『サン』とジコ坊の一行は朝から森の中を駆け抜けて、昼前にはシシ神の森の最深部に到着していた。
「ははは、いやぁ、まさか生きてこんなところまで来る日が来るとはなぁ…長生きはしてみるものだ」
「ジコ坊、それで…道中で聴いた話は誠なのか?」
苔むした巌にどっかと腰かけて、シシ神の棲み処に湛えられた透明度の高い清水を木のお椀でガブガブと飲むジコ坊のぼやきを聞いてか、山犬の娘サンが道中での話の真偽を改めて尋ねた。
それは、そうではあって欲しくない、という希望を踏みつけられると知っていて尚、自分の中で折り合いをつけるための振る舞いである様に見えた。
「…誠も誠よ。神殺しなどしたとしても、世の中が上向くわけでもなし。だが、やんごとなき方々の考えとることは、拙僧の知り及ぶところではないし。そんなものはわからぬに越したことはあるまい」
「ここは…古い森だ。ずっと昔からシシ神様ともののけたちが暮らしてきた場所だ。私たちの居場所を奪おうというなら…私たちには戦う道しか残されていない」
ジコ坊は帝の意向についてある程度の理解が及んでいたが、それが達成されることは困難であることを理解しているからか、過度に悲観的ではなかった。
だが、人間世界の世情に疎い山犬の娘サンの言葉には重苦しさが募っていた。今の彼女にとって、頼みとできるのは山犬の一族とナゴの守のイノシシ一族、それに加えてオンテギの勢力であるタタラ場との繋がりだけだった。
自分の一族の賢明さも、猪神たちの勇敢さにも自信はあるものの、タタラ場との協調を果たせるのか、という点は未知数であったからだ。
サンはまだ幼さを残しつつも、これから行われるであろう、森の行く末を左右する議論を上首尾にまとめられるようにと、義務感で己を奮い立たせるのだった。
「それにしても、ここいらの獣はどれもこれも大きくて、人里で見かけるものよりも瞳が真っすぐな気がするね」
「ははは、お姫様もお気づきか…どうにも、『祀り』を始めてからというもの、ここいらの連中は他所では見たこともない大きさに育っておるようだ」
「それはオンテギ様の御蔭だ、あの方は神代の祀りを取り戻してくださった。あれだけ衰えを見せていた猪神らも、少しずつ力を取り戻しているから間違いない」
タタラ場の娘サンの指摘は的を射ていた。シシ神の森に限らず、オンテギが『祀り』を重ねるたびに、『もののけ』たちは、その活力を取り戻しているように見えた。
そのことを誰よりも強く感じているのは、森で暮らすサンであり、また最も多くの『挑戦者』を輩出してきた猪神の一族たちであった。
彼らが回を重ね、代を重ねるごとにより大きく、より賢くなっていることは、人間に奪われつつあった森の神秘が、その『生き』を吹き返していることを象徴する出来事だと解釈されていた。
『サン』の一行がタタラ場からの、より深く言えばオンテギからの報せを携えて森に帰ってきたことは、山犬の兄弟による遠吠えと、モロの君による呼びかけにより、徐々に森中に知れ渡っているころだった。
「猪神を待つ間に、どれ少し、腹ごしらえでもするかな…どうだ?貴殿らも食うか?拙僧の粥は旨いらしいぞ?大天主様が言う分にはだが」
シシ神の森の行く末を見定めるための会合の為に、諸々の要神が揃うまではまだ少し時間が掛かりそうだった。
慣れた手つきで、オンテギから褒めちぎられた粥の支度をし始めたジコ坊の目は穏やかで、邪気もなく、どこか楽し気でもあった。
「オンテギ様の好物というのは、ほんとうか?」
山犬の姫が尋ねると、ジコ坊は黙って頷いた。
「なら、頂こう…」
腰を落とし、何時でも動ける体勢のまま、山犬の姫は鼻先を擽る粥の香りに意識を集めた。
「さて、こうも侘しいもので恐縮だが、そちらの姫様もいかがか?」
「サンも食べる!」
「ははは、疲れ知らずだな…ま、好いばかりか。ほれ、ニラも味噌もたっぷり貰ってきたからな、どんどん食え!」
落ち着きのないというより、意気込みの強さがはみ出しているタタラ場の姫の返答は、好対照に威勢がよかった。
