「野比! また100点だ! 素晴らしい!」
初夏の生ぬるい風が吹き込む、区立中学校の1年3組の教室。
担任の教師の興奮した声が、黒板に反射して教室中に響き渡った。クラスメイトたちの視線が一斉にこちらに向けられる。驚愕、羨望、あるいは得体の知れないものを見るような畏怖。様々な感情が混じった沈黙の中、僕はゆっくりと席を立ち、教卓へと向かった。
「これで入学から全教科、すべてのテストで満点だ。君の頭脳はどうなっているんだ?
職員室でも専らの噂だよ。東大どころか、今すぐ海外の大学に飛び級できるんじゃないかってな」
教師は上気した顔で、赤ペンで大きく『100』と書かれた答案用紙を差し出してきた。 僕はそれを受け取ると、抑揚のない声で短く返事をした。
「ありがとうございます。でも、出題範囲の基礎理論を応用しただけですから。特別なことはしていません」
席に戻る途中、かつては僕を見下していたスネ夫が、気まずそうに目を逸らすのが見えた。ガキ大将のジャイアンですら、今の僕には手出し一つしようとしない。かつて学年一の秀才と謳われた出木杉に至っては、僕の答案を垣間見て、ただ静かに敗北者のような微笑みを浮かべるだけだった。
席に座り、机の上に置かれた満点の答案を見つめる。
数学のテスト。図形の証明問題から、一次方程式の応用まで、余白には僕が暇つぶしに書き込んだ大学レベルの微積分の方程式が並んでいる。こんなものは、今の僕にとって「1たす1」を解くのと大差ない。
(……僕の人生は、ひどく退屈だ)
頬杖をつき、窓の外を眺める。
校庭の木々を揺らす風の軌道、舞い散る葉の落下速度、雲の流れるベクトル。今の僕の眼には、この世界のあらゆる現象が、ただの「数式」と「物理法則のパラメータ」として可視化されてしまう。
先の見えないワクワク感や、未知に触れる驚き。そんなものは、今の僕の日常には欠片も存在しなかった。すべてが予想通りに動き、計算通りに結末を迎える。
これほどまでに世界が色褪せてしまったのは、いつからだったか。
ちょうど2年前。僕が小学5年生の秋。 僕の部屋の、机の引き出しからやってきた青いネコ型ロボットのドラえもんが、未来へ帰った日からだ。
なぜ、彼が未来に帰ったのかって? 簡単なことだ。僕が彼らを、ひみつ道具を、そして彼らが押し付けてくる「未来のレール」を、『必要としなくなった』からだ。
2年前。小学5年生だった僕、野比のび太は、絵に描いたような落ちこぼれだった。
テストは常に0点。運動神経は皆無で、ジャイアンには毎日殴られ、スネ夫には仲間外れにされる。家に帰ればママに長時間の説教を食らい、泣きながら自室の襖を開けては、ドラえもんに泣きつくのが日常だった。
「ドラえも〜ん! ジャイアンがまた僕をいじめるんだ! なんとかしてよ!」 「まったく、のび太くんは少しは自分で努力しようと思わないの!?」
そんな小言を言いながらも、彼はお腹の四次元ポケットから不思議な道具を出してくれた。未来のテクノロジー。物理法則を無視した夢のようなアイテムたち。当時の僕は、それらを使って一時的な優越感に浸り、最後にはしっぺ返しを食らうというループを繰り返していた。
しかし、ある秋の日の午後。 その「決定的な瞬間(特異点)」は、あまりにも唐突に、そして静かに訪れた。
その日、僕は部屋の畳の上で寝転がりながら、一人で「あやとり」をしていた。
勉強もスポーツも駄目な僕にとって、あやとりと射撃だけは、誰にも負けない自信がある特技だった。指先に絡めた赤い毛糸を巧みに操り、複雑な幾何学模様を空中に編み上げていく。「東京タワー」「ほうき星」、そして自作の超高難度技「銀河」。
指先の微細な動きだけで、一本の糸が三次元的な立体構造へと変貌していく。僕はその糸の交差に、無意識のうちに惹きつけられていた。
ふと、開け放たれた窓の外を、一羽の鳥が横切った。
僕は無意識に、指鉄砲を作り、その鳥の軌道を追った。風の抵抗、鳥の羽ばたきの推進力、重力による落下率。西部のガンマンを夢見た僕の脳は、標的を正確に撃ち抜くための「弾道計算」を、完全に直感として行っていた。
その時だった。 視界の中で、僕の指に絡まるあやとりの複雑な「立体構造」と、鳥が飛ぶ三次元の「空間座標」が、ふいに重なり合ったのだ。
(……あれ?)
