縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

7 / 24
第五節:嫉妬と臏刑(前編)――泥に塗れた星と、無垢なる太陽

 鬼谷の深い霧を抜け、龐涓(ほうけん)が俗世である中原の地へと足を踏み出してから、数年の歳月が流れていた。

 同期である孫臏(そんぴん)よりも一足早く下山した龐涓は、故国である魏(ぎ)へと向かった。当時の魏は、戦国七雄の中でも中央に位置し、四方を強国に囲まれた過酷な地政学的条件にあったが、それゆえに強力な武力と知恵を渇望していた。

 龐涓は、鬼谷子から授かった「兵法」を武器に、瞬く間に魏の軍部で頭角を現した。

 鬼谷子の教える兵法とは、単なる陣形の組み方や騙し討ちの技術ではない。

 

 それは、大地の奥深くを流れるエネルギー(龍脈の気)を読み取り、戦場という限られた空間の「物理法則」を自軍に有利なように書き換えてしまう、一種の大規模な魔術であった。

 通常、人間の軍隊がぶつかり合えば、勝敗を分けるのは兵士の数や士気、武器の鋭さである。

 しかし龐涓の戦い方は、極めて論理的であり、同時に冷酷な「システム」であった。彼は兵士の一人一人を、巨大な魔術陣を描くための点として配置する。軍隊全体の陣形をひとつの『結界』へと変えてしまうのだ。

 

 例えば、歩兵たちが指定された幾何学模様に並び、隙間なく盾を構える。すると、大地の気が陣形を通って流れ込み、単なる木の盾が「分厚い岩の城壁」に等しい強度を持つ防壁へと変質する。弓兵が陣形の中心から矢を放てば、風の気が矢にまとわりつき、まるで意志を持った嵐のように、敵軍の急所へ正確に降り注ぐ。騎馬隊が駆ければ、その足音に大地の脈動が同調し、局所的な地震を引き起こして敵の陣足を崩す。

 

 これこそが、人間たちの血みどろの戦場に、強引に自然の力(魔術)を適用する『鬼谷の兵法』の真髄であった。神代の怪異や呪術師の呪いに頼る古臭い他国の軍隊を、龐涓は人間の理によって一方的に蹂躙していった。

 

 趙を討ち、韓を退け、東の斉の軍勢すらも打ち破る。

 無敗の快進撃を続ける龐涓を、魏の王である恵王は手放しで絶賛した。貧しい村の出であった彼は、またたく間に最高位の将軍職にまで登り詰め、金銀財宝、広大な領地、そして万の軍勢を己の意思一つで動かす絶対的な権力を手に入れたのである。

 

「俺は、成し遂げた……! 俺の力で、俺の血の滲むような努力で、この天下の頂点に手をかけたのだ!」

 

 黄金の装飾が施された豪奢な鎧に身を包み、大梁(たいりょう)の都を見下ろす高台から、龐涓は己の領土と軍勢を見渡して歓喜に打ち震えた。

 彼の泥臭い野心は、ついに花開いた。歴史の表舞台の中央に立ち、誰もが己の名前を畏怖と共に口にする。これこそが、彼が鬼谷の地獄のような結界を乗り越えてまで求めた、絶対的な「栄光」であった。

 しかし。

 栄光の絶頂は、同時に「限界」への到達でもあった。

 将軍となって三年が過ぎた頃から、龐涓の無敗の歯車は、ほんの僅かずつ、しかし確実に狂い始めていた。

 中華の大地は広大であり、人間の欲望や業が入り乱れる戦場は、鬼谷の箱庭のように単純なものではなかった。他国もまた、強力な呪術師や、変則的な戦術を用いる奇才を戦場に投入し始めたのである。

 龐涓の作り出す「結界としての陣形」は完璧だった。完璧すぎるがゆえに、一度「予測不能な一手」を叩き込まれると、その修正に膨大な時間と精神力を消費してしまうという致命的な弱点を抱えていたのだ。

 南の強国・楚との国境での小競り合い。龐涓の展開した鉄壁の『方円の陣』は、楚が放った泥沼の地の利を活かしたゲリラ戦術と、神代の毒蛇を使役する呪術の前に、思わぬ苦戦を強いられた。

