深く抉れ、土煙が鬼谷子の足元まで押し寄せる。
「俺は茅濛! 天下の俗世を捨て、宇宙の真理と究極の『道(タオ)』を極めるために、この命を燃やし尽くす覚悟で参った男であります!! どうか、どうか俺を弟子にしてくだぁぁぁぁぁぁいッ!!!」
「…………」
鬼谷子は、舞い散る土埃を羽扇で軽く払いながら、沈黙した。
彼の長い観測史において、これほどまでにうるさい生物に遭遇したのは初めてであった。
第一世代の龐涓は野心に燃えていたが、それは内に秘めた暗く重い炎であった。第二世代の蘇秦と張儀は、言葉の刃を磨く冷徹な陰の気質であった。徐福はただのミーハーな村娘であった。
だが、この茅濛という男は、彼らとは根本的に属性が違う。
圧倒的な陽。いや、陽を通り越して、ただの物理的な熱暴走である。
(……鬱陶しい。なぜ僕の結界は、定期的にこういう想定外のバグを招き入れてしまうのだろうか)
鬼谷子は、静かにため息をついた。
彼が求めるのは、歴史の転換点に楔を打ち込むための、精密で冷徹な部品である。このような、歩く火災報知器のような男は、彼の緻密な盤面においてただのノイズにしかならない。
「帰れ。僕は今、弟子をとるつもりはない」
鬼谷子は、極めて冷たく、絶対的な拒絶の意思を込めて言い放った。
常人であれば、その魔力を込めた一言だけで精神が萎縮し、逃げ出してしまうほどの重圧。
しかし。
「おおおおッ! これぞ仙人の試練ッ! 簡単に弟子になれるなどと、俺も思ってはおりませんッ! この茅濛、どれほど拒絶されようとも、決して諦めることはありませぇぇぇぇんッ!!」
茅濛は、鬼谷子の拒絶を「自分を試すためのありがたい試練」と都合よく脳内変換し、さらに声のボリュームを上げて土下座の姿勢のまま地面に額をめり込ませた。
「……シロ。つまみ出せ」
『シャァァァッ!(御意ィ! 安眠を妨害した罪、その肉体で贖うがいい!)』
鬼谷子の命を受け、怒り心頭の巨大白蛇が、凄まじい速度で茅濛へと襲い掛かった。
大木をへし折るほどの強力な尻尾の一撃が、茅濛の横腹を容赦無く打ち据える。
ドゴォォォォンッ!!
茅濛の身体は鞠のように吹き飛び、庭の端にある巨大な岩に激突して、岩ごと粉砕した。
並の人間であれば、全身の骨が砕けて即死している一撃である。鬼谷子も、これで静寂が戻ると確信し、再び竹簡へと視線を戻そうとした。
ガラガラ、と。
砕けた岩の山が、内側から弾け飛んだ。
「だぁぁぁぁぁはぁぁぁぁぁぁッ!! 効くゥゥゥゥッ!!」
なんと茅濛は、口から血を流し、肋骨を何本も折りながらも、炎のような闘志を一切絶やさずに立ち上がってきたのだ。
「素晴らしいッ! この身の未熟さを、神獣の一撃をもって教えてくださるとは! 俺の肉体はまだまだ鍛え方が足りなかったようだ! ありがとうございます、お師匠様ァァァッ!!」
『……シャァァッ!?(な、なんだこの人間!? 私の全力の一撃を受けて、なぜ嬉しそうに笑っている!?)』
シロはドン引きして、思わずズルズルと後退した。
鬼谷子もまた、思想鍵紋の演算能力をフル稼働させ、この男の異常性を解析し始めた。
(……痛覚の遮断? いや、違う。この男、受けたダメージを己の『熱意』という魔力燃料に強制変換し、肉体のリミッターを外して自己再生させている。魔術回路の構造が、狂っているほどに単一目的(道への渇望)に特化しすぎている)
これは、ある意味で恐るべき才能であった。
徐福が「大自然との調和」によって道を極めようとする水のような性質ならば、この茅濛は「己の肉体と魂を極限まで燃やし尽くし、その熱量で宇宙の真理を強引に突破する」という、炎のような性質を持っている。
「お師匠様ッ! 俺に、俺に宇宙の真理を教えてください! この身が灰になろうとも、俺は究極の『道(タオ)』に至ってみせるッ!!」
茅濛は再び駆け寄り、ドスゥン!と地面にめり込む土下座を放った。
その熱気があまりにも暑苦しく、縁側の気温が数度上がったようにすら感じられる。
「……」
鬼谷子は、無表情のまま沈黙し、脳内で高速のシミュレーションを行った。
この異常な熱量を持ったバグ(茅濛)を、強引に排除することは可能だ。だが、この男の持つ「物理的・精神的な限界突破能力」は、道術という概念のもう一つの到達点――すなわち、肉体を持ったまま不老不死の仙人へと次元上昇する『白日昇天(はくじつしょうてん)』の実験体として、極めて有用なデータが取れるのではないか。
