縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第四節:第一世代の入門 (後編)

 

 外界では、血で血を洗う戦国乱世の嵐が吹き荒れている。

 しかし、深い霧に守られたこの鬼谷の底には、世界の喧騒から完全に切り離された、嘘のように穏やかでゆったりとした時間が流れていた。

 

 龐涓と孫臏が、仙人こと『鬼谷子』の弟子として庵での生活を始めてから、はや数ヶ月が経過していた。

 彼らの日常は、下界の王侯貴族が想像するような「血を吐くような凄惨な魔術修行」とは、少し趣が異なっていた。むしろそれは、外界の毒気から切り離された子供たちが、大自然という揺り籠の中で無邪気に戯れているかのような、牧歌的ですらある風景だった。

 

「――シィッ! ハァッ……!!」

 

 まだ夜明けの薄暗さが残る、朝靄に包まれた庭。

 そこに、上半身裸で大身の木戟(もくげき)を振るう龐涓の姿があった。彼の全身には滝のような汗が浮かび、鍛え抜かれた筋肉が、呼吸に合わせて鋼のように躍動している。

 彼が木戟を一閃するたびに、空気を切り裂く鋭い風切り音が響き、庭の敷石に溜まった朝露が弾け飛ぶ。彼が身につけようとしているのは、単なる武術ではない。自らの内にある生命力(オド)を武具に伝導させ、大軍の包囲をも単騎で突破するための「将の武」であった。

 

 龐涓は生真面目だった。野心家であるがゆえに、自らの凡庸さを誰よりも恐れ、誰よりも努力した。師である鬼谷子がまだ眠りについている(ように見える)この夜明け前の時間を、彼はただひたすらに己の肉体を苛め抜くことに費やしていた。

 

「ん〜……ふぁぁぁあ……。おはよー、龐涓。今日も朝から元気ねえ」

 

 庵の縁側から、気の抜けたような、それでいて鈴を転がすような明るい声が響いた。

 龐涓が動きを止め、忌々しげに視線を向けると、寝巻き代わりのゆったりとした麻の衣を纏った孫臏が、大きな欠伸をしながら縁側に立っていた。亜麻色の髪は寝癖でぴょんぴょんと跳ねており、目をこするその姿には、天下を動かす天才軍師としての威厳など微塵もない。

 

「……遅いぞ、孫臏。太陽はとうに顔を出している。兵を率いる将たる者、兵よりも先に起きて陣を見回るのが鉄則だろうが」

 

「えー、だってここは戦場じゃないもん。鳥さんが歌い始めるまでは寝ててもいいって、お師匠様も言ってたわよ?」

 

「言っていない! 貴様が勝手にそう解釈しているだけだろう!」

 

 怒鳴る龐涓をよそに、孫臏は「あはは」と悪びれずに笑うと、縁側から軽やかに庭へと飛び降りた。

 トンッ、と敷石を蹴るその足取りは、羽毛のように軽い。彼女はそのまま流れるような動作で朝露に濡れた草地を駆け抜け、庭の隅で丸くなっていた巨大な白銀の霊獣――人面蛇が転生した白蛇――の背中に、ぽすんとダイブした。

 

『……シャァ……(またお前か、小娘。我は敷物ではないぞ……)』

 

「いいじゃない、シロちゃん冷たくて気持ちいいんだもん。ねぇ龐涓も触ってみる? すっごくすべすべだよ!」

 

「馬鹿者! それはお師匠様の使い魔たる高位の霊獣だぞ、馴れ馴れしく触るな! 噛み殺されても知らんぞ!」

 

「大丈夫よ、シロちゃんは優しいもんねー」

 

 白蛇の鱗に頬をすりすりしながら笑う孫臏。彼女のそのすらりと伸びた健康的な両脚は、時折楽しげに宙を蹴って、空中で見えない円を描いている。

 龐涓は、大きくため息をつきながら木戟を下ろした。

 この数ヶ月で痛感したことだが、この孫臏という少女は、あらゆる物事に対して「力む」ということを知らない。歩く時も、走る時も、ただ風に乗るように自然体であり、彼女のその健やかな両脚は、どこまでも自由に、何の障害もなく大地を駆けていくことができるのだ。

 

 泥臭く大地を踏みしめ、重力を無理やりねじ伏せるように進む自分とは、根本的に在り方が違う。その絶対的な才能の差に、龐涓は時折、胸の奥をどす黒い感情で焼かれそうになることがあった。

