縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第二節:因果の受容と魔境の主(後編)

 

 母の死から、四年が経過した。

 

 人間としての「悲哀」を知ったあの夜から、王禅は一段と口数を減らした。彼を保護する者は誰もおらず、人間社会から隔絶された鬼谷の底で、彼はたった一人で生き延びていた。

 普通の十歳の子供であれば、狂気に苛まれるか獣に喰われて終わる環境だ。だが、王禅にとっては、この魔境に満ちる淀んだ気すらも、読書灯のような「世界の情報源」に過ぎなかった。

 

 母が遺した竹簡を読み解き、大地の龍脈の流転を観測する日々。

 彼の背に刻まれた『思想鍵紋』は、十歳になり身体が成長したことで、より安定し、より強力に世界と直結するようになっていた。彼はもはや無意識に霊気を暴走させることはなくなり、己の意思ひとつで、大自然の息吹すらもチェスの駒のように操ることができるようになっていた。

 

 しかし、その強大すぎる力と、彼自身が放つ「龍の香り」は、暗闇に蠢くモノたちを強く惹きつけてやまなかった。

 

 ――ある嵐の夜のことだった。

 

 激しい雨風が、明確な意志を持った怪異の息吹のように庵を揺らしていた。

 王禅は、灯火ひとつない暗闇の土間で、静かに胡坐をかいて座っていた。バリバリと雷鳴が轟くたびに、青白い光が彼の細い横顔と、衣服の下で仄青く脈打つ思想鍵紋を照らし出す。

 

「……出なさい。そこにいるのは分かっている」

 

 声変わりもしていない、少年の声。

 だが、その響きには絶対的な静寂と、世界の真理を統べる者としての威厳が含まれていた。

 

 庵の入り口。雨風を遮るだけの粗末な木の戸が、音もなく腐り落ちた。

 暗闇の中から、ずるり、と巨大な影が這い出てくる。

 

 それは、人間の成人男性の顔を持ちながら、胴体は身の丈の十数倍もある大蛇の姿をした神代の残滓――『人面蛇』であった。戦乱の世で死んでいった兵士たちの怨念と、鬼谷の霊気を数百年にわたって吸い込み続け、一国を丸ごと呪い殺せるほどに肥大化した大妖である。

 

『……クク、ク……。やはり、ここにあったか。美味そうな、極上の龍の香りがする』

 

 大蛇が鎌首をもたげ、毒気を含んだ息を吐き出す。

 その言葉は人間の言語として耳に届くものではなく、脳髄に直接響く「呪詛の念波」であった。常人であれば、その気配に触れただけで精神が崩壊し、狂死するほどの恐怖の具現。

 

『小僧。貴様のその異常な魂の輝き……肉ごと喰らえば、我は本物の龍へと昇格できようぞ。神代が終わりゆくこの窮屈な世界で、我こそが新たなる神となるのだ……!』

 

 人面蛇が、醜悪な笑みを浮かべて這い寄ってくる。

 しかし、十歳の王禅の漆黒の双眸は、微塵も揺らがなかった。

 

 彼に見えていたのは、大蛇の恐ろしい外見ではない。

 大蛇の身体を構成する、歪んだ、泥のように濁った『思想魔術の旧い術式』だった。幾重にも絡み合った怨念のコードが、バグを起こしながら無理やりに存在を維持している状態。王禅の瞳から見れば、それは恐ろしい化け物などではなく、人理の定着によって世界の表舞台から消え去るべき、時代遅れで哀れな「残滓」に過ぎなかった。

 

「昇龍を望むか。だが、お前の術式はあまりに雑だ」

 

 王禅は、まるで出来の悪い竹簡を読んでいるかのような、冷ややかな声で言い放った。

 

「人間の怨念を核(コア)にして霊体を無理に拡張させている。そのような歪な術式構成で天に昇ろうとすれば、大気圏に触れる前に、人理の抑止力によって完全に消滅させられるだけだ」

 

『な、に……? 小童が、我の何が分かると……!』

 

 図星を突かれたのか、人面蛇の表情が怒りに歪む。

 大妖が巨大な顎を開き、王禅を丸呑みにしようと一気に襲いかかってきた。その巨体から放たれる圧倒的な質量と毒牙は、庵ごと少年を粉砕するかに見えた。

 

 だが。

「哀れな迷子。僕が、お前の進むべき『式』を書き換えてあげよう」

 

