縦横家の祖 鬼谷子   作:お腹ぽんぽん

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第五節:嫉妬と臏刑(後編)――泥土の底からの脱出、そして怪物の覚醒

 

 絶望の座敷牢に幽閉されてから、どれだけの月日が流れただろうか。

 孫臏(そんぴん)は、薄暗い部屋の隅で、与えられた竹簡に向かって虚ろな目で筆を走らせていた。

 書いているのは、鬼谷の師から授かった兵法の極意。大地の気の流れを読み、局所的な天候すらも操る陣形の理論。龐涓(ほうけん)は数日に一度やって来ては、彼女が書き上げた竹簡を満足げに奪い取っていく。

 

(……これをすべて書き終えた時が、私の死ぬ時だ)

 

 孫臏の極限まで研ぎ澄まされた頭脳は、残酷な未来の予測をすでに弾き出していた。

 龐涓は、自分を生かしておくつもりなど毛頭ない。彼が欲しているのは「自分を脅かさない形になった孫臏の知識」だけであり、知識を搾り尽くした後の用済みの肉塊は、秘密裏に処分されるのが必定である。

 時間を稼ぐために、わざと筆を遅くし、無駄な記述を混ぜ込んで提出しているが、それも長くは誤魔化しきれないだろう。

 

(死にたくない。……ここで、こんな泥のように無惨に死にたくない)

 

 かつて世界を駆け回ることを夢見た純粋な少女の魂は、臏刑(ひんけい)の激痛と親友の裏切りによって、一度完全に破壊された。

 しかし、砕け散った精神の破片の奥底で、彼女の『天才としての生存本能』だけが、どす黒い炎のようにチロチロと燃え続けていた。

 

 ある日、龐涓が竹簡の進み具合の遅さに苛立ち、彼女の頬を強く殴り飛ばした時だった。

 床に転がり、口の端から血を流した孫臏は、突如として奇妙な笑い声を上げ始めたのだ。

 

「あはは……あはははは! お星さまが落ちてくる! 龐涓、逃げて、お星さまが頭を割りに来るよぉ!」

 

「……何をごまかしている。ふざけるな」

 

「うふふ、豚さんだ。豚さんが兵隊さんの服を着て、剣を振り回してる! おかしいの、あはははは!」

 

 孫臏は焦点の定まらない目で宙を指さし、よだれを垂らしながら狂ったように笑い続けた。

 さらには、自らの排泄物を手ですくい上げ、それを壁に塗りたくりながら「陣形だ、これが最強の陣形だ!」と叫び始めたのである。

 

 その異様な光景に、龐涓は思わず顔をしかめて後退した。

「……発狂したか」

 

 無理もない。あれほどの激痛と屈辱を与えられ、暗所に閉じ込められ続ければ、いかに天才の頭脳であろうと崩壊して当然である。龐涓は、泥と糞尿にまみれて笑うかつての親友を見下ろし、確かな安堵と優越感を抱いた。

 

「もう良い。この発狂した肉塊からこれ以上の知識は引き出せまい。だが、王命がある以上殺すわけにもいかん。豚小屋にでも放り込んで、残飯を与えて生かしておけ。天下の奇才が豚と餌を奪い合う姿は、良い見世物になるだろう」

 

 龐涓は冷酷に言い捨て、部屋を出て行った。

 彼が去った後、壁に汚物を塗りたくっていた孫臏の笑い声が、ピタリと止まった。

 虚ろだった彼女の瞳に、氷のように冷たく、恐ろしいほどの理性の光が戻る。

 

(……信じた。あの男の底の浅い優越感を刺激すれば、必ず私の『狂気』を信じ込んで監視を緩める。これで、少しだけ時間が稼げる……)

 

 発狂などしていなかった。

 これは、究極の論理と理性によって導き出された『狂気の芝居』であった。人間の尊厳を完全に捨て去り、豚の餌を食い、泥水を啜ってでも生き延びるための、計算し尽くされた自己防衛。

