西暦3089年。北米大陸、かつてワシントンD.C.と呼ばれていた特別行政区。
灰色の分厚いスモッグが空を覆い尽くし、太陽の光が地表に届かなくなってから、もう数十年が経過していた。
高層ビルの窓ガラスは汚れで濁り、酸性雨によって溶け出したコンクリートの壁面が醜く爛れている。眼下のストリートからは、暴徒化した市民たちの怒号と、それを鎮圧しようとする治安維持ドローンの無機質なサイレンが、絶え間ないノイズとなって響き渡っていた。
「……愚かな連中だ。昨日と同じことを繰り返し、昨日と同じように破滅へと向かっている」
薄暗い研究室の窓辺からその光景を見下ろしながら、彼、ナサニエル・リチャーズは冷酷な声で呟いた。
彼は今年で30歳になる「歴史物理学者」だった。
かつて人類が歩んできた歴史的変遷を物理学的、あるいは量子力学的な観点から解析し、文明の発展と衰退の法則を導き出す学問。しかし、そんな高尚な学問も、今のこの狂った世界では何の役にも立たない。
現在の地球は、完全な末期症状に陥っていた。
極端な環境破壊による資源の枯渇、超巨大企業の独占による富の偏在。そして何より、致命的なハイパーインフレの加速が、社会のインフラストラクチャーを完全に機能不全へと追い込んでいた。
昨日まで10クレジットで買えた合成食料が、今日は1000クレジットに跳ね上がる。通貨という概念そのものが崩壊し、人々は暴動と略奪によってのみ生きながらえる野獣へと成り下がっていた。
政府も、軍も、警察も、もはや形骸化した機能しか持っていない。 あと一年……いや、半年もすれば、この世界は完全に自壊し、原始時代へと逆行するだろう。
ナサニエルは窓から離れ、部屋の中央に置かれた作業台へと向かった。 彼の整った顔立ちには、世界に対する絶望よりも、むしろ「深い軽蔑」が刻まれていた。
「この単一の宇宙は、失敗作だ」
彼は作業台の上に広げられたホログラムの設計図を眺めながら、独り言を続けた。
「指導者たちは目先の利益に目が眩み、民衆は無知なまま欲望に溺れる。私がどれほど完璧な社会再建の数式を提示しても、奴らの原始的な脳髄ではそれを理解することすらできなかった」
ナサニエル・リチャーズは、天才だった。
同時代のどの科学者よりも、どのAIよりも、彼の知能は隔絶して高かった。彼は過去の歴史を遡り、21世紀に存在したという「超人(ヒーロー)」たちの記録や、時空間の歪みに関する断片的なデータを集め、ある一つの『絶対的な真理』へと辿り着いていた。
それは、「多元宇宙(マルチバース)」の存在証明である。
彼が導き出した計算によれば、我々の住むこの宇宙は、広大な次元の海に浮かぶ一つの小さな泡に過ぎない。歴史の分岐点ごとに宇宙は分裂し、全く異なる可能性を持った無数の「平行世界」が存在している。
資源が枯渇していない地球、争いのない平和な宇宙、あるいは全く別の物理法則が支配する次元。
学会の老いぼれどもは、彼の論文を「行き過ぎた空想」だと笑い飛ばした。だが、ナサニエルには確信があった。マルチバースは絶対に存在する。
そして、彼が多元宇宙の存在を証明しようとする目的は、決して「荒廃したこの世界からの逃避」などという、小市民的なものではなかった。
「……見つけるだけではない。移住するだけでもない」
ナサニエルは、作業台の上に鎮座する「機械」の冷たい金属装甲を撫でた。
「私が求めているのは、力だ。愚かな人類が自滅するこの腐りきった宇宙を捨て、無傷で豊かな別の宇宙を見つけ出す。そして、私の卓越した知性をもって、その世界を『征服』する。……すべての可能性、すべての次元は、この私によって統治されるべきなのだ」
彼の瞳の奥で、恐るべき野望の炎が静かに、しかし激しく燃え上がっていた。
後に数多の次元を蹂躙し、全時空の支配者『征服者カーン』として恐れられることになる男の、これが原点であった。
ナサニエルの目の前にある機械は、彼が過去数年間、あらゆるジャンクパーツと、闇市場でかき集めた軍事用レアメタルを投じて作り上げた『多次元量子共鳴通信機(トランシーバー)』だった。
他の宇宙へ肉体ごと移動する「次元移動装置」を作るには、この崩壊寸前の世界ではあまりにも物資とエネルギーが足りなすぎる。
