視界が強烈なオレンジ色の光に包まれ、内臓が裏返るような空間転移の感覚が僕を襲った。
TVAの正規のポータルが静かなエレベーターだとすれば、出木杉が即席でこじ開けたこの「鍵穴」は、暴走するジェットコースターの軌道からそのまま虚空へ放り出されたようなものだった。
「チィッ……!空間の継ぎ目が粗すぎる!座標が安定せんぞ!」
光のトンネルの中で、カーンが忌々しそうに叫ぶ。彼の巨大な体すら、時空の乱気流に木の葉のように揉まれていた。
「耐えろ!出木杉がこじ開けた特異点の波長に、強引にピントを合わせるんだ!」
僕はミニットメンから奪ったテンパッドを両手で必死に抱え込み、オレンジ色の光の奔流の中で目を固く閉じた。
上下左右という三次元的な方向感覚が完全に喪失する。永遠とも一瞬ともつかないそのカオスの果てに、唐突に出口が開いた。
『バチィィィン!!』
強烈な放電音と共に、僕とカーンは空中の何もない虚空から吐き出された。
「うわっ!?」
「ぬぅあっ!」
着地座標の計算が狂っていたのだ。僕たちは地面ではなく、地上から数メートルほど高い空中に放り出された。 重力の法則が即座に僕たちの体を下へと引っ張る。
『ドスゥゥゥン!』という凄まじい地響きと共に、重量級のアーマーを着たカーンが地面に叩きつけられ、そのすぐ横に、僕も無様な姿勢で転げ落ちた。
全身の骨が軋み、肺の中の空気が強制的に押し出される。僕は土埃に塗れながら、咳き込んで身を起こした。
「……ゲホッ、ゴホッ……。生きてるか、カーン」
「……この程度の落下で死ぬようなヤワな体はしていない。だが、着地のスマートさには欠けたな」
カーンは土に埋まった装甲を引き抜き、重々しい金属音を立てながらゆっくりと立ち上がった。
僕は眼鏡のズレを直し、周囲を見回した。コンクリートの塀、雑草の生い茂る空き地、そして、その中央に無造作に置かれた三本の土管。
僕が落ちたのは、見慣れた町の、見慣れた『いつもの空き地』だった。空は茜色に染まり、夕暮れ時のどこかノスタルジックな匂いが鼻をくすぐる。
「ここは……」
僕はホッと息を吐きかけたが、すぐに嫌な予感に襲われ、手元に抱え込んでいたTVAのテンパッドを確認した。
「……ウソだろ」
先ほどまで光っていたオレンジ色のインターフェースは完全にブラックアウトし、画面の端にはヒビが入っていた。ボタンを何度押しても、ウンともスンとも言わない。
「壊れているのか」
カーンが横から覗き込んできた。
「あの中の時空の乱気流に耐えきれなかったんだ。あるいは、落下の衝撃で内部の量子回路が物理的にショートしたか……」
僕は呆れたようにため息をつき、テンパッドを軽く叩いた。
「TVAだか何だか知らないけど、次元を操るほどのテクノロジーを持っているくせに、ハードウェアの耐久性だけは20世紀のアナログ家電並みの時代遅れだな。……まあ、構造の解析には使えるから持っておくけどさ」
僕は完全に沈黙したテンパッドを制服のポケットにねじ込んだ。これで、もう一度ポータルを開いて別の次元に逃げるという選択肢は、当面の間失われたことになる。
「それで、少年。ここはお前の望んだ座標なのか? 見たところ、ずいぶんと原始的でのどかな地球のようだが」
カーンは周囲の景色、昭和から平成にかけての日本の典型的な住宅街の風景を、興味深そうに、そして少し見下すように観察した。
「分からない」
僕は立ち上がり、ズボンの土を払いながら答えた。
「景色は僕が住んでいた21世紀の町と完全に一致している。空気の成分も、重力の値も同じだ。……でも、何か違和感がある」
僕たちは空き地を出て、夕暮れの道を歩き始めた。
