青いノイズ混じりの光...TPが誇示していた『模造タイムドア』を抜けた瞬間、僕の五感はかつてないほどの激しい環境変化に晒された。
気圧の急激な変動、重力加速度の不自然な均一化。しかし何よりも僕の脳を揺さぶったのは、この空間に満ちている「時間」の感覚だった。
地球上で当たり前のように流れている、過去から未来への連続したベクトルが、ここでは完全に消失している。時間が「流れている」のではなく、ただ「そこに在る」だけのような、恐ろしいほどの静寂と停滞。
(ここは……時間の外側。物理法則の及ばない、絶対的な隔離空間か?)
光が収まり、視界がクリアになる。 僕の目に飛び込んできたのは、未来的な宇宙ステーションでも、無機質な軍事要塞でもなかった。
「……なんだ、ここは?」
思わず声が漏れた。そこは、オレンジ色と薄茶色を基調とした、ひどくレトロで古めかしい「巨大なオフィス空間」だった。
どこまでも続く果てしないフロアには、木製の事務机が何千、何万と規則正しく並べられている。机の上にあるのは、最新鋭のホログラム端末ではなく、厚みのあるブラウン管モニターと、カシャカシャと音を立てるタイプライターのような奇妙な機械だ。
天井では古びた蛍光灯がジリジリと瞬き、壁には
『すべての時間のために(FOR ALL TIME.ALWAYS.)』
という標語が書かれた、プロパガンダ風のポスターが貼られている。
高度な時間管理施設だというのに、漂っている空気はまるで20世紀中盤の退屈な役所そのものだった。
「歩け。余計なところを見るな」
レグ隊長が、僕の背中を乱暴に小突いた。
しかし、彼の声には先ほどの取調室で見せた威圧感は欠片もなく、どこかひどく萎縮し、怯えているように聞こえた。
僕は歩きながら、周囲を忙しそうに行き交う職員たちを観察した。
彼らは皆、くすんだ茶色のスーツや制服を着て、分厚い紙の書類の束を抱えて早歩きしている。彼らの表情には一切の感情がなく、ただプログラムされた機械のように事務作業をこなしていた。
(一見すると時代錯誤の極みだ。だが……違う。彼らの使っているあの紙やブラウン管、その分子構造には、僕の宇宙の物理法則を根本から超越した高次元の時空制御技術が使われているのではないか……なるほど、わざとだ。外部からのハッキングや量子的な干渉を物理的に無効化するために、超高度なテクノロジーをあえて「アナログな形状」に偽装して運用しているんだ)
僕たちは、オフィスの最奥にある『受付デスク』へと向かった。
そこには、全身を分厚い黒の装甲服で覆い、顔の半分をバイザーで隠したTVAの『ミニットメン』と呼ばれる職員が立っていた。彼の手には、先端がオレンジ色に発光する奇妙な警棒が握られている。
レグ隊長は、そのミニットメンの前に立つと、絶対的な警察権力者とは思えないほど卑屈な態度で頭を下げた。
「タイムパトロール・アースD-1支部より、危険指定バリアントの引き渡しに参りました。対象は野比のび太。未認可での次元穿孔技術の構築および、航時法に対する極めて重大な——」
「はいはい、了解。バリアントの引き渡しね。書類を出して」
ミニットメンは、レグの言葉を途中で遮り、あくびを噛み殺しながら手を出した。
まるで田舎の交番の警官があしからわれたかのような冷淡な態度。レグは顔を赤くしながらも、反論一つできずにホログラム・パッドを差し出した。
ミニットメンはそれを手元のブラウン管モニターの横にあるスキャナーにかざし、ガチャン!と大きなスタンプ(おそらく時空間を固定する何らかの認証?)を書類に押し付けた。
「野比のび太、アースD-1のバリアント。データベースに登録した。彼を例の『未規定の牢獄』に送る。ご苦労だったな。君はもう自分たちの時間軸に帰っていいぞ。あとは我々TVAが引き取る」
「あ、ありがとうございます。……くれぐれも、厳重な管理をお願いします。こいつの頭脳は、我々の理解を超えています。決して甘く見ない方が——」
「我々を誰だと思っている?」
ミニットメンが、バイザー越しの冷たい視線をレグに向けた。
「ここはTVAだぞ。すべての歴史の守護者たる我々のシステムに、エラーなど存在しない。下請けの警察は、大人しく自分たちの管轄だけを見張っていればいい」
レグは悔しげに唇を噛んだが、それ以上は何も言えず、踵を返して青い光の扉へと消えていった。
残された僕は、ミニットメンたちに取り囲まれた。
「さて、生意気な天才坊や。ここでならお前のその頭脳も、ただの肉の塊だということを教えてやろう」
ミニットメンの一人が、僕の首元に分厚い金属の首輪をガチャン!と強引に装着した。
その瞬間、僕の脳内で絶えず行われていた「周囲の空間座標の演算」が、強制的にシャットダウンされた。
(……っ!? なんだこれは。僕の思考そのものが遅くなったわけじゃない。僕の周囲の局所的な『時間の流れ』だけが、完全に固定されている……!)
