縦横家の祖 鬼谷子 作:お腹ぽんぽん
鬼谷の底は、今日も静寂に包まれていた。
深い霧は相変わらず外界からの侵入者を阻み続けているが、その霧の質は四年前とは決定的に異なっている。かつては人を惑わし、呪い殺す毒を含んだ死の帳であったそれは、今や清浄で濃厚な霊気の渦となっていた。
谷の至る所で、白銀の鱗を持つ巨大な蛇や、淡い光を放つ霊鳥たちが静かに憩っている。彼らは皆、かつては狂える神代の怪異であったが、今はこの谷の主の意思に従い、自然の理を循環させる霊獣としてこの地を護っていた。
その霊獣たちが畏敬の念を込めて見守る中心、簡素な庵の縁側で、十四歳になった青年は静かに瞳を閉じていた。
母の死から八年、彼が自らを『鬼谷子』と名乗り、この魔境を己の工房と定めてから四年。
彼の肉体は、少年の面影を残しつつも、凛とした青年のそれへと成長しつつあった。雪のように白い肌と、絹糸のような黒髪。人間としての俗世の垢を一切削ぎ落としたかのようなその姿は、彫刻の如き美しさと、どこか無機質な冷たさを併せ持っていた。
彼の呼吸は微弱で、一見すると眠っているか、あるいは命の活動を停止しているかのようにも見える。しかし、その内側では、常人の脳ならば瞬時に焼き切れるほどの膨大な情報処理が行われていた。
「……中原の乱れは、さらに加速しているか」
薄く開かれた漆黒の双眸。
彼の視線は、庵の庭先でも、鬼谷の霧でもなく、遥か数百里の彼方――戦国七雄と呼ばれる大国たちが血みどろの争いを繰り広げている、中華の中心へと向けられていた。
鬼谷子の瞳には、大地の奥深くを流れる気の脈動と、天空を覆う運命の糸の交錯が、複雑な幾何学模様となって視えていた。
東では巨大な軍勢が衝突し、数万の命が泥に塗れて消えていく。西では謀略が渦巻き、一国を傾けるほどの毒気が王宮を覆っている。人間たちが放つ怒り、悲しみ、欲望、そして絶望。それらの感情は強烈な濁流となって大気に溢れ出し、神代の終わりという不安定な時代と相まって、世界の法則そのものを歪めようとしていた。
「人が人を殺し、国が国を喰らう。その熱量自体は、次の時代を拓くために必要な動力だ。だが……」
鬼谷子は静かに呟き、背筋を伸ばした。
衣服の下で、彼の背に刻まれた『思想鍵紋』が仄青く脈打つ。
「このまま放置すれば、人々の怨念がかつての神々や怪異の残滓を呼び覚まし、中華の地は再び混沌の魔境へと逆行する。人の世の理――『人理』を大地に縫い留めるための杭が、決定的に足りていない」
彼は己の内に深く潜り、中華の大地を統括する巨大な魔術基盤、すなわち『思想盤』の深淵へと意識を接続した。
そこは、光と音、そして途方もない規模の運命力が渦巻く情報の海である。彼は生まれながらに与えられた特権を行使し、その海の最も深い場所へと降り立っていく。
彼が十四歳になり、肉体と精神が一定の成熟を迎えたこの時期、彼はついに自らの存在意義の「完全な解読」を行おうとしていた。
なぜ、自分は五色の龍の光として生み落とされたのか。
なぜ、人間でありながら、この狂おしいほどの全能を与えられたのか。
思想盤の深淵で、彼は自らの魂に刻み込まれた根源的な問いに対する答えを、情報として読み取った。
――神代は終わらなければならない。
――人間が、人間の意思と足で歴史を歩む時代を創らねばならない。
――しかし、大地の理は古いままであり、放置すれば歴史は停滞し、やがて世界そのものが剪定されて消滅する。
――故に、中華の理を「神」から「人」へと移行させるための、巨大な調律器が必要だった。
「……なるほど。僕という存在は、世界が歴史を次の段階へ進めるために出力した、自動調律の機構(からくり)というわけか」
鬼谷子は、深い海の底で自嘲気味に微笑んだ。