徐福が「霊薬(アイテム)」を作る研究者だとすれば、茅濛は「己の肉体そのものを神代の神秘へと昇華させる」生体実験の被検体である。
「……茅濛、と言ったな」
鬼谷子は、ため息を押し殺し、極めて冷酷な、システム管理者としての顔で彼を見下ろした。
「宇宙の真理を知りたいか。ならば、その狂った熱量を、僕の指示通りに制御してみせろ。……君のその五月蝿い声と、暑苦しい熱気が少しでも僕の読書の邪魔になった場合、その瞬間に君の魂を塵(ちり)にして虚無へと放り込む。それでも良いか」
「おおおおおおッ!! ありがとうございます、お師匠様ァァァッ! この茅濛、命に代えましても、決してご期待を裏切るような真似はいたしませぇぇぇぇぇんッ!!」
「……だから、声が大きいと言っているんだ。まずはその音量を絞れ。シロが怯えている」
『シャァ……(この熱血ゴリラ、本当にここに置くのですか主よ……私の安眠が……)』
こうして、徐福の下山で静寂を取り戻したはずの鬼谷に、歴史上最もやかましく、暑苦しい異端の道士、茅濛が弟子入りすることとなったのである。
――茅濛の修行は、徐福に施した「褒めて伸ばす(アメとムチ)」のアルゴリズムとは全く異なる、文字通りの『地獄の耐久テスト』であった。
鬼谷子は、この男には一切の「アメ」は不要であると判断した。
どんな理不尽な苦痛を与えても、茅濛はそれを「ありがたい試練」として勝手にモチベーションに変換してしまうからだ。
「茅濛。お前は火の気が強すぎる。陰陽のバランスが完全に崩壊している。……今日から百日間、あの氷点下の滝壺の中で座禅を組み、気の循環を行え。一歩でも外に出れば破門だ」
「はいッ! ありがたき幸せッ! この煮えたぎる血潮、絶対零度の滝をもって冷却し、己の内なる宇宙を調和させてみせますッ!!」
茅濛は全裸になり(なぜかポージングを決めながら)、極寒の滝壺へとダイブした。
常人であれば数十分で凍死する環境。しかし、茅濛は滝に打たれながら「おおおおおおッ! 冷たいッ! だがそれがイイッ!」と絶叫し、己の体温だけで滝の水を沸騰させ、周囲に猛烈な水蒸気を発生させ続けた。
あまりの熱気に、滝壺の周辺だけがサウナのようになり、冬眠しかけていたシロが「暑くて寝られない」とクレームを入れてくる始末であった。
「茅濛。次は辟谷(へきこく)の行だ。水と木の実も絶て。大気中の真エーテルのみで肉体を維持し、丹田を練り上げろ」
「はいィィィィッ! 飢えこそが精神を研ぎ澄ます最高のスパイス! 俺は今、宇宙と繋がっているのを感じますッ!!」
絶食し、骨と皮だけになっても、茅濛の眼力と声のボリュームだけは全く衰えなかった。
むしろ、肉体の余分な脂肪が削ぎ落とされたことで、彼の魔力回路は異常なまでの高出力で稼働し始め、庭の真ん中で座禅を組んでいるだけで、周囲の小石が反重力でフワフワと浮き上がるほどの凄まじい気の渦(オーラ)を放ち始めた。
「……シロ。僕の演算システムにバグが生じているのだろうか。なぜあの男は、負荷をかければかけるほど、物理法則を無視してエネルギーを増幅させているのだ」
『シャァ……(主よ、あれはもう人間ではなく、そういう概念の怪物なのだと諦めるしかありません)』
鬼谷子と白蛇は、縁側で耳栓(概念防壁)を展開しながら、庭で「ドゥオォォォォォォォッ!!」と謎のオーラを放ち続ける暑苦しい弟子を、半ば呆れたような、しかしシステムとしての純粋な興味が入り混じった目で観察し続けていた。
徐福が「自然と調和する」という道術の王道(セオリー)であったとすれば。
茅濛は「大自然の理屈など知るか、俺の熱気で宇宙ごと強引に同化してやる」という、極めて暴力的で異端な道術のアプローチであった。
しかし、その狂気的なまでの熱意と鍛錬は、着実に茅濛の肉体と魂を、人間の限界(テクスチャ)から逸脱させつつあったのである。
鬼谷の庵には、今日もまた「お師匠様ァァァッ!!」という茅濛のけたたましい叫び声と、滝の水が沸騰する音が響き渡っていた。
この熱血ゴリラが、のちに道教の歴史に燦然と輝く「白日昇天」という究極の奇跡を、この鬼谷の深奥から持ち帰ることになるなど。冷徹な管理者たる鬼谷子でさえも、この時点ではまだ完全に予測しきれてはいなかったのである。