コンコン、とノックの音。
誰の部屋に入る時でもノックを欠かさなかったので、ノックの習慣をこのあたりに伝えたのもオンテギである。プライバシーは大事である。
それはさておき、控えめな音に比べて、辺りまでハッキリと聞こえる大きさの声が
「どうぞー!」
「だめー!」
工房街の片隅にある小さな鍛冶工房。今日のオンテギは海ではなく陸で鉄を打っていたのだ。
少し大人びた高い声が、太く低く穏やかな応答に被せて響くのを聞いて、母親はクスリと口元に笑みを浮かべた。
「サン、そう言うな。母さんは、お仕事で来たんだよ」
「しょうがないなー、もー!」
父親に似て地獄耳に育った娘だ。母親の平静と変わらない声を、鋼を打つ槌の音が響くすぐ隣にいながらも聞き漏らすことはなかった。
ガチャリと扉を開けたのは少し大きくなったように見えるタタラ場のお姫様。両親の覇気を余すところなく受け継いだ、闊達な娘サンだった。
ただびとにとっては、あのジコ坊をして熱い火の中に身を投じるがごとしと言わしめたオンテギの工房の中に、エボシは涼しい顔で入っていった。
迎え入れてくれた娘の頭を撫でようとして避けられたというのに、エボシは楽しそうだった。
「サンや、おまえ、また背が伸びたね?もう裾余りしていない」
「んぁ?やっぱりか?だよなぁ…」
目ざとく娘の変化に気づいた彼女がそう言うと、オンテギも同意した。
「えへへ…そうだよ、サンは大きくなるんだから。すぐに父さまに相応しいくらいの大女になっちゃうんだからね?」
「私も小さくはないのだがな…」
エボシとオンテギは頭二つ分は確実に違うが、別に気にしたことなどない。
だが、こうして気にしているように言ってやると娘は自信を深めて胸を張るのだ。
「ぜーんぜん!母さまの背なんか、サンは直ぐに追い抜いちゃうんだから!」
「はっはっはっ…そうか、それは、その日が来るのが楽しみだな」
恐らく見目は背丈も含めて自分そっくりに育つであろう娘に、エボシは内心で母親として激励を送るのだった。
話をするために可愛い盛りの娘を一度工房から追い出しても、オンテギは振り向くことはなく鉄を打っていた。
そのオンテギと二人きりになったエボシは、実の娘のように、彼の背中に抱き着いた。
そして、絹の衣にオンテギの汗が染みることも気にせずに胸を預けると、唇に差した紅が付くほど近く、口を彼の耳元に寄せた。
オンテギは鉄を打ちながら考え、鉄を打ちながら決めるのだ。
そして、そういう時はいつも、必ず夫婦で二人きりの時だと決まっているのだ。
それが二人の間の確かな繋がりの形の一つなのだ。
「それで?お仕事なんだろう?どしたん?話聞こか?」
オンテギが軽い調子で言うと、エボシは諫めるように彼の耳へ、ため息をたっぷりと吹きかけてから答えた。
「ああ、すこし話が大きくなり過ぎたよ。私の裁量を超えたから、貴方と話そうと思って来たんだ」
炉の前、燃える鉄の前、弾ける火の粉、響く槌の音。
そして、そのすべてに負けず、いや、それらすべてをも吞み込まんばかりに強く脈打つオンテギの心臓の鼓動。
エボシは自分の両肩に乗っている何かが、唐突に軽くなり、この背中の持ち主にするりと肩代わりされる感覚を覚えた。
それはいつものことで、けれど、当たり前のことではなかった。
「……」
パチパチと火が弾ける音は鳴るが、オンテギからは何も言わない。エボシの中で整理がつくまで黙って待っている。
「地侍どもが攻めてくるかもしれない。或いは、シシ神を殺すために動くだろうな」
「……それは確実なのか?」
エボシの言葉に、オンテギは振り向かずに尋ねた。
火の勢いが増すばかりだというのに、エボシは汗一粒もかかずにいられる。守られているような、涼しさを感じるほどに。
エボシは自分の所感を率直に言葉にすることにした。
「十中八九、奴らは来るぞ」
それは非常に高い確率だった。
鉄を打つ音が響く。オンテギの力ならば鉄など一撃で思うままにこね回され、ただそれだけで他の誰がするよりも遥かに美しく、粘り強く、しなやかな鋼が生まれるというのに。
彼はそれを数千、数万、数十万回繰り返すのだ。
「どうして?」
オンテギはエボシにまた尋ねた。エボシだけに、尋ねるのだ。
彼は決断するための材料のすべてを、エボシに委ねているのだ。
