あの敗北の後、アサノ公方は何度か危機的な状況に陥っていた。
あの完膚なきまでの敗戦により面子は丸つぶれ、死んだ者、遺された者の世話にもかかずらい、余裕のなかったアサノは、周辺の対抗馬となり得る有力者たちに後れをとることになりかねなかった。
だが、成り上がり者であり、手段を択ばずにとはいえ、曲がりなりにも公方にまでのし上がったアサノとて、決して愚かではなかった。
彼はあの敗戦を、果敢な挑戦であったと言い換え、周囲にはタタラ場は最初から朝廷に献上するつもりであったし、そもそもはシシ神を討つ為の段階を踏む行為であった…と説明をつけたのである。
公方の内書として発給されたその文書は、はっきり言って噓八百もいいところだった。
だが、自ら朝廷第一の忠臣であり、尊王に燃える敢闘精神あふれる実行者である…という虚像はしかし、旗頭となるべき目ぼしい有力者を定めかねていた朝廷にとっては非常に都合のいい言葉並びであった。
結果、アサノは誰よりも早く師匠連からの支援を受けることに成功し、周辺一帯では抜きんでた存在へと躍進することに成功した。
その間も、タタラ場への監視や偵察を欠かしたことは無く。言うまでもないことだが、石火矢を警戒しつつも、虎視眈々とその隙を窺い続けてきた点に変わりはない。
アサノが師匠連からの借財を重ねる間も、帝からは幾度となくシシ神の首はまだかと矢の催促があったのだが、老獪なアサノはのらりくらりとこれを躱して今日まで勢力の醸成に尽力してきた。
地侍どもをかき集め、師匠連の伝手から虎の子の石火矢などの火薬兵器までもを引き出した。無論、双方は貸したものが思うように返ってこないことなど重々承知の上で、である。
そうして地力を高め続けること十年余り、遂に、『征服の詔勅』が発布されるに至ったのである。
師匠連はアサノに黙って各地から掻き集めた人員を彼の領内に集中させた。アサノもこれには流石に、これ以上の延期は難しいと観念したのか、シシ神退治の為の山狩りを近く始めると宣言した。
加えて、この時もアサノはただでは転ばず、先述した内書の文言通りなら朝廷に献上されるはずだったタタラ場の占有権を主張したのだが、この際に彼は自分の領内に師匠連が送り込んだ浪人崩れの大半を実利を餌に傘下に収めるなど、朝廷とのパワーバランスにおいて均衡を傾けんと努めた。
その甲斐があってか、ここは一刻も早くシシ神退治を完遂させたい朝廷側が折れることとなり、先日の『シシ神退治の褒美にはタタラ場を与えることを勅する』という朝廷側の文言にその成果は現れたのである。
果たして、アサノはようやく重い腰を上げた。
彼は今も屈辱を雪げていない。未だ、昔日の敗北において手傷を負った虎のままなのである。
この業突く張りの大侍は、タタラ場の動向を常に注視してきた。ゆえに、あの頃よりも遥かに巨大に、遥かに堅固になっているであろう今の城塞を容易く落とせるとは、微塵も考えていなかった。
だが、狡猾さにかけては一角の人物である彼は、もののけどもが暮らすシシ神の森とタタラ場が、何らかの共生関係にあることを見抜いており、それは半ば正解であった。
ゆえに、アサノはタタラ場を力技で落とすことを極力避けるためにも、まずはタタラ場に関わる何らかの『弱み』があるはずだと睨んだ、シシ神の森への徹底的な山狩りを行うことを宣言したのである。
それでタタラ場が弱体化できれば儲けもの、そうではなかったとしても、どの道シシ神の首が必要なことには違いなかった。
これまでに積み重ねられてきた師匠連への借財を踏み倒すことはこれ以上は難しい上に、領内に集められた地侍どもの有り余る力の向かう先を用意することができなければ、アサノの領内はかつてない荒廃に晒されかねなかった。
朝廷は強かだ、公家どもは権威だけにしがみついているわけではない。いざとなればアサノを首だけに変えることも、アサノの代わりの首に替えることも厭わないだろう。
アサノには、そこまでが見えていた。見えていて、その上で好機だと見て動いたのである。
「(どのみち、この数の地侍どもははっきり言って、この地には過剰だ)」
「(幾らでもいると思えば気も楽だ。己の郎党を死なせずに済むのでな)」
「(師匠連の連中め、そなたらの思うようには動かぬぞ。そちらがその気なら、こちらも思うままに振舞うまでよッ!)」
アサノは開戦前夜にそう内心で零した。
見えているものは多かった。タタラ場に暮らす人数が三万人に満たないことも事前に知っている。
通常、攻城戦には防衛側の三倍の兵力が必要とされるが、今のアサノにはその条件を満たす十万を超える兵力があった。
「(タタラ場攻めは山狩りの後だ。すべては山狩りのあとで、総攻めにて責め殺してくれるわッ!)」
とはいえ、アサノ公方にはすべてが見えているわけではない。
ただ、十余年に亘り、雪辱の為だけに燃やされてきた執念には並々ならぬものが宿されていた。
それは憎悪であり、嫉妬であり、渇望であり、憤怒であり…。
人間感情のあらゆる悪しきものを掻き集めた、ある種の、生きながらの祟りへと堕ちかねない危険な均衡の上で、今のアサノはあるのである。
そして、アサノ公方が予告した山狩りの日がやってきた。
同時に、タタラ場を包囲するために、その巨大な廓からネズミ一匹も逃がさない態勢を敷く。
集められた侍の数は、足軽のような傭兵も含めて総勢十余万人。
うち、山狩りに参加する者は三万人。山を狩りつくし、禿山にすることも厭わぬ覚悟が垣間見えた。
そして、タタラ場への包囲へと五万人。シシ神の森との通行を完全に遮断することは叶わなかったが、港湾部を除く平野部の大半、その長大な外郭の外側にはびっしりとウンカのごとく武者どもが配置された。
とどめに後詰の二万余りをシシ神の森から離して、タタラ場寄りの街道上にある本陣に置いた。
この時、アサノが本陣をタタラ場に寄せて布陣したのは無意識でのことであった。
だが、結果的にこの采配がのちのアサノの幸運に、或いは悪運に繋がるのであるが、それは先の話。
果たして、帝より『征西大将軍』の位を臨時ながらも正式に授けられたアサノは、鼻高々。
しかし、臥薪嘗胆の年月を振り返り、少しの油断も見せずにシシ神の森をまず、ついでタタラ場を見据えると、十余年ぶりに軍配を握った拳で膝を打った。
「者ども、これは源頼光以来の大物の怪狩りであると同時に、蝦夷隼人に並ぶ
「もののふとして、名を挙げるのは今この時をおいてほかになし!タタラ場は宝の山ぞ!一番槍の者には好きな褒美をとらせるゆえ、命を惜しむなッ!名を惜しめッ!」
「シシ神の首を取れば殿上人に登るのも夢ではない!それと、オンテギとエボシの首を奪った者は、儂の所に持ってこい!さすれば褒美は思うがままぞ!」
「気張れよッ!それ、かかれーーーーーーッ!」
「うおおおおおおおおおおおおッッ!!!」
アサノ公方の檄を受けたもの共の雄たけびで、大地がどよめいた。
それは絶叫か、けだものの嘶きか、餓鬼の唸りか。
ここに、後に『タタラ場の戦い』或いは『黒鉄の森の戦い』と呼ばれることになる、大戦の幕があがったのである。