アース指定座標D-1。23世紀、地球。
そこは、かつて一人の丸眼鏡の少年が切り開いた「時間工学」の基礎理論が、数世紀にわたる研究と発展を経て、完全に人類のインフラとして定着した時代だった。
空を覆うのは白亜のメガロポリス。人々は過去の歴史を観光し、未来の資源を前借りすることで、争いのない豊かな生活を享受していた。
だが、その歴史の安定を裏で支え、時には強制的に調整している強大な官僚組織が存在した。
『タイムパトロール(TP)』最高議会。 軌道上に浮かぶ巨大な要塞の最深部で、TPの創設メンバーである最高位の長官たちが、円卓を囲んで極秘の会議を開いていた。
「第四世代の『時空間ナビゲーション・エンジン』の稼働テストは成功だ。これで、我々は過去から未来までの単一の歴史を、ほぼ完璧に管理できるようになった」
白髪の長官が、ホログラムの報告書を見ながら満足げに頷いた。
「しかし、我々の探求はここで終わるべきではない」
別の若き幹部が、野心的な光を宿した目で反論する。
「先月の観測で、我々の時間軸(宇宙)の『外側』に、別の波長を持つ空間が存在する可能性が示唆された。いわゆる平行世界……マルチバースだ。もし我々が次元の壁を突破し、隣の宇宙に干渉できれば、無限の資源と可能性が手に入る!」
「危険すぎるぞ。航時法の基本理念は、あくまで我々の歴史の保護だ。未知の次元に干渉すれば、取り返しのつかないパラドックスを生む危険性がある」
「パラドックスなど、我々の技術力でねじ伏せればいい。すでに次元穿孔ミサイルのプロトタイプは完成している。今すぐ次元の壁に向けて試射を行い、外の景色を見るべきだ」
彼らは驕っていた。
時間という神の領域を完全に解明し、コントロール下に置いたという自負が、彼らに「自分たちが全宇宙で最も進んだ種族である」という錯覚を抱かせていたのだ。
若き幹部がコンソールに手を伸ばし、次元穿孔実験の承認パスワードを入力しようとした、その時だった。
『警告。警告。軌道要塞の内部に、未認可の空間異常を検知』
無機質なアラートが鳴り響き、分厚い特殊シールドで覆われた絶対安全圏のはずの空間が、前触れもなく『黄金色に輝いた』。
「なんだ!? 空間の転送反応か!? 警備部隊、シールドを展開しろ!」
長官たちが立ち上がり、慌てて後ずさる。
しかし、その空間の歪みは、彼らが知るタイムマシンのような「四次元空間を掘り進んでくる」ような出現の仕方ではなかった。
空間そのものが、まるで紙を破るようにペラリと剥がれ落ち、そこから四角い『黄金の光の扉』が形成されたのだ。
「やあ、未来の警察官諸君。少し、よろしいかな」
黄金の光の扉を抜けて、一人の男が会議室に足を踏み入れた。 みすぼらしい暗紫色のローブを羽織り、右手に青いリンゴを持った、ひどく疲れたような目をした男。
『在り続ける者』は、リンゴを一口かじると、唖然とする長官たちを見回してふっと笑った。
「不法侵入は詫びよう。だが、君たちが次元の扉を無理やりこじ開けようとしていたからね。隣人として、少し『苦情』を言いに来たのさ」
「き、貴様、何者だ! どこから入り込んだ!」
若き幹部が怒号を上げ、会議室の四隅から重武装の警備ドローンが一斉に姿を現した。
彼らが装備しているのは、対象の時間を局所的に停止させる重力波スタンガンだ。
「撃て! その侵入者を拘束しろ!」
数発の重力波パルスが、在り続ける者に向かって放たれる。 だが、彼は全く焦る素振りも見せず、左手首に巻かれた奇妙なデバイスを指先で軽くタップした。
『カチリ』。
その瞬間、会議室の時間が「異常な挙動」を見せた。
放たれた重力波パルスが、空中でピタリと静止する。いや、静止したのではない。パルスはゆっくりと後退し、ドローンの銃口の中へと『巻き戻って』いったのだ。
「な……!?」
長官たちが言葉を失う中、在り続ける者は再びテンパッドを操作した。
今度は、警備ドローンたちの装甲が急速に錆びつき、崩れ落ち、一瞬にして数百年の時を経たかのように完全に風化して砂となってしまった。
「野蛮な歓迎だね。まあ、時間をいじり始めたばかりの赤ん坊にはありがちなことだ」
在り続ける者は、砂山の横を通り抜け、長官たちの円卓の特等席にどっかと腰を下ろした。
「四次元空間の航行。タキオンの制御。……確かに、君たちの宇宙の科学技術は素晴らしい。かつて、君たちの時代から数百年前に生きた『一人の天才少年』が基礎を築いただけのことはある」
在り続ける者の口から出た言葉に、白髪の長官が息を呑んだ。
「お前……なぜ、我々の歴史の特異点のことを知っている? お前は、未来からの干渉者か?」
「未来でも過去でもない。私は、君たちの次元の『外側』から来た」
在り続ける者は、リンゴの芯をテーブルの上に放り投げた。
「君たちが、先ほど次元穿孔ミサイルで穴を開けようとしていた、壁の向こう側からだよ」
「次元の……外側……マルチバースの住人だと!?」
若き幹部が震える声で叫んだ。彼らが未知の領域だと思っていた場所に、すでにこれほど圧倒的な力を持つ存在がいたという事実に、彼らのプライドは完全に打ち砕かれていた。