 彼女はもう、かつての天真爛漫な少女ではない。生きるためならば己の誇りすらも盤上の駒として消費する、冷徹な生存機械へと変貌しつつあった。

 

 それから数ヶ月。孫臏は屋敷の裏手にある豚小屋で、文字通り獣のような生活を送っていた。

 這いつくばって豚の餌を貪り、監視の兵士たちに石を投げられてはヘラヘラと笑う日々。龐涓も何度か確認に来たが、その徹底した狂人ぶりに完全に警戒を解き、彼女を「ただの汚物」として記憶の片隅に追いやっていた。

 

 そして、ついに運命の歯車が動く時が来た。

 魏の都・大梁に、東の強国『斉(せい)』からの使節団が到着したのである。

 

 使節団を率いていたのは、斉の将軍であり、知勇兼備の名将として名高い田忌(でんき)であった。

 田忌は魏王との外交儀礼を終えた後、龐涓の屋敷での宴に招かれていた。宴の最中、田忌がふと庭の奥へ涼みに出た時である。

 庭の隅にある汚い豚小屋の柵越しに、泥まみれになりながらブツブツと呟いている狂女の姿が目に入った。

 

「天は円なり、地は方なり……。水は低きへ流れ、気は高きを打つ。故に、三の兵で十を囲むには、地の理を逆転させる『虚』の結界を……」

 

 その呟きを耳にした瞬間、田忌の足がピタリと止まった。

 彼もまた、歴戦の将である。狂人の譫言(うわごと)と聞き流すには、その内容があまりにも高度な兵法の深奥を突いていたからだ。それは、彼が長年軍略の師から教わってきたどんな兵法書にも載っていない、全く新しい戦術の概念(ロジック)であった。

 

 田忌は周囲に人目がないことを確認し、豚小屋に近づいた。

「……おい。お前は、誰だ?」

 

 狂女が、ゆっくりと顔を上げる。

 泥と排泄物にまみれ、異臭を放つその顔。しかし、前髪の隙間から覗くその双眸は、狂人特有の濁りが一切ない。まるで夜空の星のように澄み切り、すべてを見透かすような極限の理性を宿していた。

 

「……私の名は、孫臏」

 

 泥まみれの唇から紡がれたその声は、驚くほど静かで、知性に満ちていた。

 田忌は息を呑んだ。数年前に魏の客将となり、その後「斉と密通した罪」で処刑されたと噂されていた天才軍師の名。

 

「生きていたのか……! だが、その姿は、そしてその脚は……」

 

「龐涓の、罠です。彼は私の才能を恐れ、両脚を奪い、私をこの泥に沈めました」

 

 孫臏は、柵の隙間から田忌を真っ直ぐに見据えた。

 彼女の異常なまでの直感力は、目の前に立つ田忌という男が、情に厚く、才能を正当に評価できる器の持ち主であることを一瞬で読み取っていた。ここで賭けに出なければ、一生この豚小屋で朽ち果てる。

 

「斉の将軍、田忌様とお見受けします。……私を、斉へ連れて行ってください」

 

「な……魏の厳重な監視下にあるお前を、どうやって連れ出すというのだ! 見つかれば外交問題どころか、私の首も飛ぶぞ!」

 

「問題ありません。明日の朝、使節団が出立する際、龐涓は必ず見送りの儀礼で正門に立ちます。その間、屋敷の裏口の警備は『陽の気』に当てられて死角となる。私は自力で這って、あなたの馬車の底に潜り込みます。あなたはただ、馬車の底板に一枚の布を垂らしておいてくれればいい」

 

 よどみなく、まるで既に見てきた未来を語るかのような正確な戦術指示。

 田忌は、泥にまみれ、両脚を失ったこの少女から放たれる、底知れぬ凄みに圧倒されていた。

 これほどの奇才を、豚小屋で飼い殺しにしておくなど、天下の損失である。何より、彼女の瞳の奥で燃える「反撃の意思」が、武人である田忌の心を強く打った。

 