二人の指に
エボシは誇らしさと愛おしさを、狂おしいほどに感じながら、冷徹に言葉を並べた。
「餌にされたよ。シシ神の首を京に捧げれば、褒美は
エボシは強く、今よりも強くオンテギの身体に組み付いた。オンテギの耳の淵には疾うに、綴られた紅が汗粒に滲んで浮いていた。
エボシは徐に舌を伸ばすと、その雫を舌先で掬い上げた。
舌の上で転がすと、塩気を帯びた甘露は、慣れた紅の味を偲ばせて弾けた。
「……」
「…ん…」
耳がエボシの舌で冷やされている間、オンテギは鉄を打ち続けた。
耳に歯が立てられて、甘噛みされるままに任せていると。
間もなく、鉄だけに目を注いでいたオンテギが首を擡げた。
振り返り、あの強く名状し難い意志が宿された、曇りなき眼でエボシを
言う。
「シシ神の森の衆にも呼びかけよう。決めるのはそれからだ」
「それは…共に戦うということか?」
「わからない。でも、明日はサンが来る予定なんだ。森のことはあの子に任せよう」
「まだ、子供だ。私たちの娘よりも少しだけ年上のな。まぁ、あの利発さと逞しさだ、年齢は関係ないか…」
オンテギの言葉にエボシが目を眇めた。それは疑いや不満ではなく、見定めるためのものだった。
夫に懸想する女の一人に、成し遂げれば覚えもめでたい大事を任せてみるというのもまた、乙なものだろう。
そんな、一途な思慕からくる歪んだ思考を回しながら、エボシはオンテギの言葉を従順に飲んだ。
「そうだな…なら、うちのサンにも何か任せようか」
「そうすべきだな。でないとあの子は拗ねるだろう」
「だろうなぁ」
想像するまでもなく、浮かんでくる娘の拗ねた表情に二人の顔は柔らかく綻んだ。
「ナゴたちにも話を通しておくけど、まずは明日来るサンに頼むとして…娘だからなぁ」
与える仕事について、こうまでオンテギが悩むのは珍しく、エボシは好いものを見たと思いつつ、助言になるかも知れない言葉を零す。
「あれで、もう石火矢を一人前に撃ち熟すことを忘れてないか?」
その言葉に「すっかり忘れてました」と顔に浮かべるオンテギだが、すぐに微妙な表情で言った。
「力任せに抑え込んでるだけだよ。私も人に教えられたらいいんだけど、体の使い方がまだまださ」
「貴方が言うならその通りなのだろうな…なら、いっそサンに預けてみるのはどうだ?」
悩むオンテギの耳にその言葉が滑り込むと、途端に顔色が変わった。
「あ、何かを思いついた時の顔だ」とエボシは思った。
「いいなぁ、それ!うんうん、名案名案!さすがは私の嫁!オンテギの妻だ!」
ガシッと抱きしめて、エボシを一頻り褒めたオンテギは再び炉に顔を向けた。
「そうと決まれば餞別を用意しなくちゃな」
そして、そう言うと再び槌を握るのだった。
仕事の話を終えたからと工房から去っていく母の背中をこっそりと見届けてから、サンは父の背中にはっしと組み付いた。
「くさい」
案の定、母親の匂いがべったりだった。
「ふんっ…だ」
すりすり。サンは犬が飼い主に臭い付けをするように、唐の頭で編まれた衣ごと、身体をぐいぐいオンテギの背中に、腕に押し付け、擦り付けた。
本当にタタラ場で育ったのか疑問に感じられるほど野性的な愛情表現で、サンはオンテギが作業をする間中、その手間隙を目敏く見つけては、その隙間に自分の身体を割り込ませるのだった。
そうこうしていると、作業がひと段落したところでオンテギが娘に顔を向けた。サンは背筋をピンと張って彼の言葉を待った。
「なぁ、サン」
「はい!やります!」
「いや、まだ何も言ってないけど」
「だって、聞こえてたんだもん」
「ありゃ、そっかぁ」
オンテギは娘の耳が自分に似てハイパー地獄耳であることを思い出した。
確実に、先ほどまでのエボシとの一部始終が聞こえてきていたのだろう。
鉄を打つ金槌の音などものともせず、サンは父が自分にも役割を与えようとしていることも、それが山犬の娘のサンと同道して学びを深めて来い、ということまで知っているのだ。
どこまで事の重要度を理解しているのかは不安が残ったが、それはともかくとして鼻息の荒い娘に役割の内容への否やはなさそうである。
「じゃあ、やってみるか?」
「はい!サンにやらせてください!」
