次元の狭間にある薄暗い牢獄。
静寂と、冷たい金属の匂いだけが充満する独房の中で、僕はミニットメンからくすねた小さな電子部品を、カーンのアーマーの背面に接続しようとしていた。
「おい、少年。私のアーマーの回路は、お前の時代の原始的な電線で繋がるような構造ではないぞ」
カーンが壁に背を預けたまま、訝しげに僕の手元を見下ろした。
「分かってるよ。物理的に繋ぐんじゃない。君のアーマーに残っている『タキオン干渉の波長』と、このTVAの通信部品のもつれを、僕の首輪の演算処理を使って無理やり同期させるんだ。……少し動かないで」
僕は手首の拘束具の隙間から細い銅線を引き出し、首輪の端子と電子部品をショートさせるように繋いだ。
『バチッ!』と微弱な青い火花が散り、僕の首を締め付けていた首輪のロックが、カチリと音を立てて数ミリだけ緩んだ。完全な解除ではないが、これで僕の脳内の演算を阻害する「時間の初期化」プロセスは一時的にバイパスされた。
「よし、第一段階クリア。次だ」
僕は息を吐き、首輪から引き出したコードをカーンのアーマーの外部ポートに押し付けた。
「カーン、君のアーマーのシステムにアクセスするよ。TVAのシステムに風穴を開けるには、まず『ここがどこなのか』、僕たちの現在位置を正確に特定する必要がある」
「無駄だ」
カーンは低く唸った。
「私が一度も試していないとでも思うか?この牢獄に落ちてきた時、私はアーマーの残存エネルギーを使って多次元ナビゲーションを起動させた。だが、結果は……」
僕の脳内に、カーンのアーマーの演算データが直接流れ込んでくる。
僕は目を閉じ、そのデータを多次元トポロジーの数式に変換して、現在の三次元的な座標を弾き出そうとした。
しかし。
『エラー。対象座標、存在せず』
『エラー。時間軸の観測不能。重力波紋、特定不能』
僕の頭の中で、エラーの赤い文字が無限ループを描き始めた。
北も南もない。過去も未来もない。空間の歪みから位置を逆算しようとしても、まるで鏡張りの部屋の中で自分の背中を探すような、完全な矛盾と無限後退に陥ってしまう。
「……なるほど。確かにこいつは厄介だ」
僕は目を開け、眼鏡を押し上げた。
「ここは『宇宙』じゃない。宇宙という球体の外側に広がる、完全に切り離された虚無の空間だ。座標という概念そのものが存在しない。だから、中から外へポータルを開こうとしても、どこにもピントが合わないんだ」
「その通りだ」
カーンは忌々しそうに吐き捨てた。
「ここは奴が作った、絶対的な隔離空間。中からの物理的な脱出は不可能に設計されている。私がTPの回線にアクセスしてコアをお前に投げられたのも、たまたまTPの監視船が外側から『通信の穴』を開けていた一瞬の隙を突いたからに過ぎない」
「つまり、中からドアノブを回せないなら……『外側から鍵を開けてもらう』しかないってことだね」
僕の言葉に、カーンは眉をひそめた。
「外側からだと? バカな。お前を助けに来るような物好きな神様が、外の宇宙にいるとでも言うのか?」
「神様じゃない。……でも、僕の理論をギリギリ理解できる『秀才』なら、一人だけ心当たりがある」
僕はニヤリと笑い、手元のTVAの電子部品を再構築し始めた。
空間座標を特定してポータルを開くほどのエネルギーはない。だが、「ただの音声通信」なら話は別だ。TPがアースD-1とこの牢獄の管理棟を繋いでいる通信回線の微弱なノイズに便乗すれば、僕の時代の電話回線にハッキングすることくらい、この部品と僕の計算力があれば可能だ。
「TPの逆探知システムに引っかかるまで、およそ60秒。……それだけあれば十分だ」
僕は頭の中で、自宅の固定電話の周波数を量子暗号化してダイヤルを回した。
アースD-1。21世紀の日本。野比家。
のび太の部屋は、凄惨な有様だった。 TPの部隊によって破壊された自作タイムマシンの残骸が散乱し、何台ものモニターはひび割れ、焦げ臭い煙を上げている。
その部屋の片隅で、出木杉英才は床にへたり込み、両手で頭を抱えていた。
「のびくん……」
出木杉の全身は、未だに恐怖でガタガタと震えていた。 空間を切り裂いて現れた、重武装の未来人たち。彼らが放つ圧倒的な暴力と、有無を言わさぬ連行。
自分の理解を超える超常的な出来事を目の当たりにし、彼の優秀な頭脳は完全にキャパシティをオーバーし、ショート寸前だった。
