送られてきた基礎アルゴリズムのデータ・ストリームは、ナサニエル・リチャーズの天才的な頭脳をもってしても、完全に解析し切るまでに数分を要するほど高度なものだった。
それは三次元の物理法則を根本から書き換え、空間のトポロジーを強制的に反転させる数式の塊だった。
「……なるほど。重力子をタキオン粒子に変換し、局所的な事象の地平面を裏返して『橋』を架けるのか。美しい数式だ」
ナサニエルは、手元のキーボードを恐るべき速度で叩きながら、自作の多次元量子共鳴通信機の回路を物理的・ソフトウェア的に再構築していった。
荒廃した31世紀の廃墟の部屋に、再び凄まじい駆動音が響き渡る。核融合バッテリーが限界を超えて発熱し、部屋の空気が急激にオゾン臭に満ちていった。
『再構築完了。次元間ポータル、起動シークエンスへ移行します』
AIの音声と共に、部屋の中央に設置されたアンテナから、眩い黄金色のエネルギーが渦を巻きながら放射された。
空間がガラスのようにひび割れ、パラパラと光の粒子となって剥がれ落ちていく。そして現れたのは、高さ2メートルほどの、光り輝く『次元の扉』だった。
ナサニエルは目を細め、その光の向こう側を凝視した。荒れ狂うマルチバースの狭間の向こうに、安定した空間が繋がっているのが見える。
「……行くとするか」
彼は腰に小型の高出力プラズマ・ブラスターを隠し持っていることを確認すると、一歩を踏み出し、黄金の光の膜を通り抜けた。
『パァン!』という微かな弾ける音と共に、ナサニエルは別の宇宙の空間へと降り立った。
足の裏に伝わる感触は、彼の世界のザラついたコンクリートではなく、滑らかで塵一つない純白の特殊合金の床だった。 ナサニエルは周囲を見渡した。
「……ここは」
そこは、彼が先ほどまでいた研究室と『全く同じ間取り』の部屋だった。 窓の位置、扉の場所、天井の高さ。すべてが彼の世界と同じだ。
だが、そこにある「物」の次元が決定的に違っていた。
剥き出しの配線やガラクタの山はどこにもなく、代わりに流線型の美しい機器が整然と並んでいる。窓の外に見えるのは、スモッグに覆われた廃墟の街ではなく、透き通るような青空と、空を滑るように飛ぶ反重力ビークル、そして太陽の光を反射して輝く超未来的な高層都市だった。
インフレも暴動もない、完璧に統制され、繁栄を極めたユートピアの地球。
そして、部屋の中央に浮かぶ巨大なホログラム・ディスプレイには、息を呑むような光景が広がっていた。
無数の「球体」が、光の糸で結ばれてネットワークを形成している図。 それは、観測された『別の宇宙(マルチバース)』のデータベースだった。
それぞれの球体には、その宇宙の物理定数、エネルギー資源の残量、歴史の分岐点、そして……そこに住む知的生命体の情報が、膨大な文字データと共にリアルタイムで更新され続けている。
「……素晴らしい。これが、多次元の観測記録か」
ナサニエルが感嘆の声を漏らした、その時。
「よく来てくれたね、ナサニエル。歓迎するよ」
ディスプレイの裏側から、一人の男が姿を現した。
ナサニエルの心臓が、微かに跳ねた。 頭では分かっていたはずだった。だが、実際に『それを』目の当たりにすると、天才の彼でさえ本能的な悪寒と驚愕を抑えきれなかった。
そこに立っていたのは、ナサニエル・リチャーズ本人と「瓜二つの男」だった。
顔の骨格、瞳の色、声帯の響き、そのすべてが鏡に映したように同じだ。
違いがあるとすれば、その纏っている空気と服装くらいだった。ナサニエルが廃墟のサバイバルに適した薄汚れた作業服を着ているのに対し、目の前の男は、白と銀を基調とした、清潔で高貴な学者のようなローブを身に纏っている。
そして、その目には、ナサニエルが内に秘めているようなドス黒い支配欲はなく、純粋な探究心と、満ち足りた者の余裕だけが浮かんでいた。
「……いざ直接顔を合わせるとなると、奇妙な気分だな。自分がもう一人いるというのは」
ナサニエルは、内心の驚きを隠して軽く肩をすくめてみせた。
ローブを着たナサニエル——彼を『案内者』と呼ぼう——は、柔らかく微笑んで頷いた。
「同感だよ。私も初めて別の次元の私と接触した時は、丸二日ほどアイデンティティの危機に悩まされたものさ。だが、すぐに慣れる。私たちは皆、根源的には同じ『ナサニエル・リチャーズ』なのだからね。……まずは、無事な到着を祝おう。私の宇宙へようこそ」
