山の賢者と称えられる猩々たちは、その美名の通り、非常に優れた知性と記憶力を持っている。
彼らは森の維持管理を一手に担うような存在であり、シシ神を頂点とする国家に例えれば、戦士である猪神や近衛兵であるモロの山犬の一族に並んで、知識人や学者や官僚のような存在なのである。
そんな猩々たちはオンテギと非常に懇意にしており、互いをつなぐ橋となったのが植樹の神事であった。
『ニンゲン、木ヲ切リニキタノカ』
『ニンゲン、去レ、ココ、我ラノ森』
『ニンゲン、木ヲ植エナイカラ、切ルバカリ、ダカラキライ』
タタラ場の衆を引き連れて現れたオンテギに対して、森を守らんとした猩々たちはそう言い募ったのである。
これがもし、強欲な人間であったならば。
猿のもののけが何を言うのかと、一顧だにせず。
或いは実力によって除くことも厭わなかったかもしれない。
だが、残念ながら猩々たちが出会ってしまったのはオンテギである。
彼は話を聞くと、こう尋ねた。
「え、じゃあさ、木を百本切ったら、木を千本植えるってことで、どうよ?」
『ん…?ンン…?』
「一万本にする?あ、でも、その時は千本くらい切らせてもらいたいなぁって」
『えっと、あの…』
「十万本?百万本?いや、流石に一日でそれだけは難しいけどさ」
『ちょ、ちょ…ま、待って…』
「んぁ?どうしたの?大丈夫?」
困惑する猩々たちを他所に、オンテギはとんでもないことに気付いたとばかりに手を打った。
「あ、そーいうことね!大丈夫っ!ちゃんとお祭りにするし、君たちも参加できるようにするからさ!」
『ワ…ワ…ア…』
「とりま、一年で百万本は固いな!このオンテギに任せなさーいっ!」
『…ちょっと何言ってるかわからない』
と、まぁ…そんな出会い方ではあったが、
猩々は困った。
正直、相手をしたことがない類なので、非常に困った。
苦慮した彼らは、オンテギが本当にそんな数の木を植えたのか信じたくなかったが、流石は森の賢者である。
彼らは人間とは次元も系統も異なる算術を駆使して、たったの一日でオンテギが半年間に植えた木の総本数を算出してしまったのだ。
結果、総計157万8951本!
猩々たちは心を一つにして叫んだ。
『うっそだろ、おい、まじか』
『てかっ…嘘じゃん!普通に嘘じゃん!なんで57万8951本も超過してんだよッ!』
『うわ…あの山、半年前まで禿山じゃなかったか?』
『あれ?目ぇ、悪くなったかな?森に棲んでるのになぁ…おっかしいなぁ…』
『あの、我々がやるのより速いのはいいとして、なんか凄い、あの、緑が濃いんですけど…』
古の渡来人どもが鉄を産むために散々に食らいつくした山々の跡地は、今でも禿山か、或いは里山の域を出ていなかった。
それらは死んだ山であり、死んだ森であり、猩々たちにとっては悲しみと苦しみの歴史を象徴する景色だった。
ゆえに、彼らは絶句したのだ。
シシ神が『救わなかった』山々を、森々を、たった一人の、『なんかデッカくて速くて美しく強くてこわいやつ』、略して『
ついでに言えば、この頃から猩々達は口達者になり、語彙が増え、人間の言葉でさえも流暢に話せるようになり、何故か頭が冴えわたっていくのだが…そのことを彼らが自覚できるまでには、オンテギに大いに振り回され、引き回され、その先々では涙涙の苦労があるのだった。
果たして、鉄の生産量を回復させたいとエボシに言われたオンテギは、再び同じ場所、同じ状況で猩々達との交渉に臨んだのだったが。
「木ぃ、切ってもいいかなぁ?」
『『『いいとも~~!!!』』』
結果は…切っていい木とそうではない木の判別は任せて欲しい、とのことで、他に条件らしい条件と言えば、神事としての植樹を猩々と共同してやること、頼むから植える数は正確に事前に教えて欲しいこと…くらいのものであった。