「じゃあ、明日、山犬の娘のサンと一緒にシシ神の森まで御遣いを頼むよ」
「父さまは何を望まれますか?」
と、唐突に賢しらな口ぶりで尋ねる娘の瞳に曇りはない。
オンテギは少し考えた。
「望み、か…それは戦わずに済むことだったけれど。戦うのなら勝つこと。勝つなら犠牲が全くとは言わずとも殆ど出ないこと…かな?」
サンは父の望みを自分の中で嚙み砕くと、飲み干した。
そして、自信満々になって言うのだった。
「じゃあ、サンもそのお手伝いをします!姉さまとも仲良くするので、どうか安心して待っていてください!」
オンテギは「大きくなったな」と言って、娘の頭に手を伸ばした。
サンは素直にその掌の抱擁を享受するのだった。
翌日、早朝にタタラ場の大門の前ではなく、タタラ場とシシ神の森とを繋ぐ『祀り』の道が敷かれている境界線のあたりに、二頭の山犬と共に、サンは予告通り現れた。
「シシ神の森の守護者モロの君が三子サン、ただいま参上いたしましたっ!」
張りのある声が早朝のタタラ場に響くと、俄かに騒がしさが目を覚ます。
「もののけ姫がお越しなすったぞぉ!門を開けろッ!それと、オンテギ様に今直ぐお知らせしろ!」
外郭で不寝番を務めていた兵士がすぐに上長に報告に向かうと、間もなく最寄りの門が歓迎するように開かれた。
「おう、今日も、元気じゃな、もののけ姫」
二頭の山犬と共に、慣れた様子で大門をくぐったサンを出迎えたのは、ここしばらくで顔見知りとなったジコ坊であった。
出会った頃の唐傘連の装束に身を包んで待っているあたり、同道してくれる心づもりらしい。
オンテギに「やるよ」とお仕着せられた紫衣は無駄に肩が凝るので、有難迷惑なジコ坊なのである。
「ジコ坊、オンテギ様はいずこか?」
ジコ坊の内心はさておき、もののけ姫ことサンはオンテギのこととなると一直線だ。彼を探して落ち着きなく周囲を見渡し、鼻を利かせている。
そのあたりも年の功でいなせる所を買われて今の役目になったのであろうな、とはジコ坊の考察である。
「直に来られるであろ。それよりも、此度は世話になるなぁ」
そう言って数珠をじゃらじゃら拝んでみせるも、サンは気にした素振りもなかった。
「気にするな、シシ神の森のことをシシ神の森の者が考えるのは当たり前のことだ」
「そうは言うがな、古巣の業が原因であるゆえ、単純には割り切れんのだ」
ジコ坊は赤心から言っていたが、そのことは関係なしに、オンテギが信頼する人間なのでサンは疑ってなどいなかった。
そうこうしているうちに、オンテギと白いずんぐりむっくり…ではなく、あの頃から長じてすらりとしたしなやかな細身を唐の頭の外套で包んだ、タタラ場の娘のサンがやってきた。
オンテギもサンも全力で走ったわけでもないが、屋根の上を走ってきたようで、遠目にも内門が開かれた様子はなかった。
それでも呼吸も乱れていないことから、二人の超人的な身体能力が伺えた。
「おはようございます、オンテギ様!シシ神の森の守護者モロの君が三子サン、ただいま参りました!」
だが、負けじと逞しく育ったサンはその程度では驚かない。すぐさま、兄弟の背中から飛び降りると、腰を低くして、改めて名乗りを上げた。
「おはよう、サン。実は今日なんだけど、頼みたいことがあってね」
「私に、ですか?」
サンは尋ねた。
「うん。君に。それと、うちの娘も一緒に連れてってくれないかな?遅れは取らないから」
「わかり、ました…それで、頼みとは何でしょうか?」
僅かな逡巡。サンとサンが視線を交わすこと須臾。サンは了承した。
「詳しくは道中、拙僧の方から話そう」
「オンテギ様っ」
ジコ坊の渋面を見たサンは何かを悟ったのか縋るような目でオンテギを見た。
だが、彼は動じない。
その視線を、オンテギは今までに幾度となく受け止めてきたのだ。そして、そのすべてをより好い方向へと導いてきた経験がある。
「わかってる。だから、私からは、オンテギの望みだけを託すよ」
「オンテギ様の、望み、ですか?」
「うん。森のことを決めるのは森の者だ。でも、これは森だけに収まる話じゃないから話し合いの場を設けたいんだ」
そこで言葉を区切り、オンテギはまず森を、それから自らが立つ地面を指差した。
「君にはこのタタラ場とシシ神の森を繋ぐ使者の役目を務めて欲しいんだ」
