縦横家の祖 鬼谷子 作:お腹ぽんぽん
青年が自らを『鬼谷子』と名乗り、鬼谷の地を天下の運命を調律するための巨大な盤面――絶対的な魔術工房(陣地)として完成させてから、さらに数年の歳月が流れていた。
その間、中華の大地は「戦国」の名に相応しく、血で血を洗う泥沼の争いを激化させていた。魏、趙、韓、斉、楚、燕、秦。強大な七つの国々が覇権を争い、数万、数十万という兵士たちが容赦なく命を散らしていく。
王侯たちは己の領土を広げることのみに執着し、有能な将軍や知恵者を血眼になって探し求めていた。そんな狂乱の時代にあって、知識人や武将たちの間で、まことしやかに囁かれる一つの噂があった。
『中原の果て、いかなる国の法も及ばぬ深い霧の底に、神代の知識を隠し持つ仙人が住む谷がある。その者の教えを乞うた者は、天下を容易く引っ繰り返すほどの神算鬼謀を得るだろう』
――鬼谷。
その噂に引き寄せられ、立身出世を夢見る数多の野心家、あるいは一国の王に仕える将軍たちが、挙ってその谷を目指した。だが、誰一人として仙人の元へ辿り着けた者はいない。
谷を覆う深い霧は、単なる自然現象ではなく、鬼谷子が敷いた『運命の選別』を行う強固な結界である。凡庸な魂、あるいは時代を動かすほどの熱量(オド)を持たぬ者が足を踏み入れれば、空間そのものが歪み、永遠に幻覚の森を彷徨うことになる。運良く生きて帰れた者も、皆一様に精神を壊し、二度と使い物にならなくなっていた。
鬼谷は、真の天才しか立ち入ることを許さない、選ばれし者だけの魔境であった。
そして今、その絶対の結界を、力ずくでこじ開けようとしている一人の青年がいた。
「ハァッ……! ハァッ……! クソッ、幻覚め……! 俺を、俺を誰だと思っている……!!」
青年の名は、龐涓(ほうけん)。
魏の国に生まれ、幼き頃から兵法と武術に類まれなる才を示してきた野心家である。貧しい身分から這い上がり、自らの才覚だけを頼りに天下の頂点を目指す彼は、この鬼谷の伝説に己の全存在を賭けていた。
彼の全身は泥に塗れ、上等な衣は木の枝や獣の牙によって無残に引き裂かれていた。右腕からは鮮血が滴り落ちているが、彼は痛みに構うことなく、血走った目で一歩、また一歩と霧の奥へと足を踏み出していく。
龐涓は、この谷に入ってからすでに三日三晩、一睡もしていなかった。
結界が彼に見せる幻覚は凄惨を極めた。自分が戦場で大軍を率いて栄光を掴む幻を見せられた直後、その全軍が火計に焼かれ、自身が無残に首を刎ねられる絶望の未来を脳内に直接叩き込まれる。過去に己が蹴落としてきた者たちの怨念が、腐乱死体となって足首を掴んでくる。常人ならば一時間で発狂する精神攻撃の波状を、彼は奥歯を噛み砕かんばかりの力で耐え抜いていた。
――強烈な、出世への『執着』である。
「俺は、こんな所で終わる器ではない……! 天下に名を知らしめ、万の軍勢を率いて歴史に名を刻む男だ! 神代の亡霊ごときに、俺の歩みを止められるものかぁッ!!」
龐涓の叫びと共に、彼の内側から爆発的な生命力(小源)が吹き荒れた。
それは魔術的な洗練とは程遠い、ただの力任せの感情の爆発だ。しかし、あまりにも巨大すぎるその野心の熱量は、周囲の気を物理的に震わせ、鬼谷子が敷いた結界の『論理』をほんの僅かに歪ませた。
泥臭く、しかし確かな執念によって、彼はついに幻覚の森の最も奥――結界の核である庵への道を切り開いたのである。
「……抜けた、か……?」
不意に、視界を覆っていた濃密な霧が晴れた。
龐涓は荒い息を吐きながら膝をつき、目の前の光景に目を見張った。
そこには、外界の血生臭い戦乱が嘘のような、清浄な気に満ちた美しい庭と、簡素な庵があった。庭の片隅では、信じられないほど巨大な白銀の蛇がとぐろを巻き、静かに彼を見下ろしている。
そして、庵の縁側。
そこに、一人の『青年』が座っていた。
「――――」
龐涓は、その人物を見た瞬間、全身の毛穴が粟立つのを感じた。
年は自分と同じか、少し下くらいに見える。雪のように白い肌に、俗世の穢れを一切知らないような端正な顔立ち。しかし、その漆黒の双眸と目が合った瞬間、龐涓は己の魂の底まで完全に透かし見られたような、圧倒的な全能感に叩きのめされた。
人間ではない。
人の形をしているが、これは、世界そのものの理を体現した『概念』に近い存在だ。
「……よくぞ、我が結界を破った」
縁側に座る鬼谷子が、静かな、しかし絶対的な威厳を持って口を開いた。
「強引な手法だが、お前のその身を焦がすほどの野心と生命力は、確かに時代を動かす『熱』を孕んでいる。名を何という」
「ほ、龐涓……! 魏の、龐涓と申します……!」
龐涓は、無意識のうちに平伏していた。
天下の誰に頭を下げることも潔しとしなかった彼が、この得体の知れない青年の前では、本能が「服従しろ」と叫んでいたのだ。額を冷たい土に擦り付け、必死に言葉を絞り出す。
「どうか、私に兵法の極意を! 天下を乱す愚か者どもを蹂躙し、絶対の覇者となるための知恵をお授けください……!」
血を吐くような龐涓の懇願を、鬼谷子は冷徹な瞳で見下ろした。