 勝つには勝った。だが、自軍の被害は想定の三倍に及び、戦線の維持には三日三晩、一睡もせずに陣頭指揮を執り続けなければならなかった。

 

「……ッ、なぜだ! 俺の計算に狂いはなかったはずだ! なぜ、あの愚鈍な楚の兵どもごときに、俺の完璧な陣形が揺るがされる……!」

 

 大本営の天幕の中、龐涓は血走った目で戦術地図を睨みつけ、拳から血が滲むほどに机を叩き割った。

 疲労とストレスで、彼の顔には深い皺が刻まれ、若々しかった青年の面影は消え失せ、まるで怨霊に取り憑かれたような凄みと憔悴が同居していた。

 彼は気づき始めていた。

 否、己の凡庸さを誰よりも恐れていた彼だからこそ、誰よりも早く直感してしまっていたのだ。

 自分には、これ以上の高みへと登るための『翼』がないということに。

 泥臭く大地を踏みしめ、重力を無理やりねじ伏せるように陣形を組むことしかできない自分の兵法では、いずれこの混沌とした戦国の濁流に飲み込まれ、破綻する。時代を動かす本当の「天才」たちとは、次元が違うのだと。

 極限の疲労の中、龐涓の脳裏に、いつかの鬼谷の風景がフラッシュバックした。

 

『龐涓の陣形、すっごく綺麗。でもね、綺麗すぎるから、どこから崩せばいいかすぐ分かっちゃうの』

 

 あの、鈴を転がすような笑い声。

 自分とは対極の、ただ風に乗るように自然体であり、水のように如何なる状況にも形を変えて適応してしまう、あの底知れぬ純粋な才能。

 

「……孫臏」

 

 無意識に、その名前が口をついて出た。

 嫉妬ではなかった。その時、龐涓が抱いたのは、純粋な「救済への渇望」であった。

 彼女がいれば。あの常識外れの直感力で、俺のガチガチに固まった陣形に「柔軟な水の流れ」を与えてくれたなら、俺の軍隊は誰にも破られることのない、真の無敵となる。

 かつて彼女が言った『龐涓が泥だらけになって敵の壁を壊して、私がその後ろからすーっと綺麗な道を作ってあげる』という約束。

 龐涓は藁にも縋る思いで、魏王に奏上し、鬼谷の地へ莫大な贈り物と共に使者を送った。「どうか、我が同門の同期・孫臏を、魏の客将として迎え入れていただきたい」と。

 数ヶ月後。

 魏の都・大梁に、一人の少女がやって来た。

 

「わあーっ! すごいすごい! 人がいっぱい! 建物が大きーい!」

 

 豪奢な王宮の正門。何百人もの完全武装した近衛兵たちが立ち並ぶ威圧的な空間の中を、その少女はまるで近所の野原にでも散歩に来たかのような、軽やかで跳ねるような足取りで入ってきた。

 身につけているのは、鬼谷にいた頃と変わらない、動きやすい麻の衣。何よりも目を引いたのは、その健康的な両脚である。長い旅路を歩いてきたはずなのに、疲労の色など微塵もなく、大地を蹴るたびに生命の喜びが弾けているかのようだった。

 

「ひさしぶり! 龐涓、元気にしてた!? 将軍様になったんだってね、すごいすごい!」

 

 玉座の傍らに立つ龐涓を見つけるなり、孫臏は破顔し、王の御前であることも忘れて無邪気に手を振った。

 周囲の廷臣たちが「無礼な小娘め」と眉をひそめる中、龐涓は言葉を失っていた。

 変わっていない。何一つ、彼女は変わっていなかったのだ。

 自分は権力と血に塗れ、神経をすり減らしてこんなにも醜く老け込んだというのに、彼女は鬼谷で一緒に桃を採っていたあの日のまま、全く濁りのない純粋な光を放っていた。

 

「……よく来てくれた、孫臏。お前の力が必要だ。俺と共に、この魏を天下の覇者へと導いてくれ」

 