物惜しみもせずに、たっぷりと味噌とニラと上等の米を混ぜ込んだ粥からは、食欲をそそる香りが立ち上り、鼻の利く『サン』は二人して、少しは緊張がほぐれたと見える。
「やはりだな、大役を仰せつかっても、まずは腹を満たさねば。気持ちだけでは回るものも回らんわい。ほれ、予備で悪いが椀は全員分ある。食え!」
ジコ坊は気前の良さを顔いっぱいに浮かべて、二人の『サン』と共に、熱い粥を啜るのだった。
濃い緑に囲まれながら、鉄鍋の下の岩場で、朽木を種にして起こされた炎がゆらゆらと揺れていた。
モロの娘、三の姫がオンテギ公からの大事な報せを携えて戻ったという話は瞬く間にシシ神の森の周辺に知れ渡った。
それと並行して、モロの君が有力なヌシたちへの呼びかけの為に自らも駆け回っていることも同時に、森中で何かが起こっていることを如実に表しているのだった。
サンたちを泉に残して、山犬の兄弟たちが報せを方々に伝えた際、いの一番に届けに向かったのは近隣で最も大きな勢力を誇る『ナゴの守』の一族へであった。
報せを受け取った猪神はオンテギ公直々の報せだと聞きつけて、疾駆してヌシである今代『ナゴの守』へとその旨、伝えたのだった。
『戦士たちよ、これは只事ではない、すぐにモロの君とも合流し、シシ神の泉へと向かわねば!』
先代よりも遥かに巨大で賢明であると同時に、誇り高く義理堅い性質のナゴはすぐさま一族の中でも特に大柄で精強な者どもを引き連れて森の中を駆け抜けた。
向かう先は一つ、シシ神の住まう泉である。
会談場所に指定されたその場所へと、ナゴは誰よりも早く向かうのだった。
彼の脳裏に蘇るのは、自らの血族であり、直系の父祖でもある先代とオンテギ公とが繰り広げた神代の激闘であった。
誰の目から見ても美しく、猛々しく、誇り高い猪神であった先代は、大いに面目を施した果てに、神籬の中で苦痛もなく、満足だけを抱いて果てた。
ナゴはそれを見届け、誰よりも早く、勝者となったオンテギと触れ合った者の一柱だった。
ただ人が誇り高い猪族を肉としてしか見ていないことを憎々しく思うナゴにとって、寸鉄を帯びず、シシ神がそうであるように安らかな死を贈り、シシ神とは異なり後に続く新たな活力を一族全体に振り撒く、かの現人神は理解の及ばない存在であった。
だが、理解が及ばずとも、猪族は祀りを経るごとに、昔日の誇りを取り戻すように強く、賢く、その誇り高さに見合う繁栄を浴びているのだ。
それを祝福と言わずして、他に何と言えばいいのか。
言葉すら話せなくなっていく矮小な若猪どもが、この十年で見違えて賢く、逞しく育ってくれたのは、年に数度啓かれる『祀り』の効用を置いて他になかった。
森の生死を司るシシ神への敬意を忘れたことはない。
だが、衰え行く一族を掬い上げ、これほどまでの高みへと導いてくれたのは、他ならぬオンテギであった。
オンテギだけが、猪族の没落を食い止めるどころか、その誇りを取り戻す手伝いを、惜しみなく尽くしてくれたのだ。
ナゴは自分が天に導かれる日が訪れても、到底、オンテギを憎むことなどできそうになかった。
神籬の中で、生死を巡る神事の果てに、祀り、祀られる行く末は、確かに一族全体の誇りと、命脈を繋ぐことに貢献しているのだから。
だから、そのオンテギからの要請がどんなものであっても、猪の一族は喜んで受け入れる準備がある。
ナゴは、シシ神を敬ってはいるが、それでも、戦うのならばオンテギの為に喜んで死地へと赴き、その地で果てることも厭わぬであろう。
なぜならば、オンテギならばこの身が朽ちようとも、自身の骨を、勲しを、誇りを掬い上げ、父祖と同じように天へと導き祀ってくれることを信じられるからである。
ナゴと戦士たちは心を一つに直走った。
いざ、シシ神の泉へ。
今こそ、オンテギの想いに応えるために。
「こりゃまいった、さぞかし名のあるヌシと視るが…まっこと、見事なものだ」
「あれはナゴの守様だ。お住まいはかなり遠いはずなのに、急いで駆けて来て下さったんだわ」
「あの大猪は、父さまの無二の友達なんだって聞いたよ」
ジコ坊の呟きに二人のサンがそれぞれ答えた。
今、シシ神の泉には、所狭しともののけ達が大集合していた。