自分は何もできなかった。ただ呆然と、のび太が青い光の中に消えていくのを見ていることしかできなかったのだ。
その時、一階の居間から、けたたましい電話のベルが鳴り響いた。
『ジリリリリリリリリッ!』
出木杉はビクッと肩を震わせた。 階段を下る足音が聞こえ、買い物から帰ってきたばかりののび太の母が、怪訝そうな声を出して受話器を取るのが聞こえた。
「はい、野比ですが……え?のび太?あんた、今どこほっつき歩いてるの!?もう夕食の時間よ!部屋にいないと思ったら……」
出木杉はハッとして顔を上げた。 のび太からの電話? ばかな。彼はさっき、未来の警察に逮捕されて、時間の外側へ連行されたはずだ。
「……え?出木杉くんに代わって?どういうことなの、出木杉くんならさっき帰ったと……え?うちの二階にいる?」
出木杉は弾かれたように立ち上がり、階段を駆け下りた。
「お、おばさん!僕です!僕代わります!」
「あ、出木杉くん。まだいたのね。ごめんなさいね、のび太が急にあなたと話したいって……」
出木杉は玉子からひったくるように受話器を受け取り、震える声で耳に当てた。
「も、もしもし……!? のびくんか!?」
『やあ、出木杉。驚かせて悪いね』
受話器の奥から聞こえてきたのは、ひどいノイズにまみれた、しかし間違いなくのび太の落ち着き払った声だった。
「のびくん!君、今どこにいるんだ!?さっきの連中に捕まって……!」
『今、次元の狭間にあるTVAっていう組織の牢獄にいる。……時間がないから、単刀直入に言うよ。出木杉、君に頼みたいことがあるんだ』
「た、頼むって……僕に何ができるんだ!?相手は未来の警察だぞ!僕たちの手におえる相手じゃない!」
出木杉の悲痛な叫びに、受話器の向こうののび太は、小さくため息をついた。
『出木杉。君は、僕が書いた黒板の数式を、たった一度見ただけで理解しかけた。君のその頭脳は、あのTPとかいう三流の警察官たちよりも遥かに優秀だ。……パニックになっている暇はないよ。僕の部屋に戻って、残骸をかき集めるんだ』
「残骸を……?」
『TPの連中は、僕の作った装置の「メインフレーム」を壊しただけで、その裏で稼働していた量子エミュレーションのバックアップ回路までは気づかなかった。僕のノートを見れば、配線の復旧手順が分かるはずだ。……そして、引き出しの奥の「空間の狭間」に、僕がわざと落として隠しておいた『コアパーツ』がある。あれを回収して、装置を再起動させるんだ』
出木杉は息を呑んだ。 あの、すべてを飲み込むような未知のエネルギーを秘めた正八面体の結晶体。あれを、自分が扱うというのか。
「む、無理だよ!僕には君ほどの計算力はない!あのエネルギーを制御できなかったら、この家ごと消し飛んでしまう!」
『君ならできる。僕の書いた数式を信じろ。……装置を再起動させて、あのコアのエネルギーを解放すれば、空間に強烈な「特異点アラート」が発生する。TPの連中は必ずそれを検知して、再び君のところに部隊を送り込んでくるはずだ』
「僕を……囮にするつもりかい?」
『それもある。でも、一番の目的は違う。……君がコアを起動させた瞬間の「空間の歪み」を、僕がこの牢獄から逆探知して、こちらのポータルと繋げる。それが、僕がここから脱出するための唯一の『鍵穴』になるんだ』
ザァァァァァッ!受話器のノイズが、急激に大きくなり始めた。
TPの通信傍受システムが、のび太の不正規なアクセスを検知し、回線を切断しようと干渉し始めているのだ。
『……時間が来た。TPの逆探知が始まる。これ以上は繋げない』
「待って、のびくん!本当に僕にできるのか!?もし失敗したら……」
『出木杉。君は、自分の知性を信じていないのかい?』
ノイズの向こう側から聞こえたのび太の声は、冷酷なまでに透き通っており、出木杉の心の奥底にある「プライド」を正確に撃ち抜いた。
『僕は君を、ただの凡人だとは思っていない。……期待しているよ、出木杉。僕たちの退屈な日常を、君の手で終わらせてくれ』
プツン。 ツー、ツー、ツー……。
電話は、一方的に切断された。 出木杉は、受話器を握りしめたまま、その場で立ち尽くした。
「出木杉くん?のび太、なんて言ってたの?もう、あの子ったらすぐに電話切っちゃって……」