脳の奥底で、パキリ、と何かが弾けるような音がした。
僕はゆっくりと視線を下ろした。そこには、ドラえもんが未来のデパートから取り寄せて読み散らかしていた、22世紀の『四次元空間ナビゲーション・メンテナンスマニュアル』が開かれたまま落ちていた。
普段なら、見ても全く意味のわからない記号の羅列。
しかし、その時の僕には、そのページに描かれていた「超ひも理論(ストリングス)」の図式と、「多次元空間座標」の数式が、まるで絵本のようにスラスラと理解できたのだ。
あやとりの糸。それは、宇宙を構成する一次元のひも(ストリング)だ。 射撃の弾道計算。それは、対象の未来位置を特定する時間と空間の四次元ベクトルだ。
(なんだ……。そういうことだったのか)
僕の中に眠っていた、あやとりの「空間認識・位相幾何学(トポロジー)」の才能と、射撃の「幾何学的計算・未来予測」の才能。その二つが、未来の物理学という触媒を得て、奇跡的な化学反応を起こした瞬間だった。
「……全部、ただの数式じゃないか」
僕は呟きながら、マニュアルを手に取った。
重力場を制御するタケコプターの揚力計算、空間をねじ曲げるどこでもドアのワームホール方程式、時間を跳躍するタイムマシンのタキオン粒子干渉律。
すべてが、わかる。 手に取るように理解できる。
僕の脳内で、バラバラだった世界の事象が、一本の美しい数式として繋がり合った。凡人の殻を破り、人類の知性の限界を軽々と飛び越え、宇宙の理(ことわり)に到達してしまったのだ。
後に時間管理組織の連中が呼ぶところの、『歴史の特異』が誕生した瞬間だった。
その日を境に、僕の生活は一変した。
まず、学校のテスト。僕は教科書を一度めくるだけで、そこに書かれている内容を完璧に記憶し、さらにその裏にある真理までを見通せるようになった。次の日から、僕のテストの点数はすべて100点になった。最初はカンニングを疑った先生も、僕が黒板で高校レベルの数学を証明してみせると、ただ唖然として口をパクパクさせるだけだった。
次に、ジャイアンとスネ夫。
空き地でジャイアンに胸ぐらを掴まれた時、僕はもう泣き叫ばなかった。ジャイアンの腕の筋肉の収縮率、重心の位置、摩擦係数。すべてが一瞬で計算できた。僕は彼の腕を軽く払い、重心を崩す最小限の力を加えただけだ。それだけで、巨体のジャイアンは面白いように宙を舞い、土管に叩きつけられた。
「な、なんだよのび太……! お前、今何をした!?」 怯えるジャイアンに、僕は冷たく見下ろして言った。
「物理学だよ、ジャイアン。君の攻撃は、あまりにも直線的で効率が悪い。作用反作用の法則を理解すれば、君の力は簡単に君自身に跳ね返る」
ドラえもんのひみつ道具に頼る必要すらなくなった。
いや、むしろ市販のガラクタを改造して、自分で道具を作り始めるようになった。壊れたラジコンのモーターと、ママの使わなくなったドライヤーの部品で、僕は重力を局所的に反発させるホバーボードを組み上げた。
ドラえもんは、そんな僕の変化に戸惑い、恐怖すら抱いているようだった。
「のび太くん……君、本当にのび太くんなの? 僕の四次元ポケットのスペア、勝手に分解して次元圧縮率を再計算してたよね?
あんなの、22世紀の一流の科学者でも難しいんだよ……?」
丸い目を見開いて震えるドラえもんに、僕は笑いかけた。
「簡単なことだよ、ドラえもん。君たちの時代のテクノロジーは素晴らしいけど、ブラックボックス化されすぎている。ユーザーが本質を理解せずに使えるように設計されているから、応用が利かないんだ。僕が少し最適化してあげただけだよ」
そして、別れの日はあっけなくやってきた。 僕が小学6年生に上がる少し前のことだ。机の引き出しから、セワシくんが血相を変えて飛び出してきた。
「おじいちゃん! いや、のび太おじいちゃん! 一体何をしたのさ!?」 「やあ、セワシくん。騒々しいね。君の時代に、何か僕の『影響』が出たのかい?」
セワシくんは、信じられないものを見るような目で僕を見た。 「影響なんてもんじゃないよ! 僕の家の借金が消えたどころか、歴史の教科書が全部書き換わっちゃったんだ!