「私の名は……そうだな、今は『在り続ける者』とでも名乗っておこう。君たちに伝えたいことは一つだけだ。次元の壁に穴を開けるのは、絶対にやめたまえ」
在り続ける者の声から、不意に飄々とした響きが消え、絶対零度の冷徹さが会議室を支配した。
「君たちはマルチバースの恐ろしさを知らない。もし君たちが壁に穴を開ければ、他の野蛮な宇宙の連中が雪崩れ込んでくるか、最悪の場合、宇宙同士が衝突して消滅する(インカージョン)。……君たちのこの平和な宇宙が、一瞬で塵になるのを見たいのかい?」
在り続ける者が指を鳴らすと、会議室の空中に、かつてのマルチバース戦争の幻影が投影された。
星々が燃え、宇宙が砕け、すべてを食らう暗紫色の嵐が吹き荒れる地獄の光景。
長官たちは、そのあまりにも巨大な破壊のスケールに、顔から完全に血の気を失い、ただガタガタと震えることしかできなかった。
「わ、わかった……! 壁には手を出さない! だから、我々の宇宙を破壊しないでくれ……!」
白髪の長官が、膝をついて懇願した。
「物分かりが良くて助かるよ。別に、君たちを滅ぼしに来たわけじゃない。私はただ、秩序が守られればそれでいいんだ」
在り続ける者は幻影を消し、再び穏やかな笑みを浮かべた。
「そこで、一つ提案がある。君たちタイムパトロールに、私から『不可侵条約』を結んであげようじゃないか」
「ふ、不可侵条約……?」
「ああ。君たちは今まで通り、この宇宙(アースD-1)の中だけで、自分たちの歴史を好きに管理すればいい。その権利は私が保証する。そして、君たちが私の言うことを守るというのなら、少しばかり便利な『贈り物』を与えよう」
在り続ける者は、懐から銀色のリング状のデバイスを取り出し、テーブルの上に置いた。
「これは、私が作った『タイムドア』の基礎設計データの一部だ。これを使えば、君たちの四次元トンネルよりも遥かに早く、空間座標を直接書き換えて、狙った時代に一瞬で部隊を転送できるようになる。……君たちの歴史管理が、格段に楽になるはずだ」
長官たちの目が、驚愕と、抑えきれない技術的欲求で釘付けになった。
彼らが数百年かけても辿り着けなかった、究極の空間転移技術のコアが、今目の前に差し出されているのだ。
「だ、代償は……何だ?」
「簡単なことだよ」
在り続ける者は、立ち上がり、冷たい目で長官たちを見下ろした。
「絶対に、私たちが管理する領域——『神聖時間軸』と呼ばれる宇宙には、干渉しないこと。このポータル技術には、私の宇宙へは繋がらないように強力なロックをかけてある。もしそれを無理やり解除しようとしたり、再び次元の壁を壊そうとすれば……」
在り続ける者の後ろに、一瞬だけ、すべてを無に帰す巨大な獣、アライオスの幻影が浮かび上がった。
「君たちの宇宙ごと、すべてを剪定する。……約束できるね?」
「……誓う。我々タイムパトロールは、決してあなたの領域には干渉しない。我々の歴史の中だけで、秩序を守ることを約束しよう」
長官は、深々と頭を下げた。
完全なる従属。技術の供与という名の、首輪の装着だった。
「結構。それじゃあ、またどこかで」
在り続ける者は背を向け、再び黄金のタイムドアを開いた。 彼が光の中に消えていく直前。
白髪の長官は、テーブルの下に隠されたコンソールのボタンを密かに押し、会議室の網膜スキャナーを限界まで起動させた。 一瞬だけ、在り続ける者が振り返った。
その顔の骨格、瞳の色、声の波長、すべての生体データが、TP本部の極秘データベースへと転送されていく。
光の扉が閉じ、会議室に静寂が戻った。
「……長官。よろしかったのですか。あんな得体の知れない存在に、屈服するような真似をして……」
幹部の一人が、震える声で尋ねた。
長官は、テーブルの上に残された銀色のデバイス(劣化版タイムドアの基礎技術)を震える手で拾い上げ、ギリッと歯を食いしばった。
「屈服ではない。生存戦略だ。……見ただろう、あの男の次元の違いを。我々が束になっても、指先一つで歴史ごと消し去られていただろう」
長官は、ホログラム・モニターに先ほどスキャンしたばかりの「在り続ける者の顔写真」を投影した。
「だが、ただで首輪をつけられる我々ではない。この男の顔と生体データは、TP最高機密『レベル・オメガ』に登録し、永遠に保管する」
モニターに映し出された、黒人のような骨格を持つ、ひどく疲れたような目をした男の顔。
「対象名、『絶対的上位存在(神)』。……全パトロール隊員に、この男と同じ容貌、同じ遺伝子を持つ者との接触を一切禁ずる。もし我々の歴史にこの男が現れた場合、決して逆らわず、直ちに本部へ報告せよ。……これは、我々が生き残るための絶対のルールだ」
こうして、巨大な木(アース616)を守る絶対者と、別の木(アースD-1)の歴史を管理する警察機構との間に、いびつな密約が交わされた。
TPの職員たちは、この日を境に「多次元の壁を越える」という研究を完全に封印し、与えられた劣化版タイムドアの技術を使って、自らの歴史の取り締まりのみに執着するようになるのである。