 龐涓は、なんとか顔に引き攣った笑みを貼り付け、彼女を歓迎した。

 魏王もまた、鬼谷子の直弟子である彼女を大いに歓待し、客将としての地位を与えた。

 その夜、龐涓は自らの屋敷で孫臏と数年ぶりの酒を酌み交わした。積もる話は尽きず、あの日の温かな友情が確かに蘇るのを感じた。彼女の力を得て、再び己の栄光の歯車が回り始めることを、龐涓は少しも疑っていなかった。

 ――だが、その希望は、あまりにも残酷な形で打ち砕かれることとなる。

 数日後、魏の軍議の場。

 龐涓は、長年頭を悩ませていた斉との国境における防衛線の構築案について、諸将と共に議論を交わしていた。

 地形は複雑に入り組み、大地のエネルギーが暴走しているため、龐涓の得意とする「結界陣形」が展開できない難所である。三つの城塞をどのように連携させ、補給線を確保するか。龐涓が何日も徹夜して練り上げた幾つもの作戦案を前に、諸将は唸り声を上げていた。

 

「この地脈の乱れを抑え込むには、さらに五千の兵を魔力供給の人柱として防壁に回すしかあるまい」

 

 龐涓が苦渋の決断としてそう述べた時だった。

 部屋の隅で、退屈そうに軍略の地図(箱庭)の砂をいじっていた孫臏が、ぽつりと呟いた。

 

「えー? そんなに兵隊さんを置いたら、ご飯を運ぶのが大変じゃない? それに、そこって雨が降ると水が溜まりやすいから、陣形が足元から腐っちゃうよ」

 

 議場が水を打ったように静まり返った。

 最高司令官である龐涓の案を、昨日来たばかりの小娘が真っ向から否定したのだ。龐涓の額に、ピクリと青筋が浮かんだ。

 

「……孫臏。これは実戦だ。鬼谷の遊びではない。現に大地の気が乱れておるのだ、こちらの陣形を強固にして力で抑え込む以外に道はない」

「ううん、力で抑えるから反発されるんだよ。ほら、見てて」

 

 孫臏はとことこと箱庭の前に歩み寄ると、地図の上に置かれていた魏の軍勢を示す駒を、無造作に二つ、三つと取り除いた。

 

「防衛線を下げるの。ここ。この谷の入り口まで引けば、大地の荒れた気は山にぶつかって自然に左右へ分かれるから、少ない兵士の数でも十分に強固な結界が張れるでしょ?」

「馬鹿な! そこまで後退すれば、二つの村を敵に明け渡すことになる!」

「村の人は城の中に避難させればいいじゃない。それにね、敵がその村の跡地に陣を敷いた時、この山の上から水攻めにすれば、陣形も地脈ごと一気に押し流せるよ。ほら、これなら味方の兵隊さん、一人も死ななくて済むでしょ?」

 

 孫臏の指先が、箱庭の上をすーっと撫でる。

 瞬間、箱庭の砂が魔力に反応して動き出し、彼女の言う通りの戦況シミュレーションが視覚化された。

 圧倒的な力で攻め寄せる敵軍が、地形と水の流れという「自然の理」を利用した罠に嵌まり、一瞬にして壊滅するビジョン。龐涓が何日も頭を抱えていた地脈の乱れすらも、逆に敵を飲み込むための巨大な兵器として完璧に計算(コントロール)されていた。

 沈黙。

 そして、爆発的な感嘆の声が議場に響き渡った。

 

「おおおおッ……!! な、なんという神算鬼謀! 我が軍の損害をゼロに抑え、敵を地の利ごと粉砕するとは!」

「流石は鬼谷子の愛弟子! まさに天の知恵よ!」

 

 歴戦の将軍たちが、次々と孫臏の前に平伏し、その才能を褒め称えた。

 玉座に座る魏王もまた、身を乗り出して「素晴らしい! これぞ我が求めていた軍師ぞ!」と手を叩いて喜悦した。

 孫臏は「えへへ、そんな大したことじゃないよー」と、相変わらず無邪気に笑っていた。

 彼女には、悪気など一切ない。ただ見えた答えを、口に出しただけなのだ。龐涓を侮辱しようという意図も、己の才能をひけらかそうという野心も、微塵も存在しない。

 だからこそ。

 その一切の悪意のない純粋な天才性が、龐涓のプライドという名のガラスの城を、粉々に叩き割った。

 