だから彼は、まず「情報(シグナル)」だけを次元の壁の向こう側へ飛ばすことにしたのだ。
量子のエンタングルメント(もつれ)を利用し、三次元空間の制約を受けない特殊な周波数の電波を、無限のマルチバースに向けて発信する。
もし、別の宇宙に知的生命体が存在し、この周波数を受信するだけの高度な技術を持っていれば、必ず応答があるはずだ。
「さあ……証明して見せろ。私の理論が、正解であることを」
ナサニエルは深く息を吸い込み、通信機のメインスイッチを押し込んだ。
重々しい駆動音が研究室に響き渡る。
内蔵された核融合バッテリーが限界まで唸りを上げ、発生した膨大なエネルギーが、中央に設置されたクリスタル状の量子アンテナへと集中していく。
アンテナが眩い紫色の光を放ち、部屋の空間が微かに歪んで揺らめいた。
『次元間バリアの透過率、0.04パーセント。極微小のワームホールを形成中……』 AIの音声が進行状況を告げる。
ナサニエルは、通信機に取り付けられたヘッドセットを耳に当て、ノイズキャンセリングのダイヤルを慎重に回した。
耳に飛び込んできたのは、凄まじい「宇宙の雑音」だった。
ザァァァァァ……ッ!! ピィィィィン……ガガガガッ!
それは、数え切れないほどの宇宙が誕生し、膨張し、消滅していく素粒子の悲鳴のような音だった。
ナサニエルは眉間に皺を寄せながら、周波数のチューニング・ダイヤルをミリ単位で回していく。
「どこだ……。どこかに、この信号を捉えられるだけの高度な文明を持つ宇宙が、必ずあるはずだ……」
1時間。2時間。 外の暴動の音すら耳に入らなくなるほどの深い集中の中で、彼は無限のノイズの海を泳ぎ続けた。
しかし、聞こえてくるのは脈絡のない電磁波の乱れや、パルサー星の周期的な鼓動のような自然現象の音ばかりだ。
(……やはり、エネルギー出力が足りないのか? いや、理論は完璧だ。周波数帯域をもっと……)
焦りが微かに顔を出し始めた、その時だった。
『——ガ、ピーーーッ……』
突然、耳をつんざくようなノイズが一瞬だけ途切れ、不自然な「静寂」が訪れた。
ナサニエルの指が、ダイヤルの上でピタリと止まる。 彼は息を殺し、ヘッドセットの奥から聞こえてくる音に全神経を集中させた。
『……ザザッ……受信……確認……。こちらは……』
声だ。 自然現象のノイズではない。明確な言語的規則性を持った、知性ある者の音声。
通信機の波形モニターが、人間の声帯の振動と完全に一致する緑色の波線を描き出していた。
ナサニエルの心臓が、大きく跳ねた。 成功した。次元の壁を越え、別の宇宙(マルチバース)からの信号を捉えたのだ!
彼は震える手でマイクの送信ボタンを押し、力強く語りかけた。
「……こちらアース・指定座標3-1-4の、ナサニエル・リチャーズだ。聞こえるか、未知の宇宙の住人よ。私は次元の壁を越えて、この通信を試みている。そちらの座標と、所属を明かせ」
数秒の、永遠にも感じられる沈黙。 やがて、ノイズの奥から、再び声が返ってきた。
『……驚いたな。まさか、あんな原始的な量子共鳴の出力で、私の観測網(ネットワーク)にアクセスしてくるとは』
その声を聞いた瞬間、ナサニエルは全身に冷や水を浴びせられたような衝撃を受けた。
声の主が喋る言語は、彼と同じ英語だった。 だが、衝撃を受けた理由はそこではない。
その声の「周波数」「トーン」、そして言葉の端々に滲み出る「傲慢なまでの知性の響き」。
それは、録音機から流れる自分自身の声を聴いているかのような......いや、紛れもない『彼自身の声』だったのだ。
「……お前は、誰だ?」
ナサニエルは、警戒心を露わにして低く問い返した。
スピーカーの向こう側の男は、微かに鼻で笑うような音を立てた。
『愚問だな、ナサニエル。自分の声も忘れたか?……もっとも、お前がいるその時間軸の地球は、今まさにインフレと暴動で自滅の道を進んでいる最中だったな。そんな環境下で、よくその通信機を組み上げたものだ。褒めてやろう』
「なぜ、私の世界の内情を知っている? 貴様、何者だ!」
『だから、言っているだろう。私は、お前だ。……正確に言えば、お前とは別の可能性を辿り、少しばかり"先"に進んだ次元にいる、ナサニエル・リチャーズだ』