 王禅が、小さく白い右手をそっと前に突き出す。

 その瞬間、彼の背の『思想鍵紋』が、庵の中を昼間のように照らし出すほどの爆発的な輝きを放った。

 

 カチ、と。

 世界そのものが、大いなる盤面を一つ動かしたかのような、硬質で絶対的な音が空間に響く。

 

「――思想盤にアクセス。領域・鬼谷の限定執行」

 

 大蛇の巨体が、王禅の鼻先わずか数寸のところで、見えない壁に激突したようにピタリと停止した。物理的な防壁ではない。大蛇を構成する「運命力」そのものを、王禅が強制的に掌握し、時間の流れごと静止させたのだ。

 

「怪異名『人面蛇』。お前の存在定義を書き換える」

 

 王禅の瞳に、緑色の光の数式が猛烈な勢いで滝のように流れ落ちていく。

 彼は、大蛇の魂に刻み込まれた数百年分の怨念と呪詛のコードを、ほんの数秒の演算で完全に解体し、再構築し始めた。

 

「属性を【人間の害悪】から、【土地の守護】へ変更」

 

『ガ、ア、あああああああッ!?』

 

 大蛇が絶叫した。

 しかしそれは、肉体を傷つけられる苦痛からの叫びではない。己を縛り付けていた運命の形そのものが、根底から強引に「調律」されていくという、かつてない魂の衝撃からの絶叫であった。

 

「因果の座標を再固定。……実行(エンター)」

 

 光が弾けた。

 大蛇の身体から立ち上っていた、真っ黒な怨嗟の霧が、瞬く間に清浄な翡翠色の気へと反転していく。

 人を呪うために張り付いていた醜悪な人面は、嘘のように霧散した。どす黒かった鱗は、月光を反射して白銀に輝く美しいものへと変質していく。

 

 ものの十数秒の出来事だった。

 庵を埋め尽くしていた凶悪な大妖の姿はどこにもない。そこには、神聖で澄み切った気配を纏う、一匹の巨大な白蛇がとぐろを巻いているだけだった。

 

 力で屈服させたのではない。

 世界における「お前はそういう存在である」というルールそのものを、王禅が上書きしてしまったのだ。世界の一部でしかない怪異が、世界そのもののルールを握る者に敵うはずがなかった。

 

「お前たちは人を害する妖ではなく、この山の自然を護る『霊獣』だ。……そうだろう?」

 

『……御意。我が、主よ……』

 

 白蛇は完全に敵意を喪失し、それどころか王禅に絶対的な畏怖と忠誠の念を抱き、深く頭を垂れた。怨念から解放されたその声は、驚くほど穏やかで威厳のあるものに変わっていた。

 

 王禅は、自ら歩み寄り、白蛇の滑らかな鱗に小さな手を触れた。

 ふっと、年相応の、どこか寂しげな微笑が彼の口元に浮かぶ。

 

「良い子だ。これからは、この山に勝手に入ろうとする不届き者を追い払っておくれ」

 

『承知いたしました。我ら鬼谷に棲まう者すべて、貴方様の御名のもとに』

 

「……僕の名前?」

 

 王禅は、小さく首を傾げた。

 母から与えられた「王禅」という名は、一人の人間としての名前だ。しかし今、この魔境を完全に掌握し、世界のルールを自在に書き換える術を手にした自分は、もはやただの人間ではない。

 

 母が遺した言葉。

『その途方もない力と知恵を……いつか来る、この世を正しく導く者たちのために、使いなさい』

 

 彼は、鬼谷というこの魔境を、自らの絶対的な魔術工房(陣地)と定めた。

 神代が終わる過渡期において、狂いゆく世界の運命力を正しく調律し、未来の『人理』を担うべき本物の天才たちを育て上げるための、見えざる盤面。

 

「僕は、これからここで本を読み、世界を学び、盤面を整える。……いずれ来る、天下を動かす『客』たちを待たねばならないのだから」

 

 嵐はいつの間にか去っていた。

 雲の切れ間から、美しい月光が鬼谷の深淵を照らし出し、白蛇と少年の姿を静かに浮かび上がらせる。

 

「僕のことは、これより『鬼谷子』と呼ぶがいい」

 

 人間でありながら人間を超越した存在。

 歴史の裏側に座し、数多の怪物を世に放つことになる不滅の怪人・鬼谷子は、こうして十歳にして、魔境の真の主として君臨したのである。

 

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