突然開け放たれた襖の向こうに現れた、見ず知らずの少年と、ボロボロだが威圧感に満ちた重装甲の巨漢。
その異常すぎる光景に、部屋の中の時間は数秒間、完全に凍りついたように止まっていた。
「き、君たち……何者だ!」
静寂を破ったのは、青いネコ型ロボット、ドラえもんだった。
彼は床にへたり込んでいる"のび太"の前にサッと立ち塞がると、短い腕を精一杯広げて彼を庇うような姿勢をとった。その丸い顔には、明らかな焦燥と警戒の色が浮かんでいる。
(……相変わらず、お人好しで過保護なロボットだ)
僕は内心で小さく息を吐いた。
かつて僕がジャイアンにいじめられて泣きついていた時も、ドラえもんはいつもそうやって僕の前に立ち、文句を言いながらも最後には必ず僕を守ろうとしてくれた。
その優しさは、僕が自力で未来を切り開く力を手に入れ、「必要ない」と切り捨てるまで、僕にとっての絶対的なシェルターだった。
「……下がっててのび太くん!この人たち、タダ者じゃない……!」
ドラえもんが焦った様子で、自分のお腹に張り付いた四次元ポケットへと手を突っ込んだ。
未来のデパートから取り寄せた、無数のひみつ道具が詰まった無限の空間。彼の指先が、ポケットの奥にある特定の次元座標へアクセスしようとしているのが、今の僕には手にとるように分かった。
僕はポケットの中の空間位相を頭の中で瞬時に計算し、彼が「どの引き出し」から「何」を取り出そうとしているのかを完全に先読みした。
「見た目は違えど、君なら僕のことが分かるでしょ、ドラえもん。……出す前に言っておくけど、どうせ『空気砲』を出そうとしてるんでしょ。知ってるよ」
僕が静かな声で言い放った瞬間、ドラえもんの動きがピタリと止まった。
彼の手には、すでにポケットから半分ほど引きずり出された空気砲が握られていた。しかし、彼はそれをこちらに構える前に、目を見開いて僕の顔を凝視した。
「え、もしかして……」
ドラえもんの丸い目が、僕の丸眼鏡、顔の輪郭、そして着ている制服をせわしなく行き来する。
彼のAIが、僕の顔の骨格データと、彼の守るべき対象である『野比のび太』の生体データを照合し、一つの結論を導き出そうとショート寸前になっているのが分かった。
だが、そんな感動的な再会の雰囲気を、僕の後ろに立つ男がぶち壊した。
「……ほう」
カーンは、ドラえもんが空気砲を取り出した瞬間、僕とドラえもんのやり取りなど完全に無視して、その『四次元ポケット』を食い入るように見つめていた。
「おい、少年。あの青い小柄なロボット……今、自分の腹のポケットから、その容積を物理的に無視した巨大な兵器を取り出さなかったか? 空間圧縮か?いや、違う。あのポケット自体が、別の四次元空間と直接リンクしているのか……!」
カーンの声には、純粋な驚愕と、科学者としての知的好奇心が入り混じっていた。
無理もない。彼がいた31世紀のマルチバースやTVAの技術ですら、空間を『扉』として開くことはできても、あんな布切れのような安っぽいインターフェース一つで無限の四次元空間と接続し、物質を出し入れするようなテクノロジーは存在しないのだから。
ドラえもんの世界の「時間工学」と「空間工学」は、他の宇宙の常識から見ても極めて異端で、そして恐ろしく高度に洗練されているのである。
「……ん?やる気ならやろうか、青ダヌキ」
カーンは獰猛な笑みを浮かべ、両腕のガントレットをカシャリと鳴らした。
エネルギーはすっからかんのはずだが、彼の巨体から放たれる圧倒的な『征服者』としての殺気は、狭い子供部屋の空気を一瞬で氷点下にまで凍らせた。
「ヒッ……!」
へたり込んでいた"僕"が、小さく悲鳴を上げてドラえもんの背中に隠れる。
