「……逃げられた、だと?」
アースD-1、22世紀。地球の衛星軌道上に浮かぶTP本部の特務指令室。
その冷ややかな金属の壁に囲まれた空間で、特務捜査官であるレグ隊長は、ホログラム通信のディスプレイから流れてきた報告を聞き、思わず額を押さえて低く呻いた。
『はい。TVAの未規定収容セクターにて、対象バリアントである野比のび太と、同じ独房に収容されていた所属不明の重装甲バリアントが結託し、看守部隊を無力化。突如として発生した外部からの空間座標の干渉を利用し、ポータルを開いて逃走した模様です』
報告を行うTPの通信士の声も、微かに震えていた。
無理もない。絶対的な上位組織であり、「神」とも呼ぶべき存在から技術供与を受けたTVAの施設が、たった一人の中学生と謎の囚人によって物理的に破られたのだ。これは、TPの長い歴史においてかつてない大失態だった。
「だから言ったんだ……!あの少年を、ただの子供だと甘く見るなと!」
レグは怒りに任せてコンソールを強く叩いた。
取調室で対峙した際、のび太の底知れぬ眼差しを直接見た時の悪寒が蘇る。自分たちのポータル技術の不完全さを鼻で笑い、「剪定」という概念に独力で辿り着いていたあの異常な知性。
あんな怪物を、傲慢なTVAの官僚どもは「どうせただの肉の塊だ」と侮り、首輪一つで放置した結果がこれだ。
「それで、奴らはどこへ消えた?TVAのシステムをハッキングして、別のマルチバースへ逃げ込んだのか?」
『それが……』
通信士が口籠もる。
『ポータルのエネルギー波形を逆探知した結果、逃走先は我々の宇宙……アースD-1の内部であることは確実です。21世紀から強烈な特異点アラートが発信され、それが「鍵穴」となってポータルが形成されたようです。ですが、着地座標がひどくブレており……』
レグは眉間を深く揉んだ。 のび太の部屋に残されていた装置の残骸。それを誰かが修復し、起動させたというのか。
だが、そんなことを考えている猶予はなかった。指令室の頭上で、けたたましい非常招集のサイレンが鳴り響いたからだ。
『全特務隊長および最高幹部は、直ちに第1会議室へ集合せよ。TVAとの緊急合同会議を開く』
レグは胃の奥が鉛のように重くなるのを感じながら、指令室を後にした。
TP本部の最深部、第1会議室。
円卓を囲むように座る白髪の長官と数人の幹部たち。そしてその中央には、黄金色のホログラムで投影されたTVAの判事が、腕を組み、見下すような視線を放っていた。
『——事態は極めて深刻だ、アースD-1の警察諸君』
TVA判事の合成音声のような冷たい声が、会議室に響き渡る。
『お前たちが持ち込んできた厄介なガキが、我々の施設を破壊し、未登録の囚人を連れて逃亡した。それも、お前たちの宇宙から強烈なエネルギー干渉が行われた結果だ。我々と結んだ不可侵条約を、お前たちの方から破ったと見なされても文句は言えんぞ』
「お、お待ちください!これは決して我々が意図したことではありません!」
若き幹部の一人が、額に冷や汗を浮かべて弁明する。
「すぐに逃亡者を捕縛し、必ずそちらへ返還いたします!どうか、アライオスの……我々の宇宙の消去だけはお待ちを!」
『ならば、奴らはどこへ逃げた?お前たちの宇宙の内部に逃げたのなら、お前たちの監視網で即座に特定できるはずだろう』
TVAの判事の鋭い詰問に対し、円卓の長官たちは一瞬、不自然な沈黙に陥った。 レグは末席に立ちながら、長官たちの顔色が僅かに土気色に変わったのを見逃さなかった。
(……どうした? アースD-1の内部にいるなら、TPの全時代スキャンをかければ大まかな座標の特定など数分で終わるはずだ。なぜ、すぐに答えない?)
「現在……全力を挙げて特定を急いでおります」
白髪の長官が、微かに声のトーンを落として答えた。
「しかし、奴らが通ったポータルは即席の不完全なものであり、座標がひどくブレていました。おそらく、通常の時間軸からは少し外れた位相の空間に不時着したものと思われます」
『ふん。下請けのポンコツ監視網ではその程度か。我々TVAも独自に捜索部隊を派遣する。奴らは我々のシステムに泥を塗った。見つけ次第、問答無用で剪定する』
ホログラムの通信がプツリと切れると、会議室には重苦しい静寂が降り降りた。
長官は深くため息をつき、テーブルの上の端末を重々しい手つきで操作した。
「……TVAにはああ言ったが、実は、逃亡先の波長データはすでに上がってきている」
「なんだと!?ではなぜ、すぐにTVAに報告しなかったのですか!」
レグが思わず声を上げると、長官は彼を鋭い目で制した。
「報告できるわけがなかろう。奴らが弾き飛ばされた座標は……我々が数百年前に極秘裏に切り離した『隔離セクター』なのだからな」
その言葉を聞いた瞬間、幹部たちが一斉に息を呑んだ。レグもまた、全身の血の気が引くのを感じた。
『隔離セクター』。それは、TPの上層部のごく一部しか知らない、この組織が抱える「絶対に開けてはならないパンドラの箱」だった。
「ば、馬鹿な。あの領域は、TVAの監視網に引っかからないよう、完全に位相をズラして封印したはずです!」
若き幹部が頭を抱えた。
「もし、TVAのハンター部隊が奴らを追ってあのセクターに突入し、あの『中身』を見てしまったら……我々が条約を破り、矛盾を抱え込んでいることがバレてしまいます!」
「そうなれば、我々のアースD-1は丸ごとアライオスの餌食だ」