 だが、今の彼にとって、孫臏は憎むべき敵ではなく、奇妙なほど気の合う「悪友」にして「気の置けない同期」であった。彼女の底抜けの明るさと、裏表のない純粋な好意は、龐涓の荒んだ野心を不思議と中和してしまうのだ。

 

「……ほら、さっさと着替えて顔を洗ってこい。朝餉の支度は俺がしておくから、その後はすぐにお師匠様の講義だぞ」

 

「やったー! 龐涓の作る粟粥、すっごく美味しいから大好き! ありがとー!」

 

 ぱぁっと顔を輝かせ、孫臏は脱兎のごとく庵の裏手にある水場へと駆けていく。その弾むような足音を聞きながら、龐涓は「やれやれ」と首を振り、自身も汗を流すために井戸へと向かった。

 

 ――朝餉を終えた後の午前中は、鬼谷子による『兵法』の講義の時間である。

 

 それは、書物を開いて文字を追うような退屈なものではなかった。

 庭の開けた場所に、鬼谷子が指先で地面に円を描く。すると、その円の中の土や砂が意志を持ったように隆起し、精巧な山や川、城壁のミニチュアを形成していく。大地の運命力(龍脈)を局所的に抽出し、箱庭サイズの『戦場』を仮設する大魔術。

 そして、そのミニチュアの戦場に、青と赤の光の粒子が数百、数千の「兵士」となって配置されるのだ。

 

「本日の課題は『峡谷における伏兵への対処』だ」

 

 縁側に座り、無表情に箱庭を見下ろす鬼谷子が、淡々とした声で告げた。

 

「龐涓が赤の軍三千を率いて峡谷を抜けよ。孫臏は青の軍千を率いて、それを阻め。……始め」

 

 鬼谷子の合図と共に、箱庭の時間が動き出す。

 龐涓と孫臏は盤面を挟んで向かい合い、己の意思と魔力(オド)を光の兵士たちに接続した。これは単なる卓上遊戯ではない。兵士たちの一挙手一投足、士気の上下、地形の気候変化までが、操作する者の「戦術的思考」をそのまま反映する、実戦さながらのシミュレーションである。

 

「千の兵で三千を阻むだと? 小賢しい罠など、圧倒的な『力』と『陣形』で粉砕してやる……!」

 

 龐涓の目が鋭く光る。

 彼の操る赤の軍は、まるで一つの巨大な生き物のように統制が取れていた。歩兵の盾が隙間なく並び、その後方から弓兵が完璧なタイミングで援護する。峡谷の狭い地形であっても、彼らの行軍速度は落ちず、一切の死角を持たない「鉄壁の陣」を敷いていた。

 それは、龐涓の泥臭い努力と、規律を重んじる厳格な性格がそのまま形になったような、正統にして最強の戦術であった。

 

「……ふふん、龐涓の陣形、すっごく綺麗。でもね、綺麗すぎるから、どこから崩せばいいかすぐ分かっちゃうの」

 

 盤面の向こう側で、孫臏が頬杖をつきながら、楽しそうにくすくすと笑った。

 

 彼女の操る青の軍は、峡谷のあちこちに散り散りになっており、一見すると何の統制も取れていない烏合の衆のように見えた。

 しかし、龐涓の軍が峡谷の中間地点に差し掛かった瞬間。

 孫臏の指先が、盤面の上で指揮棒を振るうように軽やかに舞った。

 

「ここ、ちょっとだけ崩すね」

 

 青の軍の一部が、峡谷の崖上からパラパラと岩を落とした。

 それは致命的な攻撃ではない。赤の軍は盾で難なくそれを防いだ。だが、その防御行動のコンマ数秒の遅れによって、完璧だった赤の軍の『陣形の歩調』が、ほんの数センチだけズレたのだ。

 

「なっ……!?」

 

 龐涓がそれに気づいた時には、すでに遅かった。

 その数センチのズレを縫うように、散り散りになっていたはずの青の軍が、濁流のように一点に殺到した。それは物理的な兵力差を無視した、大地の気(風向きや足元の砂の滑りやすさ)すらも味方につけた、概念的な急所攻撃だった。

 圧倒的な力を持っていたはずの赤の軍は、そのたった一つの結び目を解かれただけで、ドミノ倒しのように崩壊し、同士討ちを始めて自滅していった。

 