幼き日に母が流した涙の意味が、今ならより痛切に理解できた。母は、我が子が普通の人間として幸せに生きる未来が絶対に訪れないことを悟り、その非情な運命を悲しんでいたのだ。
彼は、一個人の幸せを求めるようにはできていない。
中華という広大な世界を延命させるための、生きた装置。
母の死を受け入れた六歳の夜、彼はすでに人間としての幸せを放棄していたが、十四歳の今日、彼は己が何者であるかを、魂の底から完全に納得し、受容したのである。
「良いだろう。母上は僕に、この知恵を世を導くために使えと言い遺した。僕という個体が、歴史の礎となるのならば、それに徹するのみ」
鬼谷子は意識を現実の谷へと戻した。
彼は立ち上がり、庵の外へ出る。冷たい風が彼の黒髪を揺らしたが、彼の眼差しは燃えるような決意に満ちていた。
彼が自らの手で直接、中原へ赴いて戦を止めることは容易い。強力な術を用いて軍勢を吹き飛ばし、王たちを洗脳し、無理やりに平和を構築することもできるだろう。
しかし、それでは意味がないのだ。
「人間以外の強大な力」によってもたらされた秩序は、結局のところ神代の支配と何も変わらない。それでは人理は定着せず、いずれ必ずより大きな破綻を招く。
人間が自らの業で生み出した戦乱は、人間自身の知恵と血によって決着をつけ、その結果として新たな理を大地に刻み込まねばならない。
「僕が直接盤面に立つことは許されない。僕が成すべきは、盤面そのものを創り、駒を育て、彼らに歴史を動かさせることだ」
鬼谷子は、深い空を見上げた。
彼の目には、中華全土を覆う巨大な「碁盤の目」が視えていた。
彼はその盤面――大陸の運命力の流れを、この場所から少しずつ、しかし確実に操作し始めた。未来の歴史の分岐点となるべき重要な地脈に罠を張り、因果の糸を編み上げ、時代を動かす『引力』を発生させる。
それは、気の遠くなるような作業であった。
国と国との因果を結び、あるいは断ち切り、数十年、数百年先の未来を見据えて巨大な術式を仕込んでいく。思想鍵紋がかつてない輝きを放ち、彼の額に冷たい汗が滲む。
人間一人の処理能力を遥かに超えた大魔術。しかし彼は、ただ淡々と、精密な時計の歯車を組み上げるように、大陸の運命を調律し続けた。
そして、三日三晩にわたる儀式にも似た術式の構築が完了した時。
天の空に、七つの星が異常なほどの輝きを放ち、中華の大地に新たな「理」の基礎が敷かれたことを告げていた。
「盤面の用意は整った」
鬼谷子は静かに息を吐き、足元で彼を見上げる白蛇の頭を撫でた。
「これより、この谷は天下を動かす知恵の源泉となる。戦乱を終わらせ、新たな時代を切り拓くほどの熱量を持った、特異な運命力を持つ者たち……本物の天才だけを、この結界は招き入れるだろう」
彼の瞳は、過去から未来に至るすべての因果を俯瞰し、歴史の裏側から容赦なく人間たちを試練の炎へと投じる、冷徹なる観測者の目へと変貌していた。
「すでに僕は、一人の人間としての生を終えている。四年前、この谷の主として名乗りを上げたあの日から、僕は歴史の影に座する概念としての存在だ」
彼は己の役割を、世界に対して最終確認(コミット)する。
大地の運命力が彼に呼応し、鬼谷の霧が深く、重く、より神秘的に山を包み込んだ。外界とを隔てる結界が完全に固定され、時代を動かす器を持つ者だけを引き寄せる「門」が、ここに開かれたのだ。
「さあ、来るがいい。時代を焼き尽くすほどの野心と才覚を持った、未来の英雄たちよ。この魔境で、お前たちに世界を裏返す術を授けよう」
十四歳のこの日。
四年の歳月をかけて盤面を組み上げた彼が、単なる魔境の主から、歴史の節目ごとに数多の怪物を世に放つことになる『伝説の指導者』へと至った瞬間であった。
そして数年の後、彼の張り巡らせた運命の引力に導かれるようにして、この深い霧を越えてやってくる最初の来訪者たちの足音が、歴史の裏側で確かに響き始めていた。