案内者は右手を差し出した。 ナサニエルは数秒だけその手を見つめ、そしてしっかりと握り返した。
「感謝する。君の送ってくれたアルゴリズムがなければ、私の世界はあと数ヶ月で自滅していただろう。……それにしても、ここは素晴らしい世界だ。君の宇宙の地球は、私のところのような破滅の道を辿らなかったようだな」
「ああ。私の宇宙では、21世紀の終わりにエネルギー革命が成功したおかげでね。争いは消え、人類は知的探求にのみリソースを注ぐことができるようになった。だからこそ、私はこうして次元の壁を超える研究に没頭できたわけだ」
案内者は手を離し、部屋の中央にあるホログラム・ディスプレイへとナサニエルを促した。
「さあ、見てくれ。これが、私が......いや、すでに接触を果たした『私たち』が共同で構築している、マルチバースの観測ネットワークだ。君の宇宙のように資源が枯渇した世界もあれば、重力の法則が逆転している世界、あるいは魔法と呼ばれるような未知のエネルギーで満たされた世界もある」
ナサニエルは、ホログラムの球体群を食い入るように見つめた。 無限の宇宙。無限の資源。無限の可能性。
これらすべてが、もし自分の手に入るとしたら......。野望の炎が、彼の胸の奥で静かに燃え盛る。
「……驚異的だ。しかし、これほど無数の宇宙が存在するなら、当然、それぞれの宇宙に『私』が存在するわけだ。先ほど君は、すでに何人かの『私』と接触していると言ったな?」
「その通りだ」
案内者はホログラムのコンソールを操作した。 すると、宇宙の観測データが切り替わり、今度は無数の『人物の顔写真と詳細データ』が空中に並び始めた。
それはすべて、別の宇宙のナサニエル・リチャーズ、『変異体(バリアント)』たちのリストだった。
だが、その姿は、ナサニエルが想像していた以上に多種多様だった。 ある者は、全身をサイボーグ化し、機械の帝国を築き上げているナサニエル。
ある者は、古代エジプトのファラオのような黄金の装飾品を身に纏い、神として君臨しているナサニエル。
またある者は、重厚な甲冑を着込み、剣と魔法の世界で騎士団を率いているナサニエル。
名前も、姿も、立場も違う。 だが、彼らが皆、並外れた知性を持ち、それぞれの宇宙で頂点に近い場所に立っていることだけは共通していた。
「……これほど多様に進化しているとはな」
ナサニエルは、自分たちの顔のカタログを見渡しながら、感嘆と、そして深い警戒心を抱いた。
「彼らも皆、君のように平和を愛し、知識を共有しているのか?」
ナサニエルの問いに対し、案内者はふっと表情を曇らせた。 先ほどまでの余裕のある笑みが消え、その瞳には明確な「恐怖」と「憂慮」の色が浮かび上がった。
「……それが、私が君をここに呼んだ、もう一つの理由なんだ、新たなる私よ。ぜひ君にも共有しておかなければならない事実がある」
案内者はホログラムの一部を拡大した。 そこに映し出されたのは、光を失い、ドス黒い赤色に染まったいくつかの「死んだ宇宙」のデータだった。
「すべての『私たち』が、平和と共存を望んでいるわけではないんだ。……信じたくはない事実だが、私たちの持つこの卓越した知性と野心は、環境によっては最悪の方向へと暴走してしまうことがある」
案内者は重々しい口調で語り始めた。
「すでに、いくつかの宇宙が『破壊』された。自然現象によるものではない。他の宇宙から侵攻してきた『私たち自身』の手によってだ」
「……なんだと?」
ナサニエルは、内心の狂喜を完璧に隠し、わざとらしく驚いた声を出した。
「私自身が、別の宇宙を破壊していると言うのか?」
「そうだ。彼らは次元の壁を超える技術を手に入れた後、それを使って知識を分かち合うのではなく、他の宇宙の資源を略奪し、その世界を支配しようと目論んだ。……ある『私』は、自らの宇宙の軍隊を引き連れて隣の次元を火の海にし、またある『私』は、時間軸そのものを改変して他の宇宙の存在を根底から消し去ろうとした」
案内者は、赤い光を放つ死の宇宙のホログラムを指差した。
「彼らは極めて危険だ。自分以外の存在をすべて下等なものと見なし、マルチバース全体を自らの支配下に置こうとする、狂気の独裁者たち……。私たちは彼らを『征服者』と呼んで警戒している」