「はい、おしまい! 私の勝ちー!」

 

 光の粒子が消え去り、箱庭がただの土に戻る。

 孫臏はバンザイをして喜び、龐涓はギリッと奥歯を噛み締めて土を睨みつけた。

 

「……ッ、なぜだ! 俺の陣形に隙はなかったはずだ!」

 

「陣形にはね。でも、龐涓の『気』が、あそこを歩く時に少しだけ焦ってた。だから、そこに石を落とせば、みんなびっくりして足並みが乱れると思ったの」

 

「馬鹿な……そんな感覚的なもので、俺の三千の軍が……!」

 

 悔しさに震える龐涓に対し、鬼谷子が静かに口を開いた。

 

「兵法とは、数や武力のみで語るものではない。戦場に流れる『気の脈動』を読み、世界の理(ルール)を味方につけた者が勝つ。孫臏の戦術は水だ。形を持たず、しかし僅かな亀裂から入り込み、岩をも砕く。……龐涓、お前は自らの盤石さに頼りすぎている。水の流れを堰き止めるには、ただ壁を作るだけでは足りぬぞ」

 

「……は、はい。ご指導、痛み入ります……」

 

 深く頭を下げる龐涓。その横で、孫臏が「どんまい!」と無邪気に彼の肩を叩いた。

 龐涓は彼女の手を払いのけることはせず、ただ小さく息を吐いて、「次は負けんぞ」とだけ不器用に答えた。

 戦術においては孫臏に負け続けているが、龐涓もまた、彼女のその常識外れの思考から多くのものを吸収していた。彼らは互いの存在をぶつけ合うことで、凄まじい速度で才能を開花させつつあったのだ。

 

 ――午後。

 講義を終えた二人の日課は、谷周辺での薪拾いや、薬草、木の実の採取といった雑務であった。

 これには、「自らの足で歩き、山の地形や自然の法則を身体で覚える」という鬼谷子の修行の意図も含まれていた。

 

「あーっ、あんな所に美味しそうな桃がある! 龐涓、あれ採ろうよ!」

 

「馬鹿、あんな絶壁の途中にあるものをどうやって採るつもりだ。足を踏み外せば谷底だぞ」

 

「平気平気! ちょっと待ってて!」

 

 鬱蒼とした森の中。

 止める間もなく、孫臏は身軽な動作で急斜面を駆け上がり、まるで重力が存在しないかのように、岩から岩へと跳ねていった。

 彼女の脚は、本当に美しく、そして力強かった。筋肉が盛り上がっているわけではない。だが、その脚が大地を蹴るたびに、大地の気が彼女を押し上げているかのような、不思議な浮遊感があった。

 

 見ている方が肝を冷やすような高さの岩棚に辿り着き、孫臏は枝からたわわに実った桃をもぎ取った。

 そして、崖の上から龐涓に向かって、太陽のような笑顔で手を振った。

 

「採れたー! すっごく甘そうな匂いがする!」

 

 その屈託のない笑顔を見上げながら、龐涓は薪の束を背負い直し、複雑な表情を浮かべた。

 

「……お前は、どうして軍師になろうなどと思ったんだ?」

 

 不意に口を突いて出た問いだった。

 崖からひらりと飛び降り、龐涓の隣にふわりと着地した孫臏は、桃を一つ彼の手に握らせて、首を傾げた。

 

「どうしてって? うーん……。お家が兵法家だったから、小さい頃からそういう本ばかり読んでたし……。盤面の上で、色んなことを想像してパズルを解くみたいに戦うの、すっごく楽しいから!」

 

「楽しい、か。……ふん、お前らしいお気楽な理由だな」

 

「えへへ。それにね、私、ずっと本の中の世界しか知らなかったから。いつか軍師になって、この脚で大陸のあちこちを歩き回って、色んな景色を見てみたいの。海とか、雪山とか、すっごく大きな街とか!」

 

 孫臏は、自らの両脚をポンポンと叩いて、未来への希望に満ちた瞳で遠くの空を見つめた。

 彼女にとって、兵法とは「世界を知るための手段」であり、軍師としての道は「未知なる世界への冒険」と同義なのだ。誰かを蹴落とし、血を流して覇権を握るというような、泥臭い野心はそこには一切存在しなかった。

 

