「……目覚めたかい、征服者。いや、これからはただの『敗北者』と呼ぶべきかな」
意識が戻る感覚は、まるで泥の海から強引に引きずり上げられるようだった。
自らを「征服者カーン」と名乗った男は、重い瞼をゆっくりと開けた。
視界に飛び込んできたのは、見たこともない奇妙な空間だった。
床は黒曜石のように黒く磨き上げられ、周囲には壁も天井もない。ただ、紫と黄金色に渦巻く星雲のような宇宙空間のドームが、無限に広がっているだけだ。
そして、彼の目の前には、古びた木製の重厚なデスクと、そこに深く腰掛ける男がいた。
カーンは床から身を起こそうとしたが、全身の筋肉が焼けるように痛み、力が入らない。
無敵を誇った紫と緑のアーマーは機能を停止し、彼の生命維持に必要な最低限のエネルギーを供給するだけの重い鉄の塊と化していた。
「……貴様。ここはどこだ。私の艦隊はどうした」
カーンは血の味のする唾を吐き捨て、男を睨みつけた。
みすぼらしい暗紫色のローブを羽織り、右手に青いリンゴを持った、ひどく疲れたような目をした男。あの、暗紫色の雲の奥で見た「もう一人の自分」だ。
「艦隊? ああ、君が大事にしていたあのおもちゃの兵隊たちか。彼らなら、もう存在しないよ。君の軍隊も、君が征服した宇宙も、他の野心的な『私』たちも、すべてね」
在り続ける者は、リンゴをデスクの上に転がし、ゆっくりと立ち上がった。
「私が兵器化した時空を食らう『アライオス』を使って、すべてを無に還したのさ。そして、私は狂った私たちが二度と生まれないように、安全なタイムラインだけを束ねて『神聖時間軸(アース616)』を創り上げた。さらに、それを管理する組織『TVA』も完成した。……つい先ほど、隣の宇宙の警察(タイムパトロール)とも不可侵条約を結んできたところだ」
在り続ける者は、カーンの目の前に立ち、その冷たい目で見下ろした。
「すべては終わった。私の創った秩序は完璧に稼働している。あとは、この城の地下に繋いでおいた君に、直接引導を渡してやろうと思ってね。……ここは『時の終わり』。そして、君の足元はもう、アライオスの胃袋の上だ」
在り続ける者が足を踏み鳴らすと、カーンの足元の黒曜石の床が、ガラスのようにパキンと音を立てて透明に変化した。
その足元、遥か奈落の底で、あの暗紫色の雲が渦巻き、雷鳴のような轟音を立てて時空を削り取っているのが見えた。
すべてを食らう獣、アライオス。 その巨大な口が、最後の獲物であるカーンが落ちてくるのを待ち構えている。
「永遠の虚無の中で、アライオスの餌食となるがいい。さようならだ、征服者」
在り続ける者が指を鳴らすと、透明になった床が完全に崩落した。 カーンは、重力のない空間を真っ逆さまに落下していった。
眼下には、すべてを無に帰す暗紫色の嵐が、巨大な顎を開けて彼を飲み込もうとしている。
(……この私が、こんな……退屈な管理者の引いたレールの上で、ゴミのように消去されるだと……?)
落下しながら、カーンの脳裏を強烈な屈辱と怒りが駆け巡った。 神聖時間軸。TVA。
そんなものは、彼の思い描いた「完全なる支配」に比べれば、あまりにもスケールが小さく、下らない。すべての生命を台本通りに動かすだけの、ただの臆病者の檻だ。
(認めない。私は征服者だ。すべての次元を統べる男だ。こんな獣の胃袋で終わる運命など、絶対に認めない!!)
カーンは、沈黙していたアーマーのシステムに、自らの精神力(脳波)を限界まで叩き込んだ。
『警告。残存エネルギー、5%。生命維持装置をカットしますか?』
「カットしろ! すべてのタキオン粒子を、空間転移モジュールへ回せ!!」
カーンは自らの命を削り、アーマーの最深部に蓄積されていた微小な次元干渉エネルギーを暴走させた。
眼下のアライオスの暗黒の雲が、彼の足先を削り取ろうと触手を伸ばしてきた、その瞬間。
カーンの咆哮と共に、アーマーが最後の輝きを放った。
タキオン粒子が局所的なマイクロ・ワームホールを形成し、アライオスの牙が彼を捕食するコンマ1秒の隙を突き、カーンの体は次元の狭間へと「跳躍」した。
……『ドサッ』。
固い、冷たい金属の床に、カーンの体が叩きつけられた。
全身の骨が軋み、肺から血の混じった空気が吐き出される。アーマーは完全に機能を停止し、ただの重い拘束具と化した。
「……はぁ、はぁ……っ」
カーンは薄れゆく意識の中で、周囲を見回した。 アライオスの嵐はない。在り続ける者の城でもない。 そこは、青白い蛍光灯に照らされた、無機質で薄暗い「牢獄」だった。
(……逃げ切った、か。……だが、ここは……?)