(……あ、あ……)

 

 龐涓は、歓声に沸く議場の中で、ただ一人、世界の音が遠ざかっていくのを感じていた。

 胸の奥が、物理的に抉り取られたように痛い。

 呼吸がうまくできない。視界が明滅し、周囲の将軍たちの声が、すべて自分を嘲笑する呪詛のように聞こえてくる。

『見ろ、あの苦労人の龐涓が何日も徹夜して作った無能な作戦を、あの娘は数秒で論破してしまったぞ』

『龐涓はもう用済みだ。これからは孫臏様の時代だ』

 幻聴だ。そんなことは誰も言っていない。

 だが、龐涓の精神は、すでにその事実を受け入れてしまっていた。

 自分が血反吐を吐きながら、他人の何倍も努力して、ようやく辿り着いた限界の壁。

 それを、この小娘は、あろうことか『息を吸って吐くような自然な動作で』軽々と飛び越えてみせたのだ。

 彼女のあの美しく健やかな脚から見れば、自分の泥臭い歩みなど、地を這う虫の足掻きに等しい。

 

「……見下しているのか」

 

 その夜。

 月明かりの差し込む執務室で、龐涓は酒瓶を握り潰し、血の滴る手で顔を覆いながら、うめき声を上げた。

 彼の内側に、どす黒い、ヘドロのような『感情』が溢れ出していた。友情も、感謝も、すべてが毒に侵されていく。

 孫臏のあの笑顔。あの明るさ。

 『龐涓が壁を壊して、私が道を作る』というあの約束。

 かつては温かな未来の象徴に思えたその言葉が、今や全く別の意味を持って龐涓の脳内を駆け巡っていた。

 

「……あいつは、俺を『自分のための露払い』だと、最初から見下していたんだ……! 俺に泥を被らせ、自分は安全な後ろから、綺麗な姿のまま天下を動かす気だったのだ……!!」

 

 完全なる被害妄想。狂気の論理への飛躍。

 だが、野心に憑りつかれた彼にとって、それは自らの精神を崩壊させないための、唯一の防衛本能だった。孫臏の才能を正しく評価してしまえば、己の存在価値が完全に否定されてしまうからだ。

 このままでは、魏の軍部はすべて孫臏に掌握される。

 歴史に名を刻むのは彼女であり、俺は『孫臏を引き立てるための無能な前座』として、永遠に歴史の影で嘲笑われることになる。

 

「俺は、奪われる側にはならない……。絶対に、俺の栄光を、誰にも渡さない……!!」

 

 闇の中で、龐涓の双眸が、かつて鬼谷の結界を破った時のあの野獣のような、いや、それ以上に醜悪な狂気の光を放った。

 殺す。いや、ただ殺すだけでは足りない。

 それでは魏王が不審に思い、自分の立場が危うくなる。何より、あの腹立たしいほどに軽やかな両脚で、自分の頭上を飛び越えていった彼女の『誇り』を完全にへし折らなければ、俺の心は永遠に救われない。

「あの脚だ……。大地を軽やかに蹴り、俺を置き去りにしていく、あの忌まわしい健脚……」

 龐涓の脳内に、一つの恐ろしい策が閃いた。

 人間の尊厳を根底から破壊し、二度と歴史の表舞台に立てなくするための、絶望の檻。

 

「……待っていろ、孫臏。お前には『特別』な場所を用意してやろう。俺の足元で、一生、地を這う虫として生きるための、泥に塗れた檻をな」

 

 第一世代の二つの才能。

 共に天下を夢見た青春の輝きは、醜悪な嫉妬という猛毒によって完全に焼き尽くされた。

 翌日、龐涓は魏王の私室へと密かに赴き、口元に毒蛇のような笑みを浮かべながら、「孫臏の斉への内通の証拠(捏造)」を吹き込むための、狂気に満ちた策謀を始動させたのである。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。