アース指定座標2-9-1。 そこは、マルチバースの観測データを一元管理し、「評議会」の中枢機関が置かれている平和的変異体たちの聖域だった。
透き通るような青空と、クリスタルガラスで構成された白亜の高層都市群。争いのないユートピアを象徴するその美しい空に、突如として『死の亀裂』が走った。
「な、なんだあれは!?」
街を歩いていた市民たちが、空を見上げて悲鳴を上げた。 青空がガラスのように砕け散り、その背後から赤黒く蠢く巨大な次元ポータルがぽっかりと口を開けたのだ。
そして、そのポータルの奥から、太陽の光を遮るほどの巨大な影がゆっくりと降下してきた。
全長数百メートルに及ぶ漆黒のタイムシップ。 その威容は、平和に慣れきったこの宇宙の住人たちにとって、想像を絶する恐怖の象徴だった。
『目標座標への固定、完了。次元崩壊砲、チャージ開始』
無機質なAIの音声が戦艦のブリッジに響く中、紫と緑のアーマーに身を包んだ『征服者カーン』は、ホログラム・モニター越しに眼下の都市を見下ろしていた。
「撃て」
カーンが指を軽く振った瞬間、戦艦の主砲から放たれた極太のタキオン・レーザーが、白亜の都市の中央にそびえ立つ評議会のデータタワーを貫いた。 轟音。閃光。
絶対的な防壁を誇っていたはずのタワーのシールドは、同等の技術基盤を持ち、さらに攻撃のみに特化してチューニングされたカーンの兵器の前に、紙切れのように消し飛ばされた。
「降下部隊、出撃。抵抗する者はすべて排除し、最深部のデータバンク・コアを無傷で制圧しろ」
艦底のハッチが一斉に開き、雨霰のように数百万のクロノ・トルーパーが都市へと降下していく。
人間的な感情も恐怖も持たない機械の歩兵たちは、着地するや否や、逃げ惑う市民や慌てて迎撃に出てきた評議会の防衛ドローンたちを、精密かつ冷酷な射撃で次々とスクラップに変えていった。
「嘘だ……。なぜだ、こんなことが……!」
崩壊していくデータタワーの最上階。
かつてナサニエルを自分の宇宙に招き入れ、平和と同盟を説いた『案内者』は、床に這いつくばりながら、血を流して絶望に打ち震えていた。
彼の周囲には、共に評議会を運営していた数人の変異体たちの無惨な死体が転がっている。
部屋の入り口から、重々しい足音が近づいてくる。
煙と炎の向こうから現れたのは、かつて「荒廃した世界を救いたい」と殊勝な顔をして見せた、あのナサニエル・リチャーズだった。
だが、今の彼が纏っている威圧感と冷酷なオーラは、まるで別の生き物のように異質だった。
「やあ、久しぶりだな、『私』」
征服者カーンは、足元に転がる案内者の顔を、見下すような目で見つめた。
「き、君か……! なぜだ、ナサニエル! 私たちは同盟を結んだはずだ! 君の世界を救うために、あらゆる技術を提供したじゃないか! なぜ、こんな凶行を……!」
「凶行? 言葉を慎め、弱者。これは『最適化』だ」
カーンは鼻で笑い、案内者の胸ぐらを掴んで強引に引きずり起こした。
「君たちが集めたデータ、君たちが構築したポータル網。すべてが宝の持ち腐れだった。平和だの共存だの、そんな下らない幻想を維持するために、これほど強大な力に蓋をしておくなど、知性に対する冒涜だ。……私はただ、この力に相応しい『正しい持ち主』の手に、それを還しただけのことさ」
「正しい持ち主、だと……? 狂っている……! 君は、自分が何をしようとしているのか分かっているのか!こんなことをすれば、他の野心的な変異体たちも黙っていないぞ! マルチバース全体が、修復不可能な戦争に突入する!」
「それが狙いだよ」
カーンの言葉に、案内者は言葉を失った。
「君たちのように、自分の爪を隠して善人ぶっている変異体たちには反吐が出る。どうせ最後は、互いの野心が衝突して殺し合うことになる。ならば、私がその口火を切り、最も有利な盤面で、すべての『私』たちを狩り尽くすまでだ」
カーンは冷酷に宣告すると、右腕のガントレットから青白いプラズマの刃を形成した。
「ま、待ってくれ——」
「さようならだ、臆病な私。君の集めた知識は、私の血肉として有効に活用させてもらう」
閃光。 案内者の言葉は途切れ、彼の体はプラズマの刃によって完全に炭化し、崩れ落ちた。
カーンは刃を収め、部屋の中央で明滅を続けるデータバンク・コアへと歩み寄った。