『21世紀最大の天才・野比のび太。量子重力理論の完成と次元工学の父』って! 僕、今じゃ超大富豪の御曹司だよ!」
僕は満足げに頷いた。 「そうだろうね。僕の計算通りなら、あと3年で現在のエネルギー問題を解決する理論を論文で発表するつもりだから。当然の帰結だ」
「でも、これじゃ……僕がドラえもんを過去に送った意味が……」 セワシくんの言葉に、部屋は静まり返った。
そう、タイムパラドックスの解消だ。
セワシくんがドラえもんを送った目的は、「のび太が残した莫大な借金と不幸な未来を回避するため」だった。しかし今、僕は自らの頭脳だけで、誰の助けも借りずに「完璧な未来」を構築してしまった。
借金はなくなり、ジャイ子との結婚という未来も(悪いが)完全に消滅した。
つまり、ドラえもんがこの時代に留まる「正当な理由(ミッション)」が、根底から消滅してしまったのだ。
ドラえもんは俯き、しばらく黙っていたが、やがて顔を上げて僕を見た。 その顔には、寂しさと、少しの安堵が入り交じっていた。
「……のび太くん。君はもう、僕がいなくても大丈夫だね。立派に、自分の足で歩いていける」
「ああ。君が置いていった未来のカタログやマニュアルのおかげで、僕は世界の真理に気づけた。感謝しているよ、ドラえもん」
「……なんか、僕の知ってるのび太くんじゃなくなっちゃったみたいで、少し寂しいけど。でも、君が幸せになれるなら、それが一番だ。……じゃあね、のび太くん」
「さようなら、ドラえもん。セワシくんにもよろしく」
涙は出なかった。
ただ、論理的な帰結として、彼との同居生活が終わっただけだ。タイムマシンに乗り込み、時空間のトンネルへと消えていく青い背中を見送った後、僕はすぐに机に向かい、未完成だった多次元干渉の方程式の続きを解き始めた。
そして現在。中学1年生の春。
放課後の帰り道、僕は一人で土手を歩いていた。 夕日が街を赤く染め、遠くでカラスが鳴いている。平和で、静かで、完璧にコントロールされた日常。
「……つまらない」
思わず口に出た言葉は、風に虚しく消えた。
すべてが見通せるということは、すべてに驚きがないということだ。僕が何をしても、どんなテストで満点を取っても、それは「僕の知能なら当然の結果」でしかない。
この時代のテクノロジーは、僕にとっては石器時代の道具のように原始的だ。学校の勉強は砂場遊びに等しい。かといって、今の年齢で世界中の学会に論文を送りつけて世界を根底から変えてしまうのも、面倒くさい騒ぎになるだけで何の面白味もない。
(刺激が足りない。この三次元空間の、決められた時間軸の流れの中だけじゃ、僕の頭脳は完全に腐ってしまう)
家に帰り、自室のドアを開ける。 いつもの、変わらない部屋。しかし、僕の視線は自然と、あの場所へ向かっていた。
——学習机の、一番上の引き出し。
かつて、ドラえもんのタイムマシンが出入りしていた空間の入り口。ドラえもんが帰った後、ただの引き出しに戻ったはずのそこには、僕の目にしか見えない「時空間の歪みの残滓」が、微かな素粒子の揺らぎとして残っていた。
「……そういえば、航時法(タイムパトロールの法律)に関するデータも、マニュアルの片隅に載っていたな」
未来の連中は、時間旅行を独占し、彼らの都合のいいように歴史を管理している。彼らが言う「正しい歴史」から外れた者を取り締まる、タイムパトロールという厄介な組織があることも、僕はすでに演算で弾き出していた。
「もし、僕が……この現代のガラクタだけで、あの引き出しの空間をこじ開けたら、奴らはどう動く?」
それは、極めて危険な好奇心だった。
未来の法を犯すというタブー。しかし、その絶対的なタブーこそが、今の退屈しきった僕の心に、数年ぶりの「ワクワク感」をもたらしていた。
「……少し、工作の時間にするか」
僕は眼鏡を押し上げ、部屋の隅に積まれた秋葉原のジャンクパーツの山を見つめた。
僕の人生の退屈を打ち破るための、ささやかな叛逆。それが、あんな巨大な組織との全面戦争に繋がるなんて、いくら天才の僕でも、この時はまだ完全に予測しきれてはいなかった。
(第2話へ続く)