「いやぁ、まいったまいった、まさか京からこれほど離れた場所に、かように安全な街道があるとはなぁ」
「人間五十年、知らぬことはいくらでもあるのだと改めて気づかされ申したわ」
ぽくぽくと一本歯の高下駄を履いた僧形の中年が、気さくな笑みを浮かべながらタタラ場を前に独り言ちていた。
「御坊は随分遠くから来たんだなぁ」
「お坊様の違いはおらにゃわかんねえからよ、てっきりこの辺りに寺でも持ってるもんだと思ってたで」
後ろからにょきっと顔を出して言うのは特徴のない顔つきの男だった。途中から同道した『孫一』という男で、ぬぼーっとした顔つきには愛嬌がある。
田舎言葉にしろ、洗練されていない身の熟しにしろ、背負う荷物にしろ、どこからどう見てもタタラ場の『自由市』に出入りしている行商人の一人だった。
僧がわざわざ京都を離れて遥か西方へ、中国地方の片田舎まで来たのには訳があって当然だ。
道中、なにかと入用なタタラ場についての知識の多くは、この変哲のない男から仕入れることができた。例え間諜の類であったとしても、それはそれ。
完全な無知よりも、監視付きでも知識を増やすことを選び、ここまで同道したのだった。
「いやぁ拙僧はこの身なりの通り、いまだ修業の身の上、見聞を広める為に行脚の中途でな」
「京から出るまでの道のりよりも、京を出てからここに来るまでの方が遥かに不足がなかったゆえ驚いたわ」
「旅の途中でこのタタラ場のことを聞きつけてな、なんでも自由泰平が実現された王道楽土で、南蛮人でも明人でも万人が暮らしていると聞く」
「拙僧も仏の道を学ぶ者の端くれとして、こうして学びを深めにまかり越したのよ」
僧形の男…『ジコ坊』はそう言い数珠を捏ね回して「むにゃむにゃ」と念仏を唱えた。
そして再び瞼を持ち上げると、視線の先、港湾部と扇状の平野部を連結し、そのすべてを囲んだ巨大城塞を見ながらしみじみと呟いた。
「いやぁ、にしてもデカい、デカい城じゃあ…」
城塞は事前情報とは異なり五重の城壁を持つに至っており、中心部に行くにつれて無数の煮炊きと物作りの為の煙が隆々と天に向かって伸びていた。
そして中心には遠目にも黄色の鮮やかな瓦を戴く、青く澄んだ煉瓦で組まれた巨大で壮麗な、今上の内裏が霞むほどに整然と美しい、左右対称の宮殿にも見える建造物が伺えた。
孫一がその呟きに反応して言った。
「そりゃぁデケぇわ、なんせ三万人でも暮らせるように作ってあるって噂だど」
「ははは、まさに西の京だな…これほど見事な城塞は初めて見たわ」
孫一は続けてこう言った。
「んだべなぁ、おらも初めて見た時は門がでっかくて、その上ぜーんぶ鋼でできてるちゅう話ば聞いて魂消たもんなぁ」
「ほう、全鉄製の大門扉か、そいつはすごいな、さぞかし絡繰りも見事なものなのだろう」
ジコ坊はそう言って明朝由来の巨大な絡繰り装置を想像したのだが、孫一から返ってきたのは荒唐無稽な答えであった。
「うんにゃ、お坊様、その扉は大天主様が御自分で開かれるだよ」
「ほ?ご自分で?なんだぁそりゃあ、聞いたこともない…門をか?」
「うんだよ。ほれ、堀切の向こうさ、見えるべ?あの黒い門だよ。あればコンコンっと敲くと、大天主様が開けてくださるだよ」
孫一の話は、ジコ坊の視点からはいまいち要領を得ていないように思われた。
丸太を組み合わせた門扉よりも遥かに頑丈で鈍重な全鉄製の門扉を、一体全体、どんな人間なら自力で開けられるというのか。
「ほれ、おらが今から敲いて見せるで、よっくと見ておくだよ」
惑うジコ坊を促すように孫一は言った。
近づくにつれてその巨大な望楼と、その望楼に埋め込まれた黒鉄の大門扉に今にも飲み込まれそうな心地になりながら、ジコ坊はすたすた進む孫一の後に続くのだった。
そして…
コンコン
コンコン
「大天主様ぁ~、行商の孫一ですだ~!それと、お坊様もご一緒ですだぁ~!」
本当にこれで通じるのか?と不安がりつつ、無害な僧を演じてジコ坊が孫一の隣で待つこと、ほんの少しの間。
「んぁ?おう、わかったー!今、開けるぞー!」
扉の向こうから聞こえてきた声は思った以上に快活で、それでいて気の抜ける剽軽さを伴っていた。
そして次の瞬間には、ゴゴゴゴ…ではなく。
いくらかの絡繰り錠前が外れる音が響いてから。
それから家の軽い門扉を開く様な軽い感じで、なんとも巨大な門扉の片側がスイッと押し開かれたのだった。
「おう、いらっしゃい」
そう言ってひょっこりと扉の影から出された男の表情を、ジコ坊は終生忘れ得ないであろう。
「こ、これはこれは…聞きしに勝る剛力、このジコ坊、感服いたしました」
「ところでそこもとは、もしや鐵打之御天戯殿でお間違いないか?」
「ああ、間違いない」
笑顔だった。
めちゃくちゃ笑顔だった。
無邪気で、屈託のない笑顔であった。
およそこの無常かつ無情なる人の世で生き生きて、かつてこれほどまでに邪気を孕んでいない笑顔を浮かべる人間に会ったことがあっただろうか。
いや、なかった。
少なくとも、ジコ坊の人生を振り返っても、どれだけ古い記憶までを掘り返しても、だ。
無邪気に『歓迎』されている。
ただ、ただそれだけのことで、今のジコ坊は過去に類を見ないほどの緊張で肉体の内側を血が巡るのがわかった。
これまでに経験してきたどんな修羅場よりも深い、深い何かが目の前の存在にはあるのだと。
そう、ジコ坊の長年にわたる経験と本能が語りかけていた。
「いやぁ、わざわざご城主に門を開けていただけるなど、感激の至り。忝い」
「とんでもねえ、待ってたんだ!」
「ほ?」
待って、たんだ???
瞬間、ジコ坊の灰色の脳みそはフル回転し、この状況から抜け出すための方策を編み出さんと苦慮し、見事、失敗した。
「はぁ…降参だ、こりゃ敵わん。もう、煮るなり焼くなり好きにいたせ」
「え?あぁ、うん…えっと」
歓迎するつもりで話しかけただけで担いでいた荷物をおろし、唐傘も放り捨てて、どっかと地べたに座り込んだジコ坊に困惑したのはオンテギの方であった。
だがしかし、そこはオンテギである。
「昼餉は食べたの?」
拗ねたように座り込むジコ坊に、オンテギはそう尋ねた。
「まだだが…なんじゃい、死ぬ前に飯でも食わせてくれるのか?」
「そいつは、ちょうどいいな」
ジコ坊は僅かな希望を瞳に灯して顔を上げたが、やはり、そこで待っていたのは満面の笑みだった。
「実はさ、私もさ、オンテギもまだなんだよね、お昼ご飯」
「だからさ、あの味噌粥とかって作って貰えたりする?
そう言ってオンテギは、ニコリと笑って無防備に手を差し出したので、今度こそ完全にジコ坊を呆れさせたのだった。