「……分かった。お前の命、私が預かろう。明日の朝、必ず馬車を寄せる」

 

 翌朝。

 外交の華やかな見送りが行われている王宮の喧騒をよそに、孫臏は屋敷の裏手から、砕かれた両脚を引きずり、両腕の力だけで泥を這って進んだ。

 激痛で意識が飛びそうになる。爪が剥がれ、指先から血が流れる。だが、彼女は決して止まらなかった。

 かつて重力を忘れさせた健脚はもうない。だが、地を這う彼女の精神は、かつての何倍も強靭で、恐ろしいほどの生命力に満ちていた。

 

 指定された場所。田忌の馬車の下。

 垂れ下がった布の中に潜り込み、特殊な細工が施された底板の隙間に身体を滑り込ませた瞬間、馬車がゆっくりと動き出した。

 

 ガタゴトと揺れる馬車の底。埃にまみれた狭い空間の中で、孫臏は魏の城門を抜け、国境を越えていく振動を全身で感じていた。

 脱出は、成功した。

 龐涓の監視網を抜け、自分はついにあの絶望の檻から抜け出したのだ。

 

 緊張の糸が切れ、疲労と痛みが一気に押し寄せる。

 暗い馬車の底で、孫臏の意識はゆっくりと深い微睡みの中へと落ちていった。

 

 ――そして、彼女は夢を見た。

 いや、それは単なる夢ではない。彼女の極限まで研ぎ澄まされた直感力と、歴史を裏側から見つめる『システム』とが、概念的な空間で交差した奇跡の接続であった。

 

 視界を覆う、濃密で深い霧。

 そこは、数年ぶりに訪れる懐かしき場所。いかなる俗世の理も及ばない、あの『鬼谷』の庭であった。

 

「……見事な逃走劇だったな、孫臏」

 

 縁側に座る、雪のように白い肌をした青年。

 全く老いることのない歴史の観測者、鬼谷子が、静かに茶をすすりながら彼女を見下ろしていた。

 

「お師匠様……」

 

 孫臏は、夢の中であっても立ち上がることはできなかった。砕かれた両脚の因果は、精神世界にまで深く刻み込まれているのだ。彼女は這いつくばったまま、かつての師を見上げた。

 

「お前の両脚は、無惨に砕かれた。翼を失い、泥に塗れ、豚の餌を食って生き延びた。あの無垢で純粋だった少女の誇りは、もうどこにも残ってはいない」

 

 鬼谷子の声には、憐れみも、同情も一切ない。ただ、冷徹に事実だけを告げる機械のような響きがあった。

 彼の背中で、青白い光を放つ『思想鍵紋』が微かに明滅している。

 

「世界中を歩き回り、見たことのない景色を見る。それがお前の夢だったはずだ。だが、お前はもう二度と、自らの足で歩くことはできない。歩くための理由を失ったお前は、これから何のために生きる? 残された命を、安全な斉の国で惨めな隠居として費やすか?」

 

 それは、歴史の調律者からの、最終的な「選別」の問いであった。

 ここで彼女が涙を流し、絶望に屈するようであれば、彼女はただの敗残兵として盤面から退場するだけだ。

 

 だが。

 孫臏は、泣かなかった。

 泥だらけの顔を上げ、彼女はゆっくりと、しかし確かな力強さで微笑んだのだ。

 かつての、太陽のように明るく純粋な笑顔ではない。深い深淵を覗き込み、自らもまた深淵の一部となった者が浮かべる、凍てつくような『怪物の笑み』。

 

「……私の脚は、確かに失われました。もう、世界を駆け回ることはできない」

 

 孫臏は、己の動かない両脚を見下ろし、そして再び鬼谷子を真っ直ぐに見据えた。

 