不思議そうに首を傾げる玉子の声が、出木杉の耳には遠く聞こえた。
(……僕の、知性を……信じるか)
出木杉はゆっくりと受話器を置き、深く深呼吸をした。 震えは、止まっていた。
その代わり、彼の眼の奥には、かつて学校のテストで100点を取り続けていた「優等生」としての顔ではなく、禁断の知識に触れ、限界を超えようとする「狂気的な探求者」の光が宿り始めていた。
「おばさん。……のび太くんは、少し遠くの図書館で勉強しているそうです。僕、彼の部屋でもう少し調べ物をさせてもらってもいいですか?」
「あら、そうなの?いいわよ、ゆっくりしていってね」
出木杉は一礼し、再び階段を駆け上がり、のび太の部屋へと飛び込んだ。
破壊されたモニター。焦げた配線。出木杉は床に膝をつき、焦げ跡の残るのび太のノートを開いた。
そこに書き殴られているのは、アインシュタインの相対性理論を嘲笑うかのような、美しくも凶悪な多次元トポロジーの数式群。
「……読める。読めるぞ。のびくんの思考の軌跡が、手に取るように分かる……!」
出木杉は落ちていたハンダごてを握りしめ、装置の修復作業に取り掛かった。 彼の脳内で、眠っていた天才的なロジックが、のび太の狂気と共鳴しながら覚醒していく。
次元の狭間。TVAの未規定の牢獄。
『ピピッ……通信エラー。回線が強制遮断されました』
僕は手元の電子部品を放り投げ、壁に背を預けて深く息を吐いた。
「……終わったよ。これで、外側に『鍵穴』ができるはずだ」
僕の行動を黙って見ていたカーンが、暗闇の中で低い笑い声を漏らした。
「クックック。驚いたな。ここから外の宇宙へ直接干渉できないなら、外の宇宙にいる協力者にエラーを起こさせ、そこにこちらから相乗りするとは。……だが、その協力者とやらは、ただの地球の少年なのだろう?私が作ったコアのエネルギーを、あんな原始的な頭脳で制御できると思うのか?」
カーンの疑念はもっともだった。あのコアパーツのポテンシャルは、下手をすれば太陽系の一つや二つを簡単に消し飛ばす。
だが、僕は全く心配していなかった。
「見くびらないことだね、カーン。あいつは……出木杉は、ただの凡人じゃない。僕を間近で見続けて、それでもなお僕の理論を理解しようと食らいついてきた、世界で唯一の『秀才』だ」
僕は眼鏡の奥の目を細め、エネルギーフィールドを見据えた。
「彼は必ずやり遂げる。僕の数式を読み解き、コアを起動させる。その瞬間、この牢獄の周囲の空間に、必ず座標の『歪み』が生じる。……僕たちは、その一瞬の隙を突いて、ここを破壊して外へ飛び出す」
「いいだろう」
カーンが立ち上がり、その巨大な影が独房の壁に落ちた。
「お前がその頭脳で鍵穴を見つけるというなら、この牢獄の扉を物理的に蹴破るのは、この私が引き受けよう。私のアーマーに残された最後のエネルギー、すべて脱出のための『破壊』に回す」
僕とカーン。
未来の警察に見放された中学生と、すべてを失った征服者。
決して交わるはずのなかった二人のバリアントが、今、時空を超えた出木杉の「覚醒」を信じ、暗闇の中で静かに牙を研いでいた。
『警報。警報。未規定収容セクターにて、不正規な電磁波の乱れを検知。ミニットメン、直ちに該当の独房を確認せよ』
遠くの廊下から、重々しい警報のサイレンと、看守たちの慌ただしい足音が近づいてくるのが聞こえる。僕が強引にTPの回線にハッキングした痕跡が、ついにTVAの監視システムに捕捉されたのだ。
「……お迎えが来たみたいだね。カーン、エネルギーの残量は?」
「ゼロだ。生命維持の機能すらとうに切れている。今のこれは、ただの重い棺桶に過ぎん」
「なら、少しばかり『泥棒』させてもらおうか」
僕は首輪のロックを緩めたままニヤリと笑い、看守からくすねた電子部品のコードを、カーンのアーマーと、独房の入り口を塞ぐエネルギーフィールドの発生装置へと密かに繋ぎ合わせた。
「看守がこの鉄格子を解除しようとした瞬間、システムのエネルギーが逆流して君のアーマーに一瞬だけ流れ込むようにバイパスを組んだ。……撃てるのは、たった一発だ。いけるかい?」
「十分だ。準備運動にはちょうどいい」
カーンは重い足取りで立ち上がり、エネルギーのない両腕のガントレットを入り口へと向けた。
(第15話へ続く)