白髪の長官はギリッと歯を食いしばった。
TVAのルールは絶対だ。一つの宇宙には一つの歴史しか存在してはならない。しかし、TPは過去のある時点で、それを破った。
「……そもそも、なぜあんなエラーを封印などして残しておいたのですか。TVAのルールの通り、完全に剪定すべきだったんだ!」
幹部の一人が、震える声で吐き捨てた。
「軽々しく言うな」
長官は冷酷な目でその幹部を睨みつけた。
「あれを完全に消去してしまえば、我々の宇宙を構成する『根底』そのものが崩壊する危険があったのだ。かといって……我々は今のこの『繁栄』を手放すこともできなかった。その苦肉の策が、あの歪な隔離ボックスだ」
長官は深くため息をつき、テーブルの上の端末を睨みつけた。
「なんという皮肉だ。我々の繁栄のきっかけを作った異常値(野比のび太)が、我々の隠蔽した『過去の泥沼』に落ちるとは。もし奴がそこで『あるべきだった姿』を見て、我々の工作に気づけば……」
「TVAの部隊より先に、何としても奴らを確保しろ!」
長官がテーブルを叩き、レグに向けて冷酷な命令を下した。
「レグ隊長。ただちに極秘の特務小隊を編成し、隔離セクターへ向かえ。TVAのハンターに見つかる前に、野比のび太とあのバリアントを秘密裏に処理するのだ。……我々の秘密を守るためには、もはや手段を選んでいる余裕はない」
「……了解いたしました」
レグは深く敬礼したが、その心臓は不吉な予兆に早鐘を打っていた。
自分たちが立っている「正しい歴史」という土台が、いかに歪で脆いものか。彼は今、それを嫌というほど実感させられていた。
「……それと、長官。もう一つ問題があります」
レグが部屋を出ようとした時、通信士が新たなデータをモニターに投影した。
「21世紀ののび太の部屋で、強烈な特異点アラートを発信し、彼らの脱出のための『鍵穴』をこじ開けた張本人のデータです」
モニターに映し出されたのは、整った顔立ちをした一人の少年の顔写真だった。
『対象:出木杉英才。アースD-1、21世紀のアジア圏に居住』
「この少年は、TPの部隊が突入し、破壊したはずの次元航行装置の残骸をたった一人で復旧させました。のび太が残した難解な数式を短時間で解読し、コアパーツのエネルギーを完全に制御してみせたのです。……その知能レベルは、特異点であるのび太に匹敵する恐れがあります」
「なんと……21世紀には、バケモノが二人もいたというのか」
幹部たちがどよめく中、白髪の長官は鋭い目を細めた。
「レグ隊長。この出木杉という少年は、すでに我々の部隊が現場で拘束しているな?」
「はい。現在、21世紀の現場で取り押さえており、このTP本部への連行準備を進めています。直ちに記憶を消去し、元の時代へ戻しますか?」
「いや、待て」
長官は、冷酷な計算式を弾き出すような顔つきで手を挙げた。
「のび太という規格外の天才を敵に回した今、我々の組織には、奴の思考をトレースし、対抗できるだけの『頭脳』が致命的に不足している」
「長官、まさか……!」
「そうだ。その出木杉という少年を、ただ逮捕して元の生活に戻すのは惜しい。彼の記憶を消すのではなく、我々の管理下で『利用』するのだ。我々のシステムのバグ修正、およびのび太を追い詰めるための『猟犬』としてな」
長官の提案に、会議室の空気が一変した。
過去の人間を拉致し、未来の警察の道具として洗脳・利用するなど、航時法の倫理を完全に踏みにじる行為だ。だが、自分たちの保身と隠蔽工作を守ることに必死な彼らにとって、もはや法など形骸化した建前に過ぎなかった。
「……賛成です。毒を以て毒を制す。のび太を狩るには、のび太に匹敵する知能が必要です」
「可決だ。出木杉英才を、TPの特務技術顧問(囚人)として極秘裏に迎え入れろ」
次々と賛同の声が上がる中、レグは言いようのない寒気を覚えていた。
(この組織は、腐っている……。正義でも秩序でもない。ただの欲深い老人たちの集まりだ)
だが、組織の歯車である彼に反論する権限はない。
「直ちに、出木杉英才を本部へ連行します」
アースD-1、21世紀。野比家。
「そこまでだ! 両手を上げて抵抗をやめろ!」
破壊された部屋の中で、TPの重武装部隊に何本もの銃口を突きつけられながら、出木杉英才はゆっくりと両手を上げた。
彼の背後では、急ごしらえで組み直された装置が、役割を終えて静かに煙を上げている。
「お前がこの装置を起動させたのか。……自分がどれほど危険な真似をしたか、分かっているのか?」
部隊の指揮官が、信じられないものを見るような目で出木杉を睨みつけた。
普通の子供なら、銃を向けられた時点で泣き叫んでいるだろう。しかし、出木杉は違った。
彼の顔には、恐怖の色は一切なかった。ただ、自らの知性が「未来の警察の監視網を出し抜いた」という絶対的な事実に対する、静かな高揚感が宿っていた。
「……成功したんだね。のびくんは、無事に君たちの檻から抜け出した」
出木杉は、銃口の森の中で、不敵な笑みを浮かべた。
「黙れ。貴様を航時法違反の現行犯で逮捕する。22世紀の本部へ連行しろ!」
兵士たちが乱暴に出木杉の腕を掴み、未来の拘束具をはめ込む。しかし、出木杉は抵抗することなく、むしろ自ら彼らの用意した青いポータルへと歩みを進めた。
(連れて行ってくれ、未来の警察。君たちの懐の奥深く……すべてのシステムの中枢へ)
(第17話へ続く)