彼が自らの端末を接続すると、評議会が数十年かけて蓄積してきた「すべてのマルチバースの座標と構造データ」が、瞬く間にカーンの戦艦のメインシステムへとダウンロードされていく。
「これで、すべての宇宙の『裏口』の鍵は私の手に入った」
カーンは血塗られたタワーから、燃え盛る都市を見下ろした。
空の彼方では、早くも事態の異常を察知した他の宇宙の変異体たちが、次々と防衛ポータルを開き、このアース2-9-1の状況を偵察しようとしていた。
「さあ、始めようか。全次元を巻き込んだ、史上最高のゲームを」
アース2-9-1の陥落と、評議会中枢の完全な崩壊。 その情報は、瞬く間にすべてのマルチバースの「ナサニエル・リチャーズ」たちに伝播した。
平和的共存という薄氷の上に成り立っていた均衡は、征服者カーンの圧倒的な暴力によって粉々に砕け散った。
そして、案内者が危惧していた通り、恐怖と疑心暗鬼は、これまで大人しくしていた『危険な変異体』たちの封印を完全に解き放ってしまった。
「評議会が落ちたか。……やはり、緩い連中だったな」
ある宇宙で、全身をサイバネティック技術で機械化し、冷たい金属の玉座に座る『サイボーグ・カーン』が、赤い義眼を光らせて呟いた。
「防衛など無意味だ。やられる前に、すべての次元を我が機械帝国の領土として併合する。全艦隊、近隣の宇宙への侵攻を開始しろ!」
「フハハハ! 混沌だ! 素晴らしい!」
また別の宇宙。古代エジプトのピラミッドを模した巨大な次元戦艦を操る『ファラオの姿をしたカーン』が、黄金の杖を振りかざして咆哮する。
「全宇宙の神は、この私ただ一人! 私以外の出来損ないどもを、すべて砂漠の塵に変えてやれ!」
もはや、誰が味方で誰が敵なのかすら分からない。 「自分が殺される前に、他の自分を殺す」。その絶対的な生存競争が、マルチバース全域で同時に爆発したのだ。
これが、後に歴史から抹消されることになる史上最悪の次元間戦争『マルチバース戦争』の始まりだった。
宇宙空間の至る所で次元の壁が裂け、見たこともない形状の宇宙戦艦や、魔法の炎を纏ったドラゴン、あるいはエネルギー生命体の軍団が、互いの宇宙へと雪崩れ込んでいく。
同じ「ナサニエル・リチャーズ」という最高峰の天才的な頭脳を持つ者同士の殺し合いだ。戦術と戦術がぶつかり合い、裏の裏の裏をかくような異常な高度な頭脳戦と、物理法則を無視した破壊の嵐が吹き荒れる。
その余波は、ついに宇宙そのものの存続を揺るがす最悪の現象『インカージョン(次元の衝突)』を引き起こした。
防衛のために次元の境界線を操作しすぎた結果、異なる二つの宇宙の地球同士の引力が共鳴してしまったのだ。
ある宇宙の空に、もう一つの宇宙の「逆さまの地球」が巨大な月のように浮かび上がる。二つの地球は、互いの引力に引かれて徐々に接近し、やがて大気圏が接触する。
嵐が吹き荒れ、海が空に向かって逆流し、大地が悲鳴を上げて砕け散る。
数百億の生命が、何が起きたのかも理解できないまま、二つの地球が激突・対消滅する閃光の中に消えていった。
そんなインカージョンが、マルチバースのあちこちで連鎖的に発生し、いくつもの宇宙が完全な「虚無」へと帰っていった。
しかし、その地獄のような混沌の戦争の中で、ただ一人、圧倒的な優位性を保ち、他の変異体たちを次々と屠っていく男がいた。
征服者カーンである。
「報告します。アース4-1-8の『サイボーグ・カーン』の艦隊、我が軍のタキオン機雷原に誘導され、全滅。対象の宇宙の制圧を完了しました」
「アース9-2-5の『魔術師カーン』の防壁を突破。次元崩壊砲にて、対象の地球をインカージョンの前に単独破壊しました」
タイムシップのブリッジで、AIの報告を連続して聞きながら、カーンは退屈そうに頬杖をついていた。
「……脆い。あまりにも脆いな。この程度の連中が、同じ私の遺伝子と知性を持っているなどと、信じたくもない事実だ」
征服者カーンが無双できた理由は明白だった。 第一に、彼が評議会のデータベースを掌握したことで、他の変異体たちの「宇宙の座標」や「兵器の弱点」を完全に把握していたこと。
第二に、他の変異体たちが「恐怖」や「怒り」という感情に振り回されて兵を動かしているのに対し、カーンは自律型の機械兵のみを用い、一切の感情を挟まない冷徹な演算だけで戦争を行っていたことだ。
彼は、敵対する二つのカーンの宇宙に偽の情報を流して同志討ちさせ、両者が疲弊したところを横から次元崩壊砲でまとめて消し飛ばすような非道な戦術を、息を吐くようにやってのけた。