(……征服者)
その言葉の響きが、ナサニエルの脳髄を甘く痺れさせた。 なんと美しい響きだろうか。
自分が思い描いていた野望である『マルチバースの支配』を、すでに実行に移している「私」たちがいるのだ。
彼らこそが、この無限の宇宙における真の強者。平和だの同盟だのと温いことを言っている目の前の男など、彼らに狩られるだけの羊に過ぎない。
「それは……恐ろしいことだ」
ナサニエルは眉間に皺を寄せ、深刻な表情を作って見せた。
「私たちの知性が、そのような野蛮な破壊行為に使われているとは。……君たち『平和的』なナサニエルたちは、彼らに対してどう対抗しているんだ?」
「現在、私を含めた有志の変異体たちで『評議会』を設立し、防衛ネットワークを構築しているところだ。君に送ったアルゴリズムも、その一環さ。良識ある『私』を一人でも多く見つけ出し、知識を共有して、彼ら危険な変異体たちの侵略に備えなければならない」
案内者はナサニエルの肩に手を置き、真っ直ぐに目を見た。
「君の宇宙は荒廃していると聞いた。だが、君の知性は本物だ。どうか、私たちの評議会に加わり、その頭脳をマルチバースの平和と防衛のために貸してくれないか?」
ナサニエルは、案内者の目をじっと見つめ返した。
その瞳の奥には、彼のような弱者を出し抜き、すべてを奪い取ろうとする黒い炎が渦巻いていたが、表面上はどこまでも誠実な「理解者」の顔を作っていた。
「……もちろんだ。私にできることなら、何でも協力しよう。狂った私たちがこの美しいマルチバースを破壊するのを、黙って見過ごすわけにはいかないからな」
「ありがとう! そう言ってくれると信じていたよ!」
案内者は安堵の笑みを浮かべ、ナサニエルの手を再び強く握った。
「まずは、次元間の移動に関する基本テクノロジーの全データと、私たち評議会のネットワーク・アクセス権を君の端末に転送しよう。君の世界の再建に役立つエネルギー技術のデータもつけておく」
案内者がホログラム・コンソールを操作すると、莫大なデータ・ストリームがナサニエルの携帯端末へと次々にダウンロードされていく。
時空転移装置の完全な設計図。マルチバースの座標データ。そして、他の変異体たちが持つ高度な兵器やエネルギーの理論。
それらはすべて、ナサニエルが喉から手が出るほど欲していた『征服のための武器』だった。
(……愚かな男だ。自ら虎に牙を与え、家の中に招き入れるとは)
ナサニエルは、ダウンロードの進捗バーが100%になるのを見届けながら、内心で冷酷に嘲笑った。
「危険な私」たちがすでに存在しているのなら、話は早い。
彼らがマルチバースを支配する前に、私が彼らをすべて殺し、その技術と軍隊を乗っ取る。そして、この目の前にいるような平和ボケした「私」たちを根絶やしにし、すべての次元の唯一絶対の支配者となる。
『データの転送、完了しました』
ナサニエルの端末が、静かに通知音を鳴らした。 彼は端末をポケットにしまい込み、案内者に向かって深く頭を下げた。
「本当に感謝する。このデータがあれば、私の世界は救われるし、君たちの防衛にも大いに貢献できるはずだ」
「期待しているよ、ナサニエル。またすぐに連絡を取り合おう」
次元の扉が再び開き、ナサニエルは自分の宇宙である31世紀の廃墟へと帰還した。
ポータルが閉じ、部屋が再び薄暗がりと静寂に包まれる。 外からは相変わらず、暴徒たちの怒号がノイズのように聞こえていた。
だが、ナサニエル・リチャーズはもう、この腐った世界に絶望してはいなかった。
彼は自作の通信機に向き直り、先ほど手に入れたばかりの『時空転移装置の完全な設計図』をホログラムで空中に展開した。
「……同盟、防衛、平和。くだらない」
彼は設計図を見つめながら、暗い部屋の中で一人、低く狂気的な笑い声を漏らした。
「待っていろ、無数の『私』たちよ。私は必ず、貴様らの宇宙をすべて見つけ出す。そして、このマルチバースにおける唯一の『征服者』が誰なのか……その身に刻み込ませてやる」
後に、無限の次元を股にかけ、最悪のマルチバース戦争を引き起こすことになる男。 『征服者カーン』の野望は、今この瞬間、完全な形となって解き放たれたのだった。
(第7話へ続く)