彼の背に刻まれた思想鍵紋が、微かに仄青い光を放つ。鬼谷子には、龐涓が将来どのような将軍となり、どれほどの血を流すかが、すでに運命の演算として見えていた。
物理的な暴力と、権力への渇望。それは、神代を終わらせるために必要な「人間の業」そのものである。
「良いだろう。お前のその泥臭い執念、我が盤面の駒として相応しい。今日よりお前は――」
鬼谷子が龐涓を入門させようと言葉を継ごうとした、まさにその時である。
「あーあ、ひどい道! ちょっと気を抜いたら、すぐに崖の下に誘導されちゃうんだから。こんな意地悪な罠を仕掛けるなんて、噂の仙人様ってば随分と性格が悪いんだから!」
鈴を転がすような、明るく無邪気な少女の声が、清浄な庭に響き渡った。
「なっ……!?」
龐涓は弾かれたように顔を上げた。
霧の奥から、一人の少女がひょっこりと姿を現したのだ。
年は龐涓よりもいくつか下、十五、六といったところだろうか。亜麻色の髪を無造作に束ね、動きやすい軽装に身を包んだその少女は、龐涓が死に物狂いで突破したあの地獄のような結界を抜けてきたとは到底思えないほど、泥一つ跳ねていない綺麗な姿をしていた。
すらりと伸びた、健康的な両脚。
彼女は、庭の敷石の上を、まるで舞うように軽やかな足取りで跳ね回った。その健脚は、大地をしっかりと捉え、一切の無駄がない美しい体重移動を見せている。
「あ、大きい蛇さんだ! 可愛い〜、撫でていい?」
『……シャァ……(この娘、我が威圧を全く気にも留めぬとは……)』
恐ろしい霊獣である白蛇に全く怯えることなく、少女は鼻歌交じりにその白い鱗を撫でている。
龐涓は信じられない思いでその光景を呆然と見つめていた。自分が血反吐を吐きながら、気力と根性の限界を超えてようやく辿り着いたこの魔境の最深部に、こんな小娘が、散歩にでも来たような顔で入り込んできたというのか。
「お前……何者だ!? どうやってこの結界を……!」
龐涓が思わず怒鳴り声を上げると、少女はきょとんとした顔で彼を見た。
「何者って、私は孫(そん)っていう一族の者だけど……名前は、そうね、臏(ひん)って呼んでよ。孫臏(そんぴん)! かっこいいでしょ?」
孫臏と名乗った少女は、悪びれる様子もなく笑った。
その笑顔は太陽のように明るかったが、縁側から彼女を見つめる鬼谷子の瞳には、全く別の光景が視えていた。
――異常である。
龐涓が「物理的な野心」で結界の壁を殴り壊して進んできたのだとすれば、この孫臏という少女は、結界を構成する魔術的な『論理の隙間』を、感覚だけで縫うように歩いてきたのだ。
かの名高き兵法家・孫子を祖に持つとされる一族の末裔。
彼女は、魔術の知識など持っていない。ただの利発な少女に過ぎない。
だが、彼女のその澄み切った瞳は、生まれながらにして「物事の最適解」を無意識に弾き出すという、恐るべき直感力――一種の『未来予知』に近い演算能力を備えていた。
結界が幻覚を見せようとすれば、「あ、こっちの道は嘘っぽいな」と直感で正しい道を選び、致死の罠が起動する前に「なんだかここを歩くと嫌な予感がする」と軽やかな足取りで回避してしまう。
それは、鬼谷子が持つ神の視点(思想盤へのアクセス)とは異なる、人間としての究極の「軍略の才」であった。
「……僕が自ら運命の糸を引いて招き入れたとはいえ、これほど容易く僕の陣地を抜けてくるとはな。孫臏、恐ろしい娘だ」
鬼谷子の唇に、ほんの僅かな、しかし明確な弧が描かれた。
それは、自らが組み上げた歴史の盤面に、最高級の駒が二つ揃ったことへの、システムとしての喜びであった。
「な、なんだよこの女……!? 俺の苦労は……!」
龐涓が屈辱に顔を歪める中、孫臏はとことこと鬼谷子の前まで歩いていき、自慢の健脚でぴたりと立ち止まると、にっこりと屈託のない笑顔を向けた。
「あなたが、噂の仙人様ね? なんだか随分と若くて、綺麗な顔をしてるのね。私、お祖父ちゃんたちから『お前は賢すぎるから、もう教えることはない。鬼谷へ行け』って追い出されちゃったの。だから、今日からここに住ませてもらうわね!」
まるで親戚の家に遊びに来たかのような軽い挨拶。
天下の怪人である鬼谷子を前にして、微塵も萎縮しないその天真爛漫な姿に、龐涓は殺意に近い苛立ちを覚えた。
だが、鬼谷子は静かに立ち上がり、対照的な二人の若者を見下ろした。
燃え盛る炎のような、泥臭い『物理』の龐涓。
流れる水のような、天才的な『概念』の孫臏。
「よかろう。野心家と、天然の天才。相反する二つの才能だが、それゆえに互いを磨き上げる最高の砥石となろう」
鬼谷子は背の思想鍵紋を微かに光らせ、大気を震わせる声で宣言した。
「龐涓。孫臏。今日よりお前たちを、我が庵の第一世代の弟子として迎え入れる。僕が教えるのは、天下を動かすための『兵法』――すなわち、大地の理を戦場という局所において人為的に展開・操作するための、思想魔術の極致だ」
鬼谷の谷底に、静かな風が吹き抜けた。
後に、中華の大地を二分する血みどろの激戦を繰り広げ、兵法の歴史そのものを決定づけることになる二人の天才。
彼らの、数奇で、そして残酷な運命の幕開けであった。