以来、猩々たちとオンテギと、彼に率いられて植樹に携わった人間たちとの間では濃厚な交流が行われ、互いに対して抱いていた誤解などを溶かし、互いへの敬意と理解とを相互に勝ち取っていったのである。
さて、そんな猩々たちだが、シシ神の森の維持管理責任者として、植樹した木のみならず、太古から遺ってきている木にも造詣が深く、その知識の内には人間には到底出来るはずもない正確な空間把握能力、位置情報の共有なども含まれているのである。
ゆえに、森が脅かされたときに、その数と規模と範囲とを正確無比に感知でき、誰よりも最初にそのことに気付くことができるのは猩々を置いて他になく、オンテギから言わせれば、彼らは超優秀な
さて、そんな超優秀な素材を活用しない手はなく、アサノ公方による山狩りの開始と同時に、総指揮を執るオンテギの命により各地に散らばる猩々たちからは、リアルタイムで新鮮な『敵』の位置情報、範囲、規模、その移動速度に至るまでが齎されていた。
無論、斥候を有するのは向こうも同じである。
天朝様の書付に服して、今回の山狩りと、それに続くシシ神退治に投入された狩人集団であるところの『ジバシリ』は、まさしく朝廷側の斥候にあたる役割を果たしていた。
彼らは狩人の知恵を総動員して、森の中から山犬と猪神どもを誘き出し、虎の子の火薬兵器で始末してから、悠々と森の中を進んでシシ神退治を行うことを提案したのである。
そして、彼らの助言を容れたアサノ公方は、助言通りに好き勝手に木を切り倒し、鼻が捥げそうな酷い臭いを森に塗して、森の奥で今の状況を苦々しく思っているであろうもののけたちへの挑発を行うことに並行して、シシ神の住まうとされる泉に向けて石火矢を持たせた自身の郎党を目付にした、千からなるジバシリと地侍の混成部隊を森の奥深くへと進発させたのである。
現在、状況は一方的なものだと言ってよかった。森の側からの反撃はなく、木を切り倒せば、猩々と猪と山犬の木霊するような悲鳴?の三重奏が耳心地好く響くばかりであった。
「ふははは、手も足も出まい…だが、連中も出てこない分にはやられるだけと理解しておるということかのう」
「獣の癖に知恵が回るようだが…馬鹿ではないというだけでは、人の業には勝るまい」
「もっとだ、どんどん木を切り倒してやれ!はははは!千本でも切り倒すころには、猪どもと山犬がいきり立って突っ込んでくるのが目に浮かぶわ!」
アサノ公方は油断こそしていなかったが、進捗が順調であることに満足を覚えずにはいられなかった。
また、憎しみ深いタタラ場と何らかの関わりのある森を、この手で破壊している事実に対して、ほの暗い快感を覚えているのだった。
どんぴしゃりで策が嵌ったと思い込んでいるアサノ公方と師匠連に対して、シシ神の森の衆は遠吠えによる遠隔情報伝達システムを基盤に置き、鐵打之御天戯を総司令官に戴き、一本の指揮系統を確立したうえで、冷静に状況分析を進めていた。
現在の状況は、本営としたシシ神の森の最深部、シシ神の泉を中心点として、三日三晩で猩々たちが作り上げてしまった周辺一帯を網羅する地形図を元にして、次の段階へと駒を進めるための戦術の選定が、逐一届けられる情報を精査することを通じて行われている最中であった。
「オンテギ様!ナゴの守様から突撃の催促です!」
「父さま!猩々たちから最新のものです!」
本営にはオンテギが相談役のジコ坊と共におり、折り畳み式の椅子にどっかりと腰かけつつ地図と睨めっこしていた。そこへ飛び込んできたのは二頭の山犬にそれぞれ跨った二人のサンであり、彼女たちは本営と各地の前線拠点とを繋ぐ伝令役を任されていた。
齎されたことは二つ。
一つはナゴの守からの『突撃しちゃおうぜ!』という催促であり、これはオンテギにより即座に却下された。