「使者…」
サンは義務感と不安の間で揺れ動いていた。それも当然だ。サンはまだ十五にも満たない少女なのだから。
であればこそ、オンテギは自身の娘をも伴ってきた意味があるのだ。
「この私の娘、タタラ場の娘のサンをシシ神の森への使者として立てるゆえ、シシ神の森のサンにはタタラ場への使者となって貰いたい」
「細かい調整は、あー、なんだ、ジコ坊、ふたりのサンを頼んだぞ」
途中までの自信はどこへやら、庇護欲を掻き立てるような情けない声でオンテギはジコ坊を呼んだ。
「やっぱりかい。だがまぁ、神殺しに比べれば子守りなど可愛いものだ。万事、拙僧に任せい」
「おう、やっぱりジコ坊だよ。頼もしいぜ」
と、そこまで言うと、オンテギは居住まいを正し、背筋を伸ばして二人のサンを呼んだ。
「山犬の娘サン、タタラ場の娘サン、さぁ、ここに立ってくれ」
呼ばれた二人は空気の変わったオンテギに呑まれて、黙って従う。見ればジコ坊も神妙な顔で手を合わせている。
自身の正面に二人が並んで立ったことを確かめると、オンテギは口を開いた。
「汝ら、『サン』を、鐵打之御天戯の聖名において、シシ神の森とタタラ場とを繋ぐ神聖なる使者として定めることを、ここに宣する」
紡がれた言葉は自然と祝詞と化し、不朽の言霊が込められた言の葉の響きが、その場に居合わせたすべての者の耳を敲いた。
「『サン』、汝はこの役を受けるか?」
オンテギの身体は俄かに柔らかくも力強い光を放ち、その光に当てられた者を優しく照らし出した。
「「はい」」
オンテギの言葉に、二人の『サン』が肯ずると、オンテギは一つ深く頷き、懐を探ると二振りの、二人の手の平に収まるほどの大きさの守り刀を取り出し、それを
「ならば、ここに先の旨を宣するとともに、使者の証として我が血潮にて燃やし、我が血潮にて冷やし、我が血潮にて鍛えた『守り刀』を与える」
「万難を排し、それぞれの務めを果たせ」
「式は確かに拙僧が見届けた、もうよいぞ」
「…以上!はぁー、緊張した。でも、やっぱり形から入らんとね」
「そうじゃな、どれ、もう行くぞ。森に入れば夜も昼もないが、明るいうちに入るのに越したことはない」
そう言ってジコ坊は徒歩で、二人の『サン』は自然な流れで二頭の山犬の背中にそれぞれ跨って、目的達成に向けて当地を後にしたのである。
「綺麗…ほんとうに、きれい…すん…オンテギ様の香りがするっ…」
「父さまが鍛えたものだから当然だよっ…でも、確かに綺麗だね…」
二人の『サン』は守り刀を受け取ってからというもの、しばらく一言も発さなかった。
だが、それは発さなかったのではなく、発することができなかったのであり、守り刀の見事さに絶句していたのである。
与えられた刀には斑模様のような刃紋が現れており、刃付けも成されていたが、抜き身を朱と紫と金の豪奢な組紐で包んでいるだけにもかかわらず、持ち主を傷つけることが絶えてなかった。
むしろそれは、熱を帯びて持ち主を温め、その傷を冷やして癒し、或いは一層高みへと登るのを援けるような心強さを放っていた。
それは最早、神器に及ぶ代物であり、使者の証としては過分なほど。
…なのだが、そんなことをオンテギは当然ながら何も知らないでいる。
「はぁ~…こりゃまた、とんでもないもんを拵えなすったなぁ…実際、シシ神の首よりも、コイツを贈ってやった方が天朝様も気を好くしなさるだろうに」
素直に守り刀に恍惚としている二人娘は幸福である。オンテギの本気を垣間見て、俄かに頭が痛くなってきたジコ坊は、そんなことを零さずには居られなかった。
幸い、守り刀の美しさに心奪われていた二人の耳には届かなかったようである。
ただ、ちょっと本気で鍛えた、文字通り自分の血を込めた守り刀を作ってみたくて、これ幸いにと二人の『サン』の為に拵えて見せたのだった。
まさか本当に血を混ぜても何とかなるとは…などと、くだらない考えを弄んでいるあたり、オンテギが自作の守り刀の真価を理解する機会に恵まれることは、決して近くはなさそうである。
後のことではあるが、二人の『サン』に与えた物と全く同じレベルの守り刀を、妻やゴンザら幹部連中の為に作り慣れたとばかりに軽く、更に幾本も用意してしまうあたり、余計にその確信は強まるのであった。