アースD-1、22世紀。地球の衛星軌道上に浮かぶタイムパトロール本部要塞。
その無機質な白銀の回廊を、一人の少年が数人の重武装兵に囲まれながら歩いていた。
出木杉英才。
21世紀から連行されてきたばかりの中学生である彼は、未来の絶対的な警察機構の中枢に足を踏み入れているというのに、その端正な顔に恐怖や混乱の影を微塵も浮かべていなかった。
それどころか、彼の透き通るような知的な瞳は、回廊の壁に埋め込まれたエネルギー伝導管や、すれ違う自律型警備ドローンの挙動を、まるで新しいおもちゃを与えられた子供のように、静かな熱を帯びて観察していた。
(……驚いたな。のびくんの数式から予測はしていたけど、この時代のテクノロジーは本当に『彼が構築した基礎理論』を巨大化させているだけだ。システムのアプローチが21世紀から全く進化していない。……これなら、僕でも十分に『読める』)
「入れ」
兵士に背中を押され、出木杉は一つの巨大なオペレーションルームへと通された。
そこには、円卓を囲むTPの白髪の長官と数人の幹部たち、そして彼をここで待ち受けていたレグ隊長が立っていた。
「よく来たな」
長官は、出木杉の手首に嵌められた拘束具をリモートで解除し、鷹揚に頷いた。
「本来ならば、君は航時法違反の重罪人として記憶を消され、元の時代へ戻されるところだ。だが、君が野比のび太の残したあの危険な装置を独力で復旧させた手腕を評価し、特別な地位を与えることになった」
長官が合図をすると、技術将校の一人が出木杉の前に、TPのアクセス権限が付与された銀色のリストバンドを差し出した。
「今日から君は、TPの特務技術顧問だ。我々のシステムの演算補助、そして逃亡した野比のび太の思考パターンを予測するための『計算機』として働くなら、君の身の安全は保証しよう」
「お待ちください、長官!」
たまらず、レグが一歩前に出て声を荒らげた。
「正気の沙汰ではありません!たとえ奴ほどの知能がなくとも、我々の中枢システムを触らせるなど……!」
「黙れ」
長官は冷酷に言い放った。
「野比のび太という異常値を狩るには、奴の思考をトレースできる頭脳が必要不可欠だ。……それに、この少年は自らの置かれた立場をよく理解しているはずだ」
レグはギリッと歯を食いしばった。野比のび太を捕らえるためとはいえ、もう一人の怪物を要塞の心臓部に招き入れるなど、あまりにもリスクが高すぎる。
その時、出木杉がゆっくりとレグの方を向き、極めて爽やかな、礼儀正しい優等生の笑顔を浮かべた。
「心配いりませんよ」
出木杉の声は、中学生とは思えないほど落ち着き払っていた。
「僕はのびくんみたいに、やみくもにルールを壊したりしません。決められた枠の中で、誰よりも完璧な『正解』を出すのが僕のやり方ですから。……それに、あなたたちの抱えている『計算間違い』の穴埋め、けっこう面白そうですしね」
その言葉を聞いた瞬間、レグの背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走った。 『計算間違い』。それは単なる比喩か?
いや、違う。この少年は、この要塞に足を踏み入れたわずかな時間で、TPの管理システムの中に「何か重大な隠蔽がある」ことを直感で嗅ぎ取っている。
しかし、長官たちは出木杉の言葉の裏にある不気味さに気づかず、「頼もしい少年だ」と満足げに頷いている。
(……この組織の老人どもは、終わっている)
レグは絶望的な思いで、己の仕える上層部を見つめた。
自分たちの既得権益と保身を守ることしか頭になく、足元で時限爆弾のスイッチが押されていることにも気づかない愚か者たち。
(いずれ、奴らの手違いで我々全員が剪定される日が来る。……私は、その巻き添えになるつもりはないぞ)
レグの心の中に、組織に対する決定的な決別と、暗い葛藤の炎が静かに灯り始めていた。
「君は直ちに指令室に戻り、隔離セクターの捜索を急げ」
「……了解いたしました」
レグは踵を返し、出木杉を一瞥することなく部屋を出た。
残された出木杉はリストバンドを身につけ、与えられたコンソールに向かって静かにタイピングを始めた。未来のシステムに触れた彼の知性は、水を得た魚のように、さらなる狂気的な覚醒の段階へと突入していくのだった。
特務指令室に戻ったレグは、隔離セクターへの極秘突入作戦に向けて、神経をすり減らしていた。
「……スキャンシステムの状況はどうなっている」
レグは、巨大なホログラム・モニターの前に立つオペレーターに問いかけた。
「現在、隔離セクターの空間位相に同調し、内部の生体シグナルのスキャンを実行中です」
隔離セクターは、通常の時間軸からは不可視化されており、TPの正規のモニターにも映らないように厳重にプロテクトがかけられている。レグは最高権限のパスワードを入力し、その「隠された箱庭」の内部データをモニターに投影させた。
画面に映し出されたのは、21世紀の野比家の周辺の三次元マップだった。