「あとすこしで、イイ感じに嵌りそうだからね、ちょっと待ってね。って、ナゴに伝えておいて」
「はい!今すぐに!」
山犬の娘サンはオンテギの言葉を一言一句溢さずに諳んじると、駆け込んできた勢いそのままにナゴの守のもとへと伝令にむかってくれた。
「頼りにしてるよ。ありがとう、サン」
「はい!」
届かないものと思い、背中に掛けたねぎらいの言葉は、実の娘にも負けない地獄耳らしいサンにちゃっかり拾われた。
「サンもお疲れさま。猩々たちには次の報告で最後だから引き上げ始めてくれと伝えて欲しい。これはあっちのサンにも、規定範囲から避難を始めるように伝えておいて欲しい。任せたよ」
「はい!父さま!しっかりと伝えてきます!だから、父さまもご無事で!」
そう言い残して、タタラ場のサンも山犬の背に跨って去って行った。もうすっかり仲良しになったようで、父親としては安心なのだった。
さて、齎されたことの二つ目は、猩々たちがオンテギから与えられた筆と紙で製作した、まだ墨も乾ききっていない敵のシシ神狩り部隊の移動概況および、その装備や人の組み合わせについてであった。
「さて、問題はこっちだなぁ…森の中に火を放たれちゃつまらん」
ジコ坊がそうつぶやくのも無理はない。紙にははっきりと『石火矢多数』と書かれていた。
「どれ、状況を整理してみるかな…」
椅子にどっしりと座ったまま、オンテギはのんびりとそう切り出した。
「シシ神の森の伐採を行いつつ、こちらを待ち受ける侍が三万いないくらい」
「シシ神の首を奪るための部隊が千人で、石火矢の充足率が流石に高いな」
「タタラ場とは祀りの道を通じてのみ行き来が可能だが、最外郭にほど近いから失陥している恐れあり」
「タタラ場を包囲しているのは五万で、そこから近くの街道上に二万ほど…これが本陣くさいな」
「対して当方はタタラ場に三万人いないくらい、シシ神の森には猪神のナゴの守の一族が千あまりと、犬神が三柱、あと猩々が一杯…いるけど、荒事はなしなので撤退中」
「他にもいるけど攻勢には使えないから脇に置くとして、ふむ…頭数の差は、局所的にだけど最大で三十倍から五十倍の間くらいかな?」
「まぁ、こんなもんか…」
オンテギは眠そうな目をしたかと思えば、あくびを一つ。
「ふわぁ…今日は朝も早かったからかな、眠たいや」
「この状況で、まったく剛毅じゃのう…」
「ジコ坊こそ、タタラ場に籠っていてもよかったのに」
「いやいや、あそこにいると、ジコ坊様と紫衣をお仕着せられて拝まれるでな、まったく、拙僧には堅苦しくてかなわぬのよ」
ジコ坊は頭を掻き掻き、そう言った。気負った様子はない。
「にしても…神殺しの任を解かれたと思えば、今度はその神を守る側に立つことになろうとは…人生とはまっこと数奇なこと限りなしよ」
小さな声で「これでよかったんじゃろうか」と零したジコ坊を見て、オンテギはくしゃっと笑って言った。
「まぁ、好きにしたらいいさ。そこらへんは、それぞれの好みだし、自由、だからな」
「ならば、ここで、貴殿の隣で見届けようぞ」
オンテギと目が合う頃には、ジコ坊の顔には憂いなど微塵も残っていなかった。
「…とまぁ、そういうことよ…それで?今の状況とやらを、天下の大天主様はいかが視るのか?」
ジコ坊がそう言い、オンテギの目を覗き込んだ。
確かな信用からくる期待の視線に晒されて、オンテギは海に出たばかりの頃のことを思い出していた。
「なんとかなる!」
「へ?」
「この感じは!なんとかなる!」
「は、はっはっはっはっはっ!!!こりゃ、こりゃまいった、いやぁ、まいった!」
ジコ坊はツボに入ったのか笑いが止まらない。十万の武士が攻めてきたというのに、状況を整理した後での第一声が「なんとかなる」である。
人生経験豊富なジコ坊ゆえ、これが
だが、だからこそ、本当になんとかしてしまうのであろう、目の前の御仁と一緒にいる今と言う現実に、笑いがとまらないのである。