幸いなことに、町には人影が少なかった。カーンのような、ボロボロとはいえ紫と緑の未来的な重装甲を着た大男が歩いていれば、普通なら大騒ぎになるはずだ。しかし、すれ違う数人の通行人は、夕飯の買い物に急いでいるのか、カーンの姿を一瞥しただけで、まるで「変なコスプレをした外国人」程度にしか認識していないようだった。
「……違和感とはなんだ。お前の時代の、お前の町なのだろう?」
「そうだよ。だからこそ、おかしいんだ」
僕は歩きながら、脳内に渦巻く論理の矛盾を言葉にした。
「あのポータルは、出木杉が僕の部屋で起動したコアパーツの『特異点アラート』に引き寄せられて繋がった。つまり、この世界には『僕の残した数式』と『天才である出木杉』が存在していなければならない。……でも、もしここが本当に『僕がさっきまでいた現在』なら、僕たちの周囲には今頃、TPの重武装部隊がウジャウジャと包囲網を敷いているはずだ」
TPの監視網が、あれほど強烈なコアのエネルギー暴走を見逃すはずがない。ましてや、次元の狭間から逃亡者が落ちてきたのだ。すぐに空間が歪み、青いポータルが開いて機動部隊がなだれ込んでくるのが自然だ。
しかし、周囲はあまりにも静かで、平和すぎた。
「監視の目がない。……なるほど、つまりここは、お前が元いた時間軸とは『微妙にズレた別の世界』というわけか」
カーンが低い声で同調した。
「出木杉とやらがこじ開けた鍵穴は、エネルギーが不安定すぎた。その結果、我々はお前の宇宙と極めてよく似た、別の『分岐世界』に弾き飛ばされたと考えれば辻褄が合う」
「そこなんだよ、カーン。そこが最大の矛盾なんだ」
僕は立ち止まり、カーンの顔を見上げた。
「……そもそも、僕の宇宙に『分岐世界』なんてものは存在しないはずなんだよ」
「どういうことだ?」
「僕はかつて、過去を変えれば新しい世界線が『分岐』して並行世界が生まれるという多次元宇宙論を証明した。でも、現実にはそれは観測されなかった。なぜなら、TPという未来の警察が、自分たちの都合のいい未来だけを『正しい歴史』として一本道に統合し、それ以外の不要な分岐をすべて『剪定』して消去していたからだ」
僕は再び歩き出し、見慣れた交差点を曲がった。
「もしここが、僕が天才になった世界から分岐した『別の可能性の歴史』だとしたら、TPの連中がそんなエラーを放置しておくはずがない。彼らのルールに従えば、ここはとっくに消滅させられていなければならない世界なんだ」
「……なるほどな」
カーンの瞳に、深い思索の光が宿った。
「TVAが神聖時間軸を維持しているのと同じように、TPの連中もお前たちの宇宙を単一のタイムラインとして管理している。ならば、分岐世界が存在する余地はない。……しかし、現に我々は今、お前の知る現在とは違う『エラーの世界』に立っている」
「そういうこと。TPの管理システムには、彼ら自身も気づいていない致命的な欠陥があるのか……あるいは、彼らが『意図的』にこの世界を残しているのか。……まあ、ここで立ち話をしていても答えは出ない。僕の家に行って確かめるのが一番だよ。出木杉がいるかもしれないしね」
僕たちは足早に住宅街を抜け、野比家の前に到着した。見慣れた表札。少し立て付けの悪い門扉。外観は、僕がTPに連行された数時間前と何一つ変わっていなかった。
「ここがお前の拠点か。随分とこぢんまりとした要塞だな」
カーンが門柱を見下ろして鼻で笑う。
「要塞じゃなくて、ただの日本の一般住宅だよ。……静かだな」
僕はそっと玄関のドアノブに手をかけた。ガチャリ、と音を立てて、ドアがすんなりと開いた。鍵はかかっていなかった。
「邪魔するぞ」
カーンが身を屈めるようにして、狭い玄関に足を踏み入れる。
「しーっ、静かに。ママがいるかもしれない」
僕は靴を脱ぎ、忍び足で廊下に上がった。
しかし、家の中はひっそりとしていた。居間を覗いても、台所を見ても、母親の姿はない。買い物にでも行っているのだろうか。