「でも、気づいたんです。私が動けないのなら……『世界の方を、私の手元まで引き寄せればいい』のだと」

 

「ほう?」

 

 鬼谷子の漆黒の瞳に、微かな興味の光が宿る。

 

「龐涓は私から歩く自由を奪い、私を狭い世界に閉じ込めたつもりでいます。ですが、彼は決定的な勘違いをしている。私にとっての『戦場』とは、大地を歩き回って陣形を組むことじゃない。頭の中にある盤面で、全ての因果と気の流れを計算し、完璧な答えを導き出すことこそが私の戦いだった」

 

 彼女の研ぎ澄まされた直感力は、脚という枷を失ったことで、むしろ恐ろしいほどの広がりを見せていた。

 歩けないがゆえに、彼女の意識は天空へと飛び立ち、鳥の視点で戦場全体を俯瞰する究極の「神の目」を獲得したのだ。

 

「私はもう、綺麗な道を作ってあげる優しい少女ではありません。……龐涓。あの男が私からすべてを奪ったのなら、私はあの男の誇りも、軍勢も、命も、その運命ごと盤面の上で完全にすり潰す。彼が二度と立ち上がれない、絶対的な絶望の死地を、私がこの頭脳で構築してみせます」

 

 復讐宣言。

 それは、個人的な怨恨を超えた、一つの極まった「概念」の誕生であった。

 『歩けない天才軍師』という、歴史上類を見ない特異点の覚醒。龐涓の嫉妬という泥濘が、結果として、神代を完全に終わらせるための最高純度の知性を錬成してしまったのである。

 

「……よかろう」

 

 鬼谷子は、満足げに目を細め、静かに頷いた。

 

「水は器に合わせて形を変えるが、極限まで冷やせば、すべてを砕く強固な氷となる。泥土の中で、お前は本物の『怪物』へと羽化したのだな、孫臏」

 

 鬼谷子の背の鍵紋が一際強く輝き、夢の世界の霧が晴れていく。

 それは、師から弟子への、盤面における最終許可であった。

 

「行け。そして見せてみろ。お前たち第一世代が、この中華という盤面にどのような『理』を刻み込むのかを。僕はこの場所から、お前たちの凄惨な殺し合いを最後まで観測し続けよう」

 

「はい。……いってきます、お師匠様」

 

 孫臏が深く頭を下げた瞬間、意識は急速に浮上し、馬車の揺れる感覚と、馬のいななきが現実の音として鼓膜を打った。

 

 ゆっくりと目を開ける。

 馬車の隙間から、眩しい朝日が差し込んでいた。

 すでに魏の領土は遠く後ろへと過ぎ去り、馬車は広大なる斉の大地へと入っていた。

 

「……着いたぞ、孫臏。ここが斉の都、臨淄(りんし)だ」

 

 馬車の底板が開けられ、田忌が手を差し伸べてくる。

 孫臏は、その力強い手を取り、眩しい外界へと引き上げられた。

 新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。彼女を縛り付けていた鎖も、絶望の檻も、もうここにはない。

 

 数日後。

 斉の王宮の片隅で、田忌が腕利きの職人に作らせた特別な椅子が完成した。

 それは、動かない両脚の代わりに彼女の機動力となる、頑丈な車輪を備えた『車椅子』であった。

 

 真新しい車椅子に身を沈め、孫臏は羽扇(うせん)を静かに胸の前で構えた。

 その瞳には、かつての無邪気な光はない。

 あるのは、戦場のすべての因果を読み切り、敵を無慈悲に刈り取る、冷酷にして絶対的な「知」の輝き。

 

 地に堕ちた太陽は、泥の底で極限まで圧縮され、すべてを焼き尽くす暗黒の星として蘇った。

 のちに戦国時代を揺るがし、龐涓との宿命の対決へと至る、車椅子の天才軍師・孫臏。

 彼女の本当の戦いは、この日、この時から始まったのである。

 

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