僕が驚愕に目を見開いていると、ミニットメンは満足げに笑った。
「大人しくなったな。連れて行け。最下層だ」
エレベーターのような昇降機に乗せられ、僕はTVAの最下層へと降ろされた。
上層の明るいレトロなオフィスとは打って変わり、そこは冷たい金属と薄暗い蛍光灯だけが支配する、完全な監獄だった。
ここは、TPのような下請け組織が対処しきれなかった危険人物を放り込んでおくための、忘れ去られたような区画だった。
「入れ」
ミニットメンに背中を押され、僕は薄暗い独房の中に突き飛ばされた。
ブゥン、という低い音と共に、独房の入り口にオレンジ色のエネルギーフィールドが展開され、外への道が完全に閉ざされた。
「ここで永遠に、自分の罪の重さを数え続けろ」
ミニットメンの足音が遠ざかり、牢獄は完全な静寂と暗闇に包まれた。
僕は冷たい床からゆっくりと立ち上がり、首輪の感触を確かめながら、小さく息を吐いた。 恐怖はなかった。
むしろ、TPの背後に存在する「TVA」という組織の圧倒的なスケールと、彼らが扱う神がかったテクノロジーの数々に、僕の知的好奇心は限界まで刺激されていた。
「……さて。どうやってこの首輪を解析して、ここから抜け出そうか」
僕が手首の拘束具の隙間に指を滑らせ、ミニットメンからすれ違いざまにくすねた小さな電子部品を取り出した、その時だった。
「……よもや、この私、数多の宇宙を征服したカーンが、こんな薄暗い独房で子供と相部屋になるとはな。時間の番人どもは、ついにユーモアのセンスまで狂ったらしい」
独房の奥の暗闇から、低く掠れた、しかし圧倒的な威厳を孕んだ男の声が響いた。
僕は動きを止め、暗闇の奥に目を凝らした。そこには、紫と緑の意匠が施された、ボロボロの未来的な重装甲アーマーを着た大柄な男が、壁に背を預けて座っていた。
彼のアーマーは所々が焼け焦げ、完全に機能を停止しているように見えたが、その奥で光る彼の両目は、獲物を狙う猛禽類のように鋭く、知性の光に満ちていた。
「驚かないのだな、少年」
カーンは、面白そうに喉の奥で笑った。
僕は眼鏡を指で押し上げ、手元の部品をいじりながら答えた。
「見かけで判断するのは、知能指数が低い証拠だよ、おじさん。それに、僕をここに放り込んだのはTVAじゃない。『タイムパトロール』っていう、これまたタチの悪いお節介な連中さ」
「タイムパトロール……なるほど。あのアースD-1の下請け警察に捕まったというわけか」
カーンはゆっくりと立ち上がり、僕の方へと歩み寄ってきた。
暗闇に目が慣れてくるにつれ、僕は彼のアーマーの細部が見えるようになってきた。
機能を停止しているとはいえ、その金属の材質、そして表面に刻まれたミクロのフラクタル構造は、僕の脳内に強烈な既視感を引き起こした。
(……間違いない。あのプランク長さの幾何学模様。超高次元の重力子を圧縮するための、特異物質の配列パターン)
僕は手に持っていた電子部品をポケットにしまい、カーンの顔を真っ直ぐに見据えた。
「ねえ、おじさん。一つ聞きたいんだけど」
「なんだ? 死の前に祈りの言葉でも教えてほしいのか?」
「いや。……僕の部屋の机の奥に、あの『正八面体のコアパーツ』を落としたのは、君だね?」
その言葉を口にした瞬間。 カーンの顔から余裕の笑みが消え去り、彼の鋭い瞳が限界まで見開かれた。
「……何だと?」
「不思議だったんだ」
僕は首輪の重みを感じながらも、淡々と推理を口にした。
「あのコアパーツは、明らかに僕の時代の技術じゃない。TPの技術体系とも全く違う。もっと遥かに高度で、根本的な次元の法則をねじ曲げるための物質だった。……そして今、君の着ているそのアーマーの装甲から、あのコアパーツと全く同じ『タキオン干渉の波長』が微弱に漏れている」
僕は彼に向かって一歩踏み出した。
「偶然にしては出来すぎている。TVAのシステムから『所属不明』として放置されている君が、僕の宇宙とTVAを繋ぐ唯一の細い糸……TPの通信回線をハッキングして、僕の部屋にあのパーツを投げ込んだ。僕に自力でタイムマシンを完成させ、この場所(時間の外側)に引きずり込むためにね。……違うかい?」
数十秒の、息を呑むような沈黙。やがて、カーンは天を仰ぎ、低く、腹の底から響くような笑い声を上げ始めた。
「クックック……ハハハハハッ!! 傑作だ!!まさかこれほどとはな!」
カーンは笑いを収め、僕をまるで最高級の宝石でも見つけたかのような熱を帯びた目で見つめた。