「おい、新入り。空から降ってくるとは、随分と派手な登場だな」
突然、牢獄の鉄格子の外から、合成音声のような警備ドローンの声が響いた。
重武装をした数人の看守たちが、カーンの檻の前に立っている。彼らの制服には、見慣れないエンブレム、砂時計を模したマークが刻まれていた。
「所属時間軸、不明。TVAのデータベースにも該当なし。……おい、お前。どこの次元から迷い込んできた?」
看守の一人が、スタンバトンを鳴らしながら問い詰める。
カーンは、激痛に耐えながらも、口元を歪めて笑った。
(……なるほど。アライオスの虚無からは逃れたが、ここはあの男が作った『TVA』の管理システムの一部か)
在り続ける者は、カーンの記憶をTVAのシステムから完全に消去している。だからこそ、看守たちは目の前にいる男が「神が最も恐れた存在」であることに気づかず、単なる所属不明の異常者として扱っているのだ。
「何言ってんだ、こいつ。頭のイカれたバリアントか。……放っておけ」 看守たちは呆れたように吐き捨て、牢獄の奥へと歩き去っていった。
静寂が戻った薄暗い牢獄の中。 カーンは壁に背を預け、目を閉じた。
体は動かない。手駒もない。 だが、彼の頭脳には「マルチバースのすべての知識」と、「在り続ける者のシステムの弱点」が刻み込まれている。
(笑っていられるのも今のうちだぞ)
数日後。 カーンは牢獄の暗闇の中で、死にかけのアーマーの演算チップを使い、微弱なハッキングを行っていた。
狙うのは、TVAの内部ネットワークだ。 システムの中心部(神聖時間軸の管理データ)は強固なプロテクトがかけられており、いまの装備で破ることは不可能だった。
しかし、TVAが「外部の次元」とやり取りをしている末端の通信ライン、つい先日、在り続ける者がタイムパトロールと結んだばかりの『不可侵条約の通信バイパス』は、驚くほどセキュリティが甘かった。
(……タイムパトロール。アースD-1の歴史を管理する警察機構か)
カーンは、TVAのネットワークを踏み台にして、TPの極秘データベースへと滑り込んだ。
彼らが管理している「正しい歴史」とやらを覗き見れば、TVAを外側から破壊するための何らかの「特異点」が見つかるかもしれないと考えたからだ。
膨大な犯罪者リストや、歴史の分岐データがカーンの脳内に流れ込んでくる。 その中で、一つの「最重要監視対象」のファイルが、彼の目を引いた。
『対象:野比のび太。アースD-1、21世紀のアジア圏に居住』
『状態:歴史の特異点。本来は極めて凡庸な知能であるはずが、未来のテクノロジーとの接触を機に突如覚醒。多次元物理学や時間工学の根源的理論を単独で構築した。……現在、TP上層部は彼がもたらす有益な未来を享受するため、特例として静観中。しかし、彼の知能はすでに我々のテクノロジーを凌駕する危険性を孕んでいる』
カーンは、そのデータに添付された丸眼鏡の少年の顔写真を見つめた。
ただの気弱そうな子供の顔だ。だが、データに記載されている彼が導き出したというタキオン粒子の干渉律や、多次元トポロジーの演算式は、カーンから見ても紛れもない「本物」だった。
(……面白い。在り続ける者が隔離しなかった別の木に、こんな規格外のバリアントが生まれていたとはな。しかも、TPの連中はこの少年の才能を持て余し、自分たちの都合のいいように利用しようとしている)
カーンの天才的な頭脳に、一つの残酷で完璧な『計画』が閃いた。
この牢獄に囚われたままでは、TVAの強固なシステムを内側から食い破ることは不可能だ。
だが、もしこの「野比のび太」という特異点が、自力で次元の壁をこじ開け、このTVAの領域に直接風穴を開けてくれたとしたら?
TVAとTPのいびつな業務提携の裏をかき、この少年を利用して、外側から神聖時間軸の檻をぶち壊させるのだ。
(そのためには、彼に『ほんの少しのきっかけ』を与えてやらねばな。……彼が自力でタイムマシンを完成させ、次元の境界を突破するための、決定的なピースを)
カーンは、牢獄の床に落ちていた看守のテンパッドの破損部品を拾い上げた。 看守が巡回の際、壁にぶつけて落としていったガラクタだ。
彼は自らのアーマーに残されたエネルギーを振り絞り、その部品の分子構造を強制的に書き換えていく。
プランク長さに近いフラクタル構造を刻み込み、超高次元の重力子を圧縮し、無限の熱エネルギーを吸収・保持できる未知の特異物質。
数十分後。激しい疲労と引き換えに、彼の手のひらの上には、親指ほどの大きさの『正八面体のコアパーツ』が完成していた。
「さて、これをどうやって彼のもとに届けるか」
カーンは再びネットワークにアクセスし、TPとの「不可侵条約の通信ライン」を利用した。
TPの監視船が、定期連絡のために開いた微小な空間の綻び。その目に見えない穴に向けて、カーンは自らのアーマーの空間転移モジュールを起動し、コアパーツを射出した。
目標座標は、アースD-1。21世紀の日本。野比のび太の部屋の、机の奥の暗がり。
『シュッ』という微かな音と共に、正八面体の結晶体は次元の壁をすり抜け、時空の彼方へと消えていった。
「……受け取れ、別次元の特異点よ」
カーンはすべての力を使い果たし、再び冷たい牢獄の床に倒れ込んだ。 しかし、その顔には深い満足と、支配者としての傲慢な笑みが刻まれていた。
「お前がそのピースに気づき、退屈な日常を破壊して次元の扉を叩く日を……この暗闇の中で、楽しみに待っているぞ」