中でも大猪のナゴの存在感は圧倒的である。
大猪と言えば、五百年を生きているという鎮西の乙事主が有名だが、当代のナゴのその体躯は全く引けを取らない、文字通り山のような巨躯であった。
思えば三代に亘り『祀り』の『挑戦者』として果てたのはナゴの一族ばかりである。
それもあって、ナゴの引き連れてきた戦士たちも屈強そのもの、ナゴには及ばずとも小山の如き威容をそれぞれが誇った。
「これなら少しは不安も和らごう、ここまでもののけが集まったのを見るのは後にも先にも最後かもしれんな…いやぁ、やはり『バカ』には敵わんな」
ジコ坊はそう言って、大役を前にして緊張した面持ちの二人の『サン』を励ました。その際、最後に愚痴とも賛辞とも聞こえる言葉が漏れたのは、人生経験豊富な彼をして未知数をまえにしていることへの、せめてもの強がりだったのかもしれない。
『やれやれ、この泉がこんなに手狭に感じたのはこれまでで初めてのことだよ…さて、サン!それからタタラ場の娘、おまえたちの役目を果たす時が来たよ。その守り刀を、連中にも見せておやり』
泉の淵に近く、足労を掛けて休みに入っている二頭の息子たちを労いながら、母モロが娘たちを促した。
「「はい!」」
二人は声を合わせると、首から下げていた守り刀を高く掲げて見せた。
『なんと!なんとッ!』
『嗚呼、なんと美しい!』
深い森の中、差し込む光は既に月明り。その光を吸い込み、纏い、目が眩まんばかりに煌めく二振りの守り刀を見たもののけ達は動揺を隠せなかった。
それは、まさしく古い神代で語られるような、現存するはずもない神秘を纏っていたからだ。
『山犬の姫よ、タタラ場の姫よ。それはもしや、オンテギ公が自ら鍛えられた神器であるか』
オンテギと互いに友と呼び合うナゴの守が一歩進み出て問うた。
「はい!ナゴの守様!これは私たちがオンテギ様から授かった、使者の証です!」
山犬の娘サンが覇気に漲る声で宣った。俄かにざわめきが起こる。
『使者の証とな?それは如何様なものであるか?』
ナゴの守は更に一歩進み出ると、その鼻先を守り刀へと寄せた。
「父さまはこの森のことは森に生きるものが決めるのが道理だと仰せでした。ただ…」
守り刀から漂う馥郁と神聖を吟味するナゴの守に向けて、今度はタタラ場の娘サンが訴えた。
「もし、叶うならば。オンテギの一族もこの森に住まう友と一緒に戦いたいと。そのために、力を合わせたいとっ!少しでも、傷つくものが減るように力を尽くしたいとっ!そのように、仰せでした!」
その声は甲高く強情で、如何にも人間らしい響きを持つものであった。
だが、もののけが忌み嫌うその、一直線で脇目もふらない振る舞いが、なぜだかナゴの守ら猪神たちには自分たちが抱えてきた誇りへの執着と、どうにも被って見えたのだ。
『うむ、うむ…よく言ってくれたな、見事に似た娘子だ。嗚呼、我が友、我が同胞であるオンテギ公の想い、確かに受け取ったッ』
ナゴの守は深く、もう一度、深く守り刀から馨る、愛おしささえ覚える芳しく、ぶっきらぼうで、屈託のない、作り手の想いを胸いっぱいに吸い込んで、しかと汲み取ってから。
振り返り、一族へ、猩々たちへ、この場に集まったもののけたちへ向き直った。
そして叫んだ。強く。
『このナゴ、この森の守として、生まれも種も血も違う友の言葉を信じることを決めた!』
『タタラ場の黒鉄を纏い、汚らわしい人間どもの神殺しの企みを挫いて見せようぞ!!』
それは、歴史的な瞬間だった。
ナゴの守は続けて訴えた。そこには使者役を受けた娘たちの背中を押そうとする、まっすぐな思い遣りがあった。
『人間は嫌いだ。だが、この森と共に生きる者は、例え人間と言えども同胞であることなど、守り刀を託された二人の娘を見れば一目瞭然ではないか!』
煌めく神器に視線が集まる。
森の賢者と呼び称えられる猩々たちは珍しく興奮して木の幹から身を乗り出して、ナゴの言葉に耳を傾けた。
『少なくとも、我が友オンテギ公は信じるに値するッ!!!あの益良雄と肩を並べて戦う誉を、誇り高き猪族として逃す手はないッ!』