「……出木杉の気配もないな。TPが突入したような破壊の痕跡もない」
家の中は、あまりにも「日常」のままだった。僕がタイムマシンを作るために買い集めたジャンクパーツの段ボールすら、廊下の隅には置かれていない。
僕は首を傾げながら、階段を一段一段、ゆっくりと上っていった。カーンも僕の後ろに続き、足音を殺して二階へと上がる。
二階の廊下。僕の部屋の襖の前。そこに立った瞬間、僕は中の「話し声」に気づき、ハッと息を呑んだ。
『……だから言ったじゃないか、のび太くん。ジャイアンに逆らうなんて無茶だって』
その声は、合成音声のように少し甲高く、しかしどこまでも人間くさい温かみを持った声だった。
『うわぁぁぁん!ドラえも〜ん!なにか道具を出してよ〜!ジャイアンをやっつける道具〜!』
続いて聞こえてきたのは、情けない泣き声だった。ひどく甘ったれた、誰かにすがりつくことしかできない、哀れな弱者の声。
僕の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。あの声には、聞き覚えがある。いや、聞き覚えがあるどころではない。あれは、紛れもなく「かつての僕自身」の声だ。
(まさか……過去に飛んだのか?)
僕は震える手を伸ばし、襖の縁を掴んだ。そして、一気にスッと開け放った。
「え?」
「ん?」
襖が開いた音に驚き、部屋の中にいた「二人」がこちらを振り向いた。
畳の上にへたり込み、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている、黄色いシャツに半ズボン姿の少年。
その隣で、困ったような顔をしてどら焼きを齧っている、青いネコ型ロボット。
僕の記憶の中にある姿と、寸分違わぬ光景。 小学5年生の『野比のび太』と、『ドラえもん』が、そこにはいた。
「き、君たち……誰?」
泣いていた小5ののび太が、僕と、その後ろに立つカーンの姿を見て、目を白黒させている。
ドラえもんも、どら焼きを口から落とし、呆然として僕たちを見つめていた。
「ほう……なるほど」
僕の背後で、カーンが低く、酷薄な笑い声を漏らした。
「お前が天才に覚醒したのは『小学生の頃だ』と言っていたな。つまりポータルの座標が時間軸の過去方向へブレて、お前の昔の時代に不時着したということか。……傑作だな。あんな頭の悪い泣き声、今の冷酷なお前からは想像もつかないぞ」
「笑い事じゃないよ……」
僕は眼鏡を押し上げ、目の前にいる「過去の自分」と「青いロボット」を、困惑の目で見つめ返した。
確かに、黄色いシャツに半ズボン、そしてドラえもんがいるこの状況は、僕が天才に覚醒する前の「過去」そのものだ。
だが、僕の頭脳は、直感的にある「強烈な矛盾」を弾き出していた。
(もしここが本当に、僕自身の『過去』だとしたら。……僕とカーンという明らかな異常値が過去の自分と接触した時点で、タイムパラドックスによる強烈な時空の揺らぎが発生しているはずだ。TPのアラートが鳴り響き、即座に修正部隊が飛んでこないとおかしい)
それに、部屋のカレンダー。
壁に掛かっているカレンダーの日付は、僕があの『四次元空間ナビゲーション・メンテナンスマニュアル』を読み、天才に覚醒した日を、すでに数ヶ月も過ぎている。
「おいおい……マジかよ」
僕は、その光景を前にして、思わず頭を抱えた。
ここは単なる過去ではない。僕が天才に覚醒せず、ドラえもんに泣きつき続けているという「もう一つの可能性」が、なぜかそのままの形で存在し続けている空間。
TPが一つに統合したはずの歴史の裏側に隠された、巨大なバグの箱庭。
その異常な空間の中で、特異点に進化してしまった中学生の僕と、小学生の僕の、決して交わってはいけない視線が交錯していた。