「龐涓は? どうして、あんなに毎日必死に修行してるの?」

 

 孫臏の純粋な問いに、龐涓は手の中の桃を強く握りしめた。

 

「……俺は、貧しい村の出だ。力のない者は、ただ蹂躙され、奪われるだけの世界を見てきた。俺は、奪われる側にはならない。知恵と武力で這い上がり、万の軍勢を率いる大将軍になって、歴史に俺の名前を永遠に刻み込んでやる。そのための力を手に入れるまで、俺は絶対に止まらない」

 

 彼の言葉には、血の滲むような執念が宿っていた。

 それは、恵まれた一族に生まれ、才能だけで全てを解決してきた孫臏には、到底理解できない重く暗い感情だった。

 だが、孫臏は龐涓を恐れることも、否定することもなかった。彼女は桃をかじりながら、にっと悪戯っぽく笑って、龐涓の背中をバンッと強く叩いた。

 

「痛ッ、何をする!」

 

「龐涓は、ちょっと肩に力が入りすぎ! でも、そういう泥臭いところ、私は嫌いじゃないよ」

 

「……は?」

 

「龐涓が泥だらけになって敵の壁を壊して、私がその後ろからすーっと綺麗な道を作ってあげる。私たちが二人で組めば、きっと天下無敵の大将軍と大軍師になれるわよ! ね?」

 

 無邪気に、そして絶対の確信を持って告げられたその言葉に、龐涓は呆気にとられた。

 自分のような身分も低く、野心にまみれた男を、この光り輝くような天才は、心から「対等の相棒」として認めているのだ。

 

「……ふん。お前のようなお転婆に背中を任せたら、いつ後ろから落とし穴に蹴り落とされるか分かったもんじゃない」

 

 憎まれ口を叩きながらも、龐涓の顔からは険しい毒気が抜け落ちていた。

 彼は差し出された桃を口に運び、その甘さに少しだけ口元を綻ばせた。

 もし、このまま二人で下山し、同じ国に仕えることができたなら。あるいは本当に、彼女の言う通り、歴史に並び立つことのない最強の双璧になれるのではないか。

 龐涓の胸の内に、そんな温かな未来の幻影が、ほんの僅かだが確かに芽生えていた。

 

「さあ、帰ろ! 早くしないと、お師匠様に夕飯抜きにされちゃう!」

 

「おい、走るな! 転んで怪我でもしたらどうする!」

 

「平気平気! 私の脚は、天下で一番丈夫なんだから!」

 

 夕日に照らされた森の中を、小鹿のように軽やかに駆け抜けていく孫臏の背中。

 龐涓は、重い薪を背負いながら、その眩しい背中を追いかけて走り出した。

 

 ――そして、夜。

 月明かりに照らされた庵の縁側で、鬼谷子は冷めた茶をすすりながら、遠くの小屋から聞こえてくる二人の弟子の笑い声を聞いていた。

 

「……平和なものだな。シロよ」

 

 足元に侍る白蛇が、同意するように小さく喉を鳴らす。

 

「共に学び、共に笑い、同じ未来を夢見る。人間が持つ、最も美しく、儚い『青春』の輝きだ」

 

 鬼谷子の漆黒の瞳には、一切の感情が浮かんでいない。

 ただ、彼の背に刻まれた『思想鍵紋』だけが、残酷な未来の演算結果を仄青い光として明滅させていた。

 

 彼は、知っている。

 いや、彼が自らの手で組んだ盤面なのだから、知っていて当然だった。

 

 龐涓の心に芽生えた温かな友情は、下山して外界の「権力」という毒気に触れた瞬間、醜い嫉妬と劣等感に反転し、狂気に変わるということを。

 そして、どこまでも遠くへ行けると信じて疑わない、孫臏のあの美しく健やかな両脚は。

 数年後、彼女が誰よりも信頼した相棒である龐涓の手によって、無残にも切断される運命にあるということを。

 

「存分に笑い合い、絆を深めるがいい。その絆が深ければほど、それが裏切られた時の『絶望』は、神代を終わらせるための極上の熱量となる」

 

 歴史の調律者は、静かに目を閉じた。

 鬼谷の底で育まれる、優しく、ゆったりとした青春の日常。

 それは、やがて訪れる血塗られた悲劇を最高潮に引き立たせるための、残酷なほどに美しい「前奏曲」に過ぎなかったのである。

 

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