『シシ神の森を守るために、黒鉄の同胞との盟約を今ここで結ばんとすることに、異論のあるものはありや?』
ちらほらと不安げな、疑念の拭えない色が匂うが、ナゴはその気持ちが痛いほどわかった。
だが、わかるからこそ言葉を重ねた。
『鋼を憎むのは構わん。だが、この美しさを憎むことなど、このナゴには出来なんだ』
『オンテギ公の鉄は、他の人間の鉄とは違う。大地の力を汲み上げ、大樹のように鍛えられた神聖なる代物に違いない』
あの誇り高いナゴの守が見せた素直な心情の吐露が止めとなった。
木の上、森の中、木々の陰から、覚悟を決めたような視線が集まった。
ここに、シシ神の森とタタラ場との、『黒鉄の森の盟約』が相成ったのである。
『感謝するぞ、ナゴの守。おかげで娘たちは面目を施した』
会合を終えて、一族の総力を結集するために帰路につこうとしていたナゴの背に、終始沈黙を保っていたモロの君が声をかけた。
その声には安堵と先行きへの深い洞察が込められているように思われた。
モロの言葉にナゴは鼻を鳴らした。
『オンテギ公ならば信ずるに値すると思った。ただ、それだけのこと』
ナゴの素っ気ない振る舞いは、未だ年若い彼なりの強がりだったが、一方で決断を下した理由の部分は事実だった。
『ああ、それは私も同じように思う。あれは私たちよりも底が知れないところがあると、あの守り刀を一目見て悟ったよ』
『同感だ、あれは美しかった。鉄は鉄でも、あれは全くの別物だ。穢れからかけ離れた、誠に見事なものだ』
そう言い残して、ナゴの守は自分の領分へ向けて再び駆け出した。
遠からず戦支度の為に方々から同胞が集まってくるだろう。そうなれば静かな森とはしばらくお別れだ。
「ナゴの守様!」
静まり返った夜の森の中を一族と共に疾駆するナゴに、追いつく影があった。
山犬の娘サンと、タタラ場の娘サンだ。それぞれが山犬の背に危なげなく跨って、ナゴの守と並走の姿勢をとった。
『娘子ども、お前たちにはオンテギ公に盟約の旨、いち早く伝える務めがあるだろう』
ナゴの咎めるような、諭すような声音に反応したのはタタラ場の娘サンだった。
「あのっ、お礼が言いたくって!さっきは、ありがとうございました!御蔭で父さまに好いご報告ができそうです!」
続けて、山犬の娘サンも口を開いた。
「戦の際はモロの一族も共に戦いますッ!その時はどうか、私も先陣に加えてください!」
二人の言葉はナゴの耳に確かに届いたが、いずれも馴染みの深い者たちの大事な者たちだ。
『その気持ち、ありがたく受け取る。父君、母君にそれぞれよろしく伝えてくれ。特に、オンテギ公には、いざという時に、このナゴの骨を拾ってもらわねばならぬ故』
ナゴは重ねて諭すようにそう言うと、山犬でさえ追いつけない猪突の勢いで暗闇の森の奥へと消えていった。
『どうする?サン。まだ追いつけるかもしれないぞ?』
兄弟の山犬からそう言われて、サンは我に返って首を横に振った。
「ううん。もう大丈夫。ちゃんと、お伝えするべきことはお伝え出来たから」
「さ、明日が来る前にオンテギ様にこのことを知らせなくちゃ」
サンがそう言うと、タタラ場のサンを残して一足先に駆け出した。
残されたサンはというと、自分の足で走る感覚とは違うせいか、少し疲れを見せていた。
「はぁ、あと少し、お願い。途中からは自分で走るから」
『わかった…おい、タタラ場の、振り落とされるなよ?』
そう言うサンに、山犬は気遣う素振りを見せて忠告した。
「そこはダイジョウブ。サンは父さまに似て頑丈だから」
しかし、返ってきたのは的外れな返答。少し変なところは父に似ているらしかった。
『そういうことじゃないんだが…まぁ、いいか』
妹とも似ているような、似ていないような、そんな不思議な娘を背中に乗せて、山犬は走り出す。
向かう先はタタラ場、森の決断について報告を待つオンテギの元へ。
月明りは眩しいほどに艶やかで、深い森を時折、昼間よりも鮮やかに照らし出すのだった。
…一人、置いてけぼりを食らったジコ坊が、結局は誰よりも先にタタラ場に着いていたことを、二人の『サン』は後になって知るのであった。