「対象バリアント、野比のび太の生体波長を検索しろ。本当にあの中に落ちたのか、確認するんだ」
「了解。生体波長をスキャンします。……反応あり。野比家の内部に、対象のシグナルを捕捉しました」
オペレーターの報告に、レグは忌々しそうに舌打ちをした。やはり、あそこか。忌まわしい『本来の歴史』の中に……。
だが、次の瞬間、オペレーターが怪訝な声を上げた。
「……隊長、おかしいです。野比のび太の生体シグナルが……『2つ』重なって反応しています」
モニター上の野比家の間取り図。そこに、赤く点滅する光点が2つ、完全に同じ部屋の中に表示されていた。
「2つだと……?」
レグはモニターを凝視した。そして、その事態が引き起こす最悪の可能性に気づき、顔色を青ざめさせた。
「馬鹿な……!奴は『過去の自分自身』と直接接触したというのか!?」
レグはコンソールに両手をつき、ギリッと歯を鳴らした。
「ただでさえあの隔離セクターは、本来消すべき歴史を無理やり残した不安定な空間だ!そこで完全に同じ遺伝子を持つ同一人物が接触し、強烈なタイムパラドックスを引き起こせば、あの世界の基盤そのものが崩壊しかねないぞ!急がねばならん。部隊の武装を最大レベルに設定しろ。空間圧縮弾も許可する!」
「了解しました。……隊長、スキャンを続行します。のび太と共にTVAの牢獄から逃亡した、あの『所属不明の重装甲バリアント』の生体データも照合しますか?」
「ああ。TVAのデータベースには該当しなかったようだが、我々のデータベースには引っかかるかもしれん。念のため、全時代スキャンで照合しろ」
オペレーターがコマンドを打ち込む。
重装甲の巨漢でTVAのミニットメンを素手でなぎ倒し、のび太と共にポータルへ飛び込んだと言われた謎の男。奴が何者なのか、レグ自身も薄気味悪さを感じていた。
モニターの検索バーが高速で回転し、TPが管理する数十億人の生体データ、犯罪者リスト、歴史上の重要人物のDNAデータと、カーンの波長が次々と照合されていく。
『該当なし』『該当なし』『該当なし』——。
「やはり、我々の宇宙の人間ではないのか。TVAがどこからか連行してきた、別のマルチバースのイレギュラーなのだろう」
レグが諦めかけた、その時だった。
『——ビーーーーーッ!!ビーーーーーッ!!』
突如として、特務指令室の照明が真っ赤に反転し、鼓膜を破るような耳障りな非常警報音が鳴り響いた。
「な、なんだ!?敵襲か!?」
レグがホルスターから銃を抜きながら叫ぶ。
「ち、違います!!生体データの照合システムが……【レベル・オメガ】のブラックボックスにアクセスし、強制的な警告を発しています!!」
オペレーターがパニックに陥りながら、キーボードを必死に叩く。
「バカな……!所属不明の囚人ごときのデータが、なぜレベル・オメガと一致するんだ!?」
レグがモニターに駆け寄る。
真っ赤に染まった巨大なディスプレイの中央に、一つの『顔写真』と、極秘の生体データが浮かび上がった。
黒人のような骨格、ひどく疲れたような目。そして、画面いっぱいに表示された、赤い点滅文字。
『警告。対象の生体波長・遺伝子配列は、最高機密ファイル【絶対的上位存在(神)】と100%一致しました』
『全パトロール隊員に告ぐ。対象との接触を一切禁ずる。直ちに本部へ報告せよ』
それは前、このTPが創設されたばかりに、次元の壁をこじ開けて現れたという伝説の存在。
TVAという規格外の組織を束ね、アースD-1に「不可侵条約」という名の首輪を嵌めた、全知全能の支配者の顔だった。
「……嘘、だろ」
レグは、手から重力波ライフルを取り落とした。ガチャン、と鈍い音が指令室に響くが、誰もそれを拾おうとはしなかった。
オペレーターたちも、画面に映し出されたその顔と、先ほどTVAの牢獄の監視カメラが捉えていた「重装甲の男(カーン)」の素顔が、完全に同一人物であることを悟り、全身をガタガタと震わせていた。
「あ、あの重装甲の男は……我々と条約を結んだ、神……なのか……?」
レグの喉から、掠れた声が絞り出された。
TVAの牢獄に囚われていた名もなきバリアント。それが、TVAそのものを創造した『絶対的上位存在』と全く同じ遺伝子、同じ顔を持つ存在だというのか?
なぜ、そんな神のような存在が、TVAの牢獄に繋がれていた?
なぜ、そんな存在が、たかが21世紀の中学生であるのび太と行動を共にしている?
理解の範疇を超えた絶望的な事実が、レグの脳髄をパニックへと追いやる。
(我々は……野比のび太という天才だけでなく、あの条約を結んだ『神』そのものを敵に回したというのか……!?)
「隊長……どう、しますか……!?」
オペレーターが泣きそうな声で振り返る。
レグは、赤く明滅するモニターに映る『神の顔』を見つめたまま、一歩後ずさった。 背筋を、かつて経験したことのない、氷のような恐怖が駆け上がっていく。
「甘く見ていたのは……我々の方だったのだ」
レグの絶望的な呟きだけが、赤い警報音が鳴り響く指令室に、虚しく吸い込まれていった。