別の次元の、自分自身。ナサニエルの天才的な頭脳は、その言葉の意味を瞬時に理解し、そして戦慄した。
マルチバースには、無限の可能性が存在する。
ならば当然、「自分以外のナサニエル・リチャーズ」が存在する宇宙もあるはずだ。だが、まさか最初の交信相手が、別の宇宙の自分自身だとは。
「……別の宇宙の私、だと? 証明してみせろ」
『証明?いいだろう。お前が7歳の時、研究所のホログラム投影機を分解して再構築し、父親の目を盗んで古代エジプトの歴史シミュレーションを作った。14歳で量子力学の博士号に匹敵する論文を書き上げたが、学会の連中には理解されず握り潰された。……そして今、お前はその狂った世界を見限り、別の宇宙(マルチバース)を探し始めた。……違うか?』
完全に図星だった。見透かされている。
「……信じよう。お前が、別の宇宙の私だということを。だが、お前はどうやって私の世界の状況をそこまで正確に把握している?私の通信を受信する前から、お前は私の宇宙を『観測』していたとでも言うのか?」
スピーカーの向こうの「ナサニエル」は、余裕に満ちた声で答えた。
『当然だ。お前はまだ、次元の外側に声を投げかけただけの赤ん坊に過ぎない。だが、私はすでに次元の壁そのものを物理的に突破し、無数の平行世界を観測・行き来する手段……【時空転移装置】を完成させているのだからな』
「……時空転移、だと!?」
ナサニエルは息を呑んだ。 自分がこれから何十年もかけて作り上げようとしていたものを、別の宇宙の自分はすでに完成させているというのか。
『私だけではない。この広大なマルチバースの海には、私やお前のような、無数の【ナサニエル・リチャーズ】が存在している。我々の一部は、すでに互いの存在に気づき、この多次元の壁を越えて接触を始めているのだよ』
「他の私と、接触している……?」
『そうだ。我々は互いの宇宙の知識を共有し、技術を提供し合い、平和的な同盟を築きつつある。お前が暮らしているような資源の枯渇した宇宙を救うためのエネルギー技術も、我々の間ではすでに共有されている。……どうだ?お前も、我々の輪に加わらないか?』
平和的な同盟。技術の共有。 その言葉を聞いて、この世界のナサニエル・リチャーズの口元に、冷酷な笑みが浮かんだ。
(……馬鹿な。他の私がどうであれ、この私が、誰かと「平和的に」知識を分け合うなどという温い考えに満足するはずがないだろう)
彼は、己という人間の本質を誰よりも理解していた。
ナサニエル・リチャーズという存在は、本質的に「支配者」なのだ。同盟や共有などという言葉は、己より劣る者を欺くための方便に過ぎない。
通信の向こう側の男が本当に平和を望んでいるのか、それとも何か別の思惑があるのかは分からない。 だが、どちらにせよ、これは千載一遇のチャンスだった。
彼らが時空転移の技術を完成させているなら、それを利用すればいい。
彼らからマルチバースの移動手段と技術を奪い取り、すべての「自分自身」を出し抜き、この無限の宇宙のすべてを己の支配下に置く。
それこそが、この腐った世界に生まれた彼——後に『征服者』と呼ばれる男にふさわしい野望だった。
「……素晴らしい話だ、別の私よ」
ナサニエルは、内心の獰猛な野心を完璧に隠し、通信機に向かって穏やかなトーンで語りかけた。
「ぜひ、その同盟に加わりたい。この崩壊しつつある世界を救うために、君たちの先進的な技術と知識を学ばせてはくれないだろうか?」
スピーカーの向こうで、別の彼が満足そうに笑う気配がした。
『いいだろう。歓迎するよ、新たなる私。まずは、次元の座標を固定するための基礎アルゴリズムを送信しよう。これを使えば、お前の次元通信機をアップグレードして、ポータルを開くことができるはずだ。……準備はいいか?』
「ああ。いつでも構わない」
ナサニエルは、手元の端末の受信コンソールを起動し、瞳の奥にどす黒い支配欲を滾らせた。
(さあ、よこせ。すべての次元の鍵を、この私に)
薄暗い31世紀の廃墟の中で。 無限のマルチバースを血で染め上げる、史上最悪のマルチバース戦争の火種が、今まさに静かに産声を上げようとしていた。
(第6話へ続く)