戦争が始まってから、およそ数年が経過した頃。
マルチバースの空に浮かんでいた無数の宇宙は、その大半がインカージョンによって消滅するか、あるいはカーンの支配下に置かれて赤く染まっていた。
生き残っている有力な変異体は、もはやカーン一人と言っても過言ではなかった。
「……チェックメイトだ」
カーンは、タイムシップのブリッジから、完全に廃墟と化した次元の狭間の空間を見下ろした。
眼下には、彼が打ち破った他の変異体たちの巨大な戦艦の残骸が、墓標のように無数に漂っている。
「ついに終わった。この無限のマルチバースにおける生存競争の勝者は、この私だ」
カーンは立ち上がり、両腕を大きく広げた。
彼の心を満たすのは、戦いの疲労ではない。すべてを己の意のままに書き換え、支配するという神の領域に到達したことへの、極限の全能感だった。
「AI、全次元の残存宇宙に私の通信を繋げ。今この瞬間から、すべての物理法則、すべての歴史は、私......征服者カーンによって再定義される。私に逆らう運命など、この宇宙には......」
カーンが高らかに勝利の宣言を行おうとした、その時だった。
『……警告。警告。空間異常、検知』
突如として、ブリッジの照明が不気味な紫色から、真っ赤な警戒色へと切り替わった。
無機質で決して動揺することのないはずのAIの声に、微かな「エラー」のノイズが混じっていた。
「なんだ? 残党が足掻いているのか? ポータルの座標を特定し、主砲で消し去れ」
カーンが顔をしかめて命じるが、AIの回答は彼の予測を完全に裏切るものだった。
『特定、不能。対象は……次元ポータルを使用していません。空間そのものが……"食われて"います』
「食われている、だと……?」
カーンはモニターを弾き飛ばし、艦のメインウィンドウから外を見た。
彼の目の前に広がる、戦艦の残骸が漂う次元の狭間。その暗黒の虚空の彼方から、何かがやってくるのが見えた。
それは、宇宙船ではない。エネルギー兵器でもない。 暗紫色の、巨大な「雲」のようなものだった。
いや、雲ではない。
その巨大な暗闇の塊は、雷鳴のような轟音と共に、次元の狭間に漂う戦艦の残骸や、崩壊した星の破片を、文字通り「バリバリと咀嚼するように」飲み込みながら、急速に接近してきていたのだ。
その雲が通り過ぎた後には、光も、重力も、時間の概念すらも存在しない、完全な「無」しか残されていなかった。
「な、なんだ、あれは……! 生き物……いや、時空間そのものを貪り食う嵐か!?」
カーンの天才的な頭脳をもってしても、その存在を理解することはできなかった。 マルチバースのあらゆる物理法則から逸脱した、純粋な『消去』の概念そのもの。
『全艦、回避不能! 対象の接近速度、光速の千倍を超過! 接触まで、あと10秒!』
「馬鹿な……! 主砲を撃て! 最大出力だ!!」
カーンの命令と共に、タイムシップの主砲がタキオン・レーザーを放つ。
しかし、星を砕くはずの光の奔流は、その巨大な暗紫色の雲に触れた瞬間、何事もなかったかのように「吸い込まれ」、消滅してしまった。
「……っ!!」
カーンは、生まれて初めて、己の理解を超えた「絶対的な力」の前に、純粋な『恐怖』を感じた。 無敵を誇った彼の巨大な戦艦が、その雲に飲み込まれる直前。
カーンの脳裏に、あるいは直接精神に、ある「声」が響いた。
『......素晴らしい戦いぶりだったよ、征服者。君のその容赦のなさは、私以上だ』
それは、カーン自身と同じ声帯を持ちながら、彼とは全く違う、どこか疲労と達観が混じったような、静かで圧倒的な声だった。
『だが、君のゲームはここまでだ。マルチバースは、もうこれ以上、私たちという"害悪"に耐えられない』
「貴様……! 何者だ!!」
カーンが叫んだ瞬間、巨大な雲の嵐がタイムシップを飲み込んだ。
装甲が紙のように溶け、数百万のクロノ・トルーパーが一瞬にして虚無へと還元されていく。
カーンは次元干渉装甲の力で必死に空間を固定しようとしたが、その努力も虚しく、彼の意識は深い深い暗闇の底へと引きずり込まれていった。
彼が最後に見たのは、嵐の奥底で静かに微笑む、みすぼらしいローブを着た「もう一人の自分」の姿だった。
......そして。 最悪のマルチバース戦争は、極めて唐突に、そして誰にも知られることなく終結を迎えた。
(第9話へ続く)