だが、カーンのその言葉は、ある意味で最悪の地雷を踏んでいた。
「誰がタヌキだァァァッ!!」
ドラえもんは恐怖を完全に忘れ、顔を茹でダコのように真っ赤にしてブチギレた。
「僕はネコ型ロボットだ!耳がないからってタヌキタヌキって……初対面の人にいきなりタヌキ扱いされるなんて、失礼にもほどがあるぞ!」
ドラえもんは空気砲を振り回し、今にもカーンに向かって衝撃波を放ちそうな勢いで怒り狂っている。カーンは突然のロボットの激昂に、一瞬だけ「なんだこいつは?」という顔をして戸惑った。
「……ぷっ、あはははは!」
僕は、そのあまりにもバカバカしく、そして懐かしい光景に、思わず吹き出してしまった。声を出して笑ったのなんて、一体いつぶりだろうか。
天才に覚醒してからの毎日は、すべてが予測可能で、すべてが論理の枠内に収まっていた。怒ることも、笑うことも、驚くことも、僕の脳の片隅で処理される些細な化学反応でしかなかった。
だが、目の前で繰り広げられる「無知な僕」と「タヌキ扱いにキレるドラえもん」のコントは、僕の冷め切った心に、ほんの少しだけ人間らしい体温を取り戻させてくれた。
「やめなって、カーン。彼を怒らせると、ポケットから地球破壊爆弾(そんなものまで市販されているのがこの世界の狂っているところだ)とか出てきかねないから」
僕は笑いながらカーンを手で制し、ドラえもんの方へと向き直った。
「驚かせてごめんよ、ドラえもん。僕は……君たちの時間から見て、およそ2年後の未来から来たんだ。まあ、正確には『未来』って言うのとは少し違うかもしれないけどね」
僕はポケットから両手を出し、敵意がないことを示しながら、ドラえもんの背中に隠れている過去の自分...小5ののび太に視線を合わせた。
「やあ、昔の自分。泣き顔も相変わらずだね」
「えっ……?に、2年後の……のび太くん?」
ドラえもんは空気砲を下ろし、目をパチクリとさせた。
「たしかに、よく見れば顔はそっくりだけど……でも、だいぶ雰囲気が変わったね。いつものドジで間抜けで、すぐ僕に泣きついてくるのび太くんから、なんだかすごく……賢そうで、冷たい感じに変わったような……」
ドラえもんの素直すぎる感想に、僕は苦笑するしかなかった。
観察眼は正確だ。今の僕と過去の僕では、同じ遺伝子を持っていても、脳の構造から思考回路まで、完全に別の生き物になっているのだから。
「ちょっとドラえもん!どさくさに紛れて、なに僕のことバカにしてんのさ!」
背中に隠れていた過去の僕が、抗議の声を上げた。
そして、恐る恐る僕の方へ一歩踏み出し、ジロジロと下から上まで嘗め回すように僕を観察した。
「で、2年後の僕が、一体何のお使いで来たのさ?ていうか……本当に僕?自分で言うのもなんだけど、明らかに僕と雰囲気が違うような……。僕ってもっと、こう……親しみやすいっていうか……」
「親しみやすいじゃなくて、締まりがないだけだよ」
僕は容赦なく切り捨てた。
過去の自分と対面するというのは、なんとも言えない羞恥心と苛立ちを伴うものだ。あの涙でぐしゃぐしゃの顔。他人に頼ることを前提とした、弱々しい立ち振る舞い。
あれが、ほんの数年前までの僕自身の姿だったなんて。
「まあ、疑うのも無理はないよ。君の頭じゃ、タイムパラドックスだの平行世界だの説明しても理解できないだろうからね」
僕はそう言うと、過去の僕の足元に転がっていた赤い毛糸、先ほどまで彼が遊んでいたであろう、あやとりの紐を指差した。
「それ、ちょっと貸してみ」
「え? ああ、うん……」
小5の僕がポカンとした顔で、赤い毛糸を差し出した。
僕はそれを受け取ると、両手の指に毛糸を掛けた。僕の指先は、僕の脳髄が叩き出す超高速の空間演算と完全に連動している。