「と、冗談はここまでにして、次の報告が来たらナゴの守に突撃の準備を指示するよ。まずは、そこからだ」
「ナゴの守…あの大猪神か。準備など、もうとっくのとうに終わっとるじゃろうに」
「あいつ、ちょっとハイになってるんだよなぁ。でも、話の分かる奴だから、合図が先だってことくらい、ちゃんとわかってるよ」
大丈夫。大丈夫。と、オンテギは繰り返した。
「貴殿にそう言われると、本当にそんな気がしてくるから不思議じゃ」
「だって本当に大丈夫なんだから、それ以外になんて言えばいいのさ?」
「いや、まいったまいった…貴殿と話しておると拙僧が間違って居るような、不思議な気持ちにさせられるなぁ…まったく退屈せん」
そう言い、ジコ坊は「茶でも飲むか」と脇に置いていた葛籠から、タタラ場で作られた薬缶と輸入品の茶葉を取り出し、徐に支度を始めた。
「これも貰い物じゃ。タタラ場に来てからというもの、よくよく貰ってばかりだわ」
手際よく支度をしながら、茶葉を容れた布袋をシシ神の泉の水で満たした薬缶に入れ、岩の上で熾した火にかけた。
「そりゃ、ジコ坊だからだよ」
ジコ坊のぼやきに、オンテギは当たり前だと笑った。
「貴殿が言うなら、そうなのであろうなぁ…さ、飲もうか」
ジコ坊は木のお椀を二つ取り出すと、それぞれに半分ほど注ぎ入れた。
「うん、うまい」
ジコ坊はほうと息をついた。
「今日の昼は、またアレ作ってよ」
オンテギが言うアレとはアレである。
「貴殿も好きじゃなぁ…む、そんなことを言って居ると、来たようだぞ」
ジコ坊が照れくさそうに笑い、椀に口を付けようとしてやめた。
視線の先に目を配れば、オンテギの顔見知りの大柄な猩々が木々を伝ってくるのが分かった。
「おーう!みんな入ったか?」
気にせず茶をしばきながら尋ねるオンテギに、駆け寄ってきた猩々の頭は頷いた。
『入った!しびれを切らしてどんどん入ってきた!『谷間』に先頭が辿り着く前に間に合った!』
もたらされた報せは待っていたものだ。侍たちが遂にしびれを切らして森に続々と浸透を始めたのだ。
猩々の頭は、事前にオンテギから頼まれていた通りに、数万の大軍の大方が森に入り込んだのを見届けてから、こうして報告に来たのだ。
「うんうん、上首尾だ。いや~悪いな、守るためとはいえ、森に火ぃつける手伝いさせちまって」
オンテギは申し訳なさそうに眉を歪めつつも、労うように自分が使っていた椀に茶を継ぎ足して差し出した。
『オンテギ様が悪いわけじゃないのは、わかってる。だから、また一緒に木を植えよう』
猩々の頭は茶の湯気があがる椀を受け取り、一口つけてからそう言った。
「おう、お楽しみの為にも、まずは今を乗り越えんとな…お前が最後か?」
オンテギは腰を軽く上げると、尋ねる。
『皆、既に避難を終えた。いつでも大丈夫。燃えるのはサムライだけだ』
「よし来た!それじゃあ、俺たちも行こうか。
猩々の頭が避難していくのを見送って、オンテギは伸びを一つ。
「それじゃあ、始めようか」
傍らに置いていた身丈よりも長大で、分厚い鋼鉄製の強弓を手に、鏑矢を番えて一思いに引き絞り、放った。
『ピイイイィイイイイイイイイイイィィィィィイィッ!!!』
森中を優に超えて、海上のオンテギ一家の艦船上にまで届いた響きが已んだ瞬間、森の外周をなぞるように莫大な火の手が上がったのがわかった。
それは炎の壁のように湧き起こり、木々を松明に見立て、侍どもの帰り道を塞ぐように炎熱が立ちはだかったのだ。
それは遠目にもわかるほどの巨大な火柱を生み、タタラ場の人々に、その周囲を囲む武士たちに、街道上の本陣にいるアサノ公方に、そして何より、森の中で息を殺してその時を待ち続けてきた猪神一族の戦士たちに、機運の訪れを知ら占めたのである。