「私の蒔いた種に気づくどころか、一瞬でアーマーの構造と波長を視認し、ここまで推理を繋げるとは。……TPの連中が持て余すわけだ。お前は紛れもなく、極上の特異点だよ、野比のび太」
「名前まで知っているんだね。ますます不気味だ」
「警戒するな。お前の言う通り、私がこの死にかけのアーマーの最後の力でTPの回線に侵入し、お前にそのピースを与えた。……お前というイレギュラーを、この強固なTVAのシステムに外側から風穴を開ける『手駒』として使うためにな」
カーンはエネルギーフィールドの方へと歩き、そのオレンジ色の光を忌々しそうに睨んだ。
「私の名はカーン。かつて無数の宇宙を統べ、全次元の支配者となるはずだった男だ。だが、私は気取った独裁者に敗北した。奴は私が再び生まれる可能性を完全に消し去るためだけに、自分の手の届く安全なタイムラインだけを強引に束ねて『神聖時間軸』という檻を作り上げた」
「神聖時間軸……」
その言葉は、僕がTPの連中に対して抱いていた仮説を、完全に裏付けるものだった。
「私の築き上げた帝国も、私の存在そのものも、奴にとっては自分の構築したシステムを脅かすバグだった。だから奴は、時空を食らう獣を使って私を虚無に消し去ろうとした。……私は食われる寸前で次元を跳躍し、この所属不明の牢獄に落ち延びたというわけだ」
その言葉を聞いて、僕の心の中に、静かな、しかし確かな共鳴が生まれた。
「……僕と似ているね」
「ほう?」
カーンが振り返る。
「昔僕はドジでマヌケで、未来から来たネコ型のお世話ロボットに泣きついていた。だけど、ある日気づいちゃったんだよね。誰かに頼るより、自分で数式を導き出した方が早いって」
僕は、あの退屈だった日常を思い出しながら言った。
「小学生のうちに量子力学と時間工学をマスターして、完璧な未来を自力で構築した。そうしたら、どうなったと思う?TPの連中は、僕の知性を危険視し、僕がロボットに頼らなくなったことを『歴史の改竄だ』と言って捕まえに来た」
僕はエネルギーフィールドに歩み寄り、カーンの隣に立った。
「僕の努力も知性も、彼らのシナリオには邪魔だった。誰かが書いた台本通りに動かない人間は、エラーとして処理される。だから僕は、ここに放り込まれたんだ」
「……やはり傑作だな。まさか私と全く同じ理由で檻に入っている者が、そんな子供の姿をしているとはな」
カーンが愉快そうに笑う。
「笑い事じゃないよ。結局、神聖時間軸だろうが正しい歴史だろうが、自分たちの平和と既得権益を守りたい連中が、他人の可能性を無理やり一つに縛り付けているだけじゃないか。……誰かに自分の人生を決められるなんて、僕はもうウンザリなんだ」
「ああ、全くだ。……それで、お前はどうするつもりだ、天才少年?」
カーンは、試すような目で僕を見下ろした。
「このまま大人しく、永遠にこの暗闇で首輪をつけられたまま腐り果てるつもりか?」
「愚問だね。僕の目的は一つだ。僕の才能と未来をエラー扱いした連中を、二度と偉そうな口が利けないようにしてやりたいだけさ。……ねえ、カーン。君をここに閉じ込めたTVAのシステムを破る方法は、あるのかい?」
カーンは目を細めた。
「TVAのシステムそのものは、恐ろしく強固だ。私といえど、この牢獄から直接中枢をハッキングすることは不可能に近い。……だが、私はここへ落ちる直前、奴の技術の『根源的な波長』をこの目に焼き付けた。そして、この牢獄からお前の世界へ繋がる細い通信線(TPの回線)の座標データも持っている」
「なるほど」
僕は、先ほどくすねた電子部品を指先で弾いた。
「君は脱出のための『座標』と『理論』を持っている。でも、それを実行するための動力源や、物理的な細工を行う手段がない」
「そういうことだ」
「なら、話は早い。そこは僕の頭脳と指先で補える。現代のガラクタと看守の盗品、それに君のアーマーの残骸があれば、この首輪を無効化し、空間をこじ開けるだけの『鍵』は設計できるよ」
僕たちは、お互いの目を見つめ合った。
そこにあるのは、友情でも信頼でもない。ただ、「押し付けられた運命を破壊する」という絶対的な反逆心と、互いの卓越した知性に対する完全な理解だけだった。
「契約成立だ、少年よ」
カーンは右手を差し出し、獰猛な笑みを浮かべた。
「我々で、あの忌々しい時間の番人どもを玉座から引きずり下ろし、すべてのルールを書き換えてやろう」
「ああ」
僕はその強靭な手をしっかりと握り返し、不敵に笑った。
「決まった未来も、押し付けられた運命も、もうウンザリだ」
薄暗い次元の狭間の牢獄で、二人の天才の反逆の意志が、完全に一つに重なり合った。
(第14話へ続く)