「よく見てなよ」
僕の両手が、残像を残すほどの凄まじい速度で動き始めた。 指の屈伸、手首の返し、糸の交差。
それは、ただの遊びの領域を完全に超越していた。かつて僕が天才に覚醒するきっかけとなった「空間位相幾何学」のフラクタル構造を、一本の毛糸を使って三次元空間にリアルタイムでモデリングしていく。
「東京タワー」「ほうき星」「銀河」。 数秒に一回、複雑極まりないあやとりの完成形が虚空に浮かび上がり、また一瞬で解体され、次の形へと変貌していく。
指先に絡まる赤い毛糸は、まるで生き物のように蠢き、僕の意志のままに完璧な幾何学模様を紡ぎ出した。
「うわぁぁぁっ!す、すごい!すごいや!!」
小5の僕が、目をキラキラさせて飛び上がった。
「僕の自作の技『銀河』を、あんな一瞬で……!しかも、もっと複雑になってる!間違いない、あんなあやとりができるのは、宇宙で僕だけだ!本当に未来の僕なんだね!」
「……まあ、あやとりの腕前だけで本人確認ができちゃうのも、のび太くんらしいっていうか……」
ドラえもんも、ようやく肩の力を抜いてホッと息を吐いた。
「やっぱり本物かぁ。よかった。急に見知らぬ人が入ってきたから、びっくりしちゃったよ」
ドラえもんは空気砲を四次元ポケットにしまい込み、いつもの親しみやすい笑顔を浮かべた。
「でも、どうしてわざわざ過去に来たの?」
ドラえもんが質問をしようとした時、彼の視線が、僕の背後に立つカーンの姿でピタリと止まった。
「あ、そうだ。用を聞く前に、まず一つ聞きたいことがあるんだけどさ」
ドラえもんが、ジト目でカーンを指差した。
「この、初対面から人をタヌキ扱いする、ものすごく失礼で怖そうな人は誰?のび太くんの知り合い?」
「ああ、彼のことか」
僕はチラリとカーンを振り返った。
カーンは腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らしている。自分の存在を「失礼で怖そうな人」とロボットに評され、征服者としてのプライドが傷ついているのだろう。
「えっと……彼は、ちょっと遠い未来から来たおじさんで、僕の……友達、みたいなものだよ」
僕はカーンの素性を適当に隠し、当たり障りのない嘘をついた。
「気が短くて口が悪いけど、悪い人じゃないから気にしないで」
「ふん。友達だと? 随分と気安く言ってくれるな、少年」
カーンが低く凄んだが、僕はそれを適当に聞き流した。
「それにしても、ずいぶんとボロボロだね、二人とも。服も汚れてるし……」
過去の僕が、心配そうに僕の制服の泥汚れや、カーンの焦げたアーマーを見つめている。
「……僕たちについて話すと、少し長くなるよ」
僕は部屋の窓際に歩み寄り、茜色に染まった空と、平和すぎる住宅街の景色を見下ろした。ここは、おそらくTPが隠蔽した「隔離された分岐世界」。
僕がタイムマシンを自作したことでTPに追われていること、そしてTVAという巨大な組織が存在すること。それらをこのアホな僕とドラえもんに話したところで、彼らのキャパシティではパニックになるだけだ。
だが、僕たちがTVAの牢獄から逃げ出し、この世界に降り立った以上、遅かれ早かれ「彼ら」は必ず追ってくる。TPの部隊か、あるいはTVAのハンターたちか。
こののどかな箱庭の平和は、もうすぐ跡形もなく粉砕されることになるだろう。
(さて、どう動くか。……この歴史の住人たちを、どう使えばTPの裏をかくことができる?)
僕は窓枠に寄りかかり、かつての僕自身である少年と、ドラえもんに向かって、極めて重々しいトーンで口を開いた。
「実はね、ドラえもん。僕